人間は常に空間に囲まれていることから,空間から学習される知識は,人間の活動にとって重要な意義を持つ。空間知識は大きく3種類に分類することができる。個々の場所に関する知識はランドマーク知識,一連のランドマーク及び行動の繋がりはルート知識,環境全体のレイアウト及び場所間のメトリック情報に関する知識はサーベイ知識と呼ばれる(Siegel & White, 1975)。これらの知識の学習過程に,どのような処理プロセスが使われているのか,情報はどのように流れるのかという問題は未だに詳細には解明されていない問題である。
空間知識を学習する能力には大きな個人差が存在する。この個人差は「方向感覚」とよばれることが多い。方向感覚とは位置または方向に対する意識であると定義されている(Kozlowski & Byrant, 1977)。方向感覚によって,獲得される空間知識の質が異なり,特にサーベイ知識の学習能力には大きな個人差が存在する(e.g., Ishikawa & Montello, 2006; Sholl, Kenny, & DellaPorta, 2006)。このような個人差は,方向感覚によって空間知識の学習プロセスが大きく異なることに依るものと考えられる。
これまでの研究では,空間知識の獲得能力の個人差をメンタルローテーション等の空間能力と関連づけて検討されてきた(e.g., Prestopnik & Roskos-Ewoldsen, 2000; Hegarty et al., 2006)。しかし,メンタルローテーションのような小規模空間の処理能力は,大規模空間の処理とは一部しか共通しておらず(Hegarty et al., 2006),方向感覚とは殆ど相関しないことが多く報告されている(Bryant, 1982; Hegarty, et al., 2002; Sholl, 1988)。そこで,本研究は知能的な能力でなく,情報の流れ,つまり各種の処理プロセスの関与に注目した。外部から入力される言語,視覚,空間情報は,脳内で適切に処理され,空間知識として貯蔵されていかれるものと考え,そうした問題意識から,各種の空間知識を学習する際に,どのような情報処理が関与するのか,また,そうした処理の関与が方向感覚によって,どのように異なるのかを検討することとした。
これらの問題を解明するために,第2章ではワーキングメモリの理論を援用して実験を構築した。ワーキングメモリとは,情報を一時的に保持しながら処理するシステムである(Baddeley & Hitch, 1974)。環境から入力される情報が長期記憶に送り込まれる前に,ワーキングメモリの中で言語,視覚,空間情報がそれぞれ独立したコンポーネントで処理されると考えられている。こうしたワーキングメモリーの構造を前提として,
第2章では二重課題法を用い,空間知識を学習する過程を言語的,視覚的,または空間的に選択的に妨害し,妨害を行わない条件と比べて,各種の空間知識の成績の変化を検討した。実験1ではランドマーク知識,ルート知識,サーベイ知識にそれぞれ必要な処理プロセスを調べ,その結果をもとに,実験2では,個人差の最も大きいサーベイ知識の学習過程をさらに詳しく調べた。その結果,方向感覚の良い人と良くない人の間では,処理プロセスが大きく異なることが明らかになった。方向感覚の良い人は,まず言語と空間の二重処理で,ランドマーク知識とルート知識を学習する。そして,同じく言語と空間の二重処理でランドマーク知識とルート知識を自己中心参照系のサーベイ知識に統合する。さらに,環境のレイアウトをより正確に表現するために,サーベイ知識を自己中心参照系から環境参照系に変換する。その変換過程において,方向の知識は視覚と空間プロセスによって処理され,距離の知識は言語と空間プロセスによって処理される。このような処理プロセスを用いて,方向感覚の良い人では,ただ一回の学習でも,環境参照系を用いて,環境のレイアウトをある程度把握できる。
一方,方向感覚の良くない人は,ランドマーク知識を学習する際に言語プロセスに強く依存し,そのことから,ランドマークの空間情報の符号化は困難になる。そして,ルート知識を学習する際には,空間的な処理は用いず,もっぱら言語的な処理と視覚的な処理に依存する。ランドマークとルートを符号化する際に,正確な空間処理が欠如しているため,サーベイ知識への統合に支障が生じる。つまり,方向感覚の良くない人は,言語プロセスに依存して,自己中心参照系のサーベイ知識をある程度符号化できるが,それを環境参照系のサーベイ知識に変換することができないことになる。これらの結果に基づき,空間知識の学習モデルを提案した。
第2章の検討結果によって,方向感覚の良い人と良くない人では,空間知識を学習する際に用いられる処理プロセスが大きく異なることがわかった。そこで,第3章では,これらの処理特徴に基づいて,処理プロセスの選択的な促進を試み,2章までの結果を検証することとした。
空間知識の学習には,複数の情報処理を同時に行う必要があり,特定の処理を促進すると,ワーキングメモリーの容量には一定の限界があるため,他の処理に振り向けられる容量が減少し,他の処理の成績が低下してしまう恐れがある。そのため,処理プロセスを促進するだけでは,必ずしも空間知識の学習を促進できるとは限らず,実証的な検討が必要である。実験3では,言語化操作を用いて,言語的な処理を促進することの影響を検討した。その結果,方向感覚の良い人のランドマーク知識の学習は言語化によって促進されたものの,サーベイ知識の学習は言語化によって妨害されてしまった。言語化によって,特徴的・命題的な情報処理が促進され(Schooler, 2002),それらの情報はランドマークの認識に重要であるため,ランドマーク知識の学習が促進されたものと考えられる。しかし,言語化は空間的な処理を妨害するため(Gilhooly, Fioratou, & Henretty, 2010),サーベイ知識の学習を妨害したものと考えられる。方向感覚の良くない人は元々言語的な処理に頼るため,言語化による成績の変化は認められなかった。
実験4では,空間知識を学習しながら,車の模型と物体を用いてルートの進行方向を模擬する空間操作を行った。このような操作では,環境のレイアウトを意識させ,ランドマークの場所やルートの形などの空間情報の処理を促進できるものと考えられる。実験の結果,空間操作は方向感覚の良い人のランドマーク知識を促進したものの,メンタルマップによる内的な操作を混乱させてしまい,一部の参加者ではのサーベイ知識の学習の成績が低下してしまった。一方,方向感覚の良くない人では,短時間の練習だけではこの空間操作をうまく使いこなせず,環境のレイアウトを意識しても,正確に把握することができなかった。また,言語化と空間操作のどちらも,ルート知識の課題成績には大きな影響は認められなかった。こうした結果は,ルート知識の符号化には,言語的・視覚的・空間的な様々な方略が存在し,処理プロセスの調整に対して,高い柔軟性を持つことによると考えられる。
本研究では,ワーキングメモリーを構成する各コンポーネントに対する選択的な妨害,促進を用いた実験によって,空間知識の学習過程における各種の情報処理プロセスの関与を明らかにし,また,各処理プロセスの関与の度合いが,方向感覚の個人差に依って異なることを明らかにすることができた。また,こうした結果に基づいた空間知識の学習に関する包括的なモデルを提案することができた。こうした結果は,心理学における学術的な意義も大きいが,将来的には,空間学習を補助する方策や,情報提供,補助手段の構築における基本的な枠組みを与えるという意味で実用的な意義も高い。