環境内には様々な情報が溢れており、ある情報を処理しようとしても、その他の無視すべき情報によって処理が干渉されることがしばしばある。物の色や形など2つの情報が互いに拮抗した認知的競合を処理する際には、識別が容易な情報からの干渉が識別が困難な情報からの干渉よりも強く生じることが示されている(MacLeod & Dunbar, 1988)。一方、日常生活では、環境の中にある複数の情動情報が拮抗した情動的意味を表すこともしばしばある。しかし、こうした情動的競合についての研究は認知的競合についての研究と比べて極めて歴史が浅く、結果も一貫していない。とりわけ、情動的競合が生じた際に、ポジティブな情報からの干渉とネガティブな情報からの干渉のどちらが強く生じるのか、という情動価の効果については、研究間で結果が食い違っている。
こうした結果の矛盾には、情動情報を識別する効率が個人によって異なることが関わるかもしれない。例えば,顔に表出された微弱なネガティブ感情を正確に読み取ることができる敏感な者もいれば、そうではない者もいる(例:Joormann & Gotlib, 2006)。認知的競合に関する先行研究では、識別が容易な情報の方が識別が難しい情報よりも、強い干渉をもたらすことが一貫して示されていること(MacLeod, 1991)を考えると、情動的競合を処理する際に受ける干渉の強さも、競合を引き起こす個々の情動情報を識別する効率に左右されていると考えることができる。つまり、ネガティブな情報を効率的に識別できる者は、情動的競合を処理する際にネガティブな情報からの干渉を受けやすいという可能性がある。
そこで本研究では、情動的競合がもたらす干渉の強さの個人差が、競合を引き起こす個々の情動情報を識別する効率の個人差に左右されるという仮説の検証を行った。具体的には、情動情報の識別に個人差をもたらすとされる不安特性とセロトニン・トランスポータ遺伝子多型(5-HTTLPR型)が、情動的競合を処理する際に受ける干渉の強さ、および単独で呈示された情動情報を識別する効率に及ぼす影響を検討した。その上で、ネガティブ情報を容易に識別できる者は、ネガティブな情報からの干渉を受けやすいというように、情動情報を識別する効率の個人差と干渉の受け方の個人差の間にみられる関係が、上述の仮説と整合性のあるものであるのかどうかを考察することとした。なお、単独で呈示された情動情報の識別は、上述の2つの要因に加えて性別によっても影響されることが示されている(Hoffmann et al., 2010)。従って、性別も干渉の生じ方に影響を及ぼす可能性があると考えられたため、不安特性や5-HTTLPR型の影響を検討する際には参加者の性別も考慮した。
第二章・実験1では、表情と音声が表す感情を拮抗させ、音声が表す感情を判断する際に表情がもたらす干渉効果と、表情が表す感情を判断する際に音声がもたらす干渉効果を検討対象とした。そして、ネガティブな表情を容易に識別できるとされる不安特性が高い高不安群と、そうではない低不安群の間で、それらの干渉効果を比較した。その結果、高不安群では、ネガティブ情報からの干渉がポジティブ情報からの干渉よりも強く生じることが示された。一方、低不安群では、ポジティブ情報からの干渉がネガティブ情報からの干渉よりも強いという結果が得られたが、この傾向は有意傾向に留まっていた。実験1の結果は、情動的競合を処理する際に受ける干渉効果に個人差があることを示すものであった。だが、そうした個人差が競合をもたらした個々の情動情報の識別成績の個人差に起因しているのかどうかについては直接結論を下すものではなかった。そこで、実験1において情動的競合を引き起こしていた情動情報を個別に呈示し、それらの情報が表す感情価を回答する際の正答率が低不安群と高不安群の間で異なるのかどうかを実験2において検討した。その結果、高不安群はネガティブ情報をポジティブ情報よりも正確に識別でないことが示された。それどころか、低不安群と同様に高不安群は、ネガティブ表情よりもポジティブ表情を正確に識別できることが示された。つまり、高不安群はネガティブ情報を比較的容易に識別できるわけではないにも関わらず、ネガティブ情報からの干渉がポジティブ情報からの干渉よりも強く生じることを確認することができた。こうした結果は、単独で呈示された情動情報を識別する効率の個人差が、それらの情報から受ける干渉の強さの個人差を必ずしも説明しないことを示唆するものであった。
第二章の結果を受け、第三章では、表情の識別に影響するとされる5-HTTLPR型を用いて、さらに仮説を検証した。実験3では、表情と情動語が表す情動価が競合した際に、それらの情報から受ける干渉効果を検証対象とした。そして、そうした干渉効果を5-HTTLPR型の異なるS型保有群とL型保有群の間で比較した。その結果、S型保有群に限り、ネガティブ語からの干渉が比較的生じやすいことが明らかになった。しかし、実験3の結果だけでは、S型保有群がネガティブ語からの干渉を選択的に受けやすいのか、それとも、情動情報に限らずに無視すべき情報全般からの干渉を受けやすいのか、判断することが難しいと考えられた。そこで実験4では、男性の顔と女性の名前というように顔と単語が表す性別の間で認知的競合を生じさせる課題を用いた。顔からの干渉と名前からの干渉に及ぼす5-HTTLPR型の効果を検討したところ、S型保有群はL型保有群と比較し、顔や名前からの干渉を受けにくいことが明らかになった。従って、S型保有群は、無視すべき情報全般からの干渉を受けやすいわけではないが、ネガティブ語からの干渉を選択的に受けやすいことが示唆された。
第三章の結果を受けて第四章では、S型保有群がポジティブ表情を識別している際にネガティブ語からの干渉を受けやすいのは、ポジティブ表情を読み取ることが困難であるためなのかを検討することとした。実験5では、喜びまたは悲しみ表情に対して情動価(快・不快)を9段階で評定させる課題を用いた。その結果、表情の評定における5-HTTLPR型の効果はみられなかった。しかし、段階的に情動価を評定させる課題では、中立的な値を回答しやすいというような反応バイアスが反映されやすいために、5-HTTLPR型の効果が見られなかった可能性もある。そこで実験6では、信号検出理論を用いて反応バイアスの影響を排除し、5-HTTLPR型が表情への感度(d’)に及ぼす影響を検討した。実験5と同じ顔画像を用いて、呈示された顔画像に何らかの表情があるか否かを回答する二肢強制選択課題を行った。その結果、悲しみ表情より喜び表情への感度が全般的に高いという先行研究と同様の傾向がみられた。だが、そうした喜び表情への感度優位性の強さは5-HTTLPR型によって異なっていた。具体的には、喜び表情への感度優位性がL型保有群では認められない場合でも、S型保有群において認められた。このように、S型保有群におけるポジティブ表情への感度は相対的に高いことから、実験3で示されたようにS型保有群ではポジティブ表情の処理がネガティブ語から干渉されやすいのは、ポジティブ表情を読み取ることが困難なためではないことが示された。つまり、第三章と第四章の結果は、第二章の結果と同様に、単独で呈示された情動情報を識別する効率が、それらの情報から受ける干渉の強さを必ずしも説明しないことを示唆するものであった。
第五章では、第二章から第四章で得られた結果を受け、総合的に考察をした。上述のように本論文の結果は、情動的競合を処理する際に受ける干渉効果の個人差が、競合を引き起こす個々の情動情報を識別する効率の個人差では必ずしも説明できないことを示すものであった。こうした結果は、効率的に識別できる情報ほど競合が生じた際に強い干渉効果をもたらす、という認知的競合に関する一連の報告とは異なるものであり、情動的競合処理における特徴であるといえるだろう。また、本論文は、情動的競合がもたらす干渉効果には個人差があることも明らかにすることができた。こうした主要な結果をまとめた後、結果の背後にある神経メカニズムについて考察し、本研究の臨床的な意義についても論じる。