本稿は、計画経済期(1950~1970年代)の中国における食糧政策を、工業化との関わりを中心に考察する。
1949年に成立した中華人民共和国は、1953年、第1次五カ年計画とともに工業化を本格的に開始した。朝鮮戦争を契機とする西側諸国の封じ込め政策のもと、中国政府はソ連式の経済モデルに則り、工業化を推進するための資金・資源を主要産業たる農業部門から獲得した。その際、農業部門から工業部門への資金・資源の移転方法は、主に2つ存在した。
第一は、農業部門に対する直接的課税である(主なものとして農業税が挙げられる)。政府はこれを通じて財政収入を確保し、工業建設投資に振り向けようとした。
第二は、農業部門に対する価格政策を通じた間接的課税、すなわち低価格による農産物の買い上げである。低い価格で買い上げられた農産物(主に食糧)は、都市の労働者に低い価格で提供された。これにより政府は、労働者の賃金を低く抑え、国営企業の利潤、したがってまた国営企業から政府への上納分を、より多く確保することが可能となった。こうして政府に集中した資金は、工業化に投入された。また同時に、低い価格で買い上げられた農産物は、高い国際価格で国外に輸出された。そこで得られた差額分の外貨収入は、工業化に必要な資材・技術の輸入に用いられた。
人民共和国における食糧政策は、本来であれば以上の役割を果たし、工業化を支えるものとなるはずであった。しかし、食糧政策の展開を1950年代から1970年代まで見通した場合、それはむしろ工業化を抑制する役割を果たしたことを指摘しうる。食糧政策は、具体的にいかなる形で工業化を制約したのか。そしてなぜこうした事態が出現したのか。これが、本稿が解明しようとする問題である。
第1章では、1950年、農業税額の査定を目的として開始された土地調査、査田定産工作を考察する。農業税とは土地に課せられる税を指すが、現物納の割合が高い特徴を持つ。したがって政府にとっては、財政収入の重要な一角を占めると同時に、現物の農産物を確保する点でも大きな意味を持っていた。査田定産工作の過程で、従来捕捉されなかった耕地等が統計に組み込まれ、生産量統計したがって課税額が大幅に増大した。これは本来、政府の意図通りの展開であったが、税額増大に対する農民の不満は大きく、1953年、政府は査田定産工作の継続を断念した。その結果、課税基準となる平年収量は、実際の収量を大きく下回ったまま据え置かれた。1958年になって1953年時の平年収量が改定されたが、この時も土地調査は行われず、数字上の微調整にとどまった。こうして農業税額は伸び悩み、1970年代末に至るまで1958年の水準を超えることはなかった。以上の経緯は、中国の農業生産力が低水準であったために、農業税額の引き上げが困難であった状況を物語っている。
第2章では、1950年代の主要輸出商品であった食糧の貿易構造を通じて、中国の外貨獲得がいかなる状況にあったのかを考察する。1950年代の食糧輸出を1930年代のそれと比較すると、規模のうえでは大差がなかったが、品目のうえでは従来の大豆に加えてコメの割合が高まった。これはコメの国際価格が高かったことを背景として、効率的な外貨獲得が目指されたことを示す。1950年代、食糧生産量に占める輸出量の割合は微小であり、また輸出量は生産量に連動したが商品食糧には連動しなかった。ここから、食糧輸出を通じた外貨獲得が低い生産力によって制約されていたこと、そして政策の優先順位は対外輸出よりも国内供給が主であったことを指摘できる。なおアジア諸国とのコメ貿易においては、高い国際価格での輸出を通じた効率的な外貨獲得が、必ずしも目指されたわけではなかった。すなわちここでは、食糧危機という相手国の事情に配慮した、廉価でのコメ輸出が行われた。これは中国が、1951年の対中国禁輸措置による国際的孤立を打開し、貿易正常化を模索した結果であった。裏を返せば、中国の外貨獲得は、冷戦体制下の不利な地位によっても制限されていたと言える。
第3章では、工業化の担い手たる都市労働者への食糧配給がいかに行われたのかを、1950~1970年代を通じて考察する。1955年に配給政策が導入された目的は、工業化の開始とともに農村から都市への人口移動が活発化するなか、都市在住者のみを対象に効率的な食糧分配を行うことであった。したがって都市への食糧供給が規制されることはなく、1950年代後半を通じて都市人口は増加の一途をたどった。1960年代初頭、大躍進政策の失敗とともに食糧危機が発生すると、配給政策と戸籍管理制度は一体となって、都市人口の削減すなわち大規模な帰農政策に取り組んだが、これは工業化の停滞をもたらした。同時に、農業部門が提供可能な商品食糧の規模に合わせて、都市人口と工業化の規模を決定する方針が、政策当局によって強く意識されるようになった。1970年代、以上の方針は徹底化され、都市向け食糧供給量は商品食糧の増減に応じて推移するようになった。1960年代以降の商品食糧が1950年代の水準を大幅に上回ることはなかったことから、これはすなわち、工業化が商品食糧の規模によって制約されたことを意味した。
第4章では、1966年における食糧買い付け価格の引き上げを考察する。1960年代前半、大躍進政策への反省から、従来の「重工業偏重、農業搾取」の工業化モデルが見直され、農業部門への投資が重視されつつあった。しかし同時に、国際関係の悪化を背景として国防・重工業建設が引き続き重視された。こうしたなか食糧政策においては、大躍進政策後の食糧危機の影響で市場価格が上昇し、政府買い付けを確保するためには公定価格を引き上げざるを得ない状況が出現した。しかし価格引き上げは財政負担の増大、ひいては国防・工業建設にも影響を及ぼすため、政府内での反対意見は強かった。こうして農業と国防・重工業とは、予算配分をめぐって衝突した。結果として1966年に食糧買い付け価格は引き上げられた。これは一面では、大躍進政策後の食糧不足が結果として工業建設投資を抑制する一因となった事実を示すものである。しかし同時に、この時の価格引き上げ幅が不十分であったことは、1960年代後半以降の食糧生産の停滞をもたらし、その後の経済運営を困難にしたという意味で、より重大であった。
第5章では、1950~1970年代における綿花生産の推移を、食糧生産との規定関係を軸に考察する。大躍進政策の失敗以後、食糧に代わって主要な輸出商品となったのが繊維製品、なかでも綿製品である。しかし外貨獲得に直結する綿製品の生産拡大は、1970年代に至るまで原料不足によって阻まれたと言える。本来、食糧作物と綿花とは作付けのうえで競合するため、政府は両者の買い付け価格比を調整することにより生産をコントロールした。その結果、1950~1960年代においては食糧の単位面積当たり収量に応じて、翌年の綿作面積が決定される傾向が見られた。これは食糧の確保を第一としつつも、許容される範囲内で最大限に綿花増産を追求する方針を示すものであった。1970年代以降、人口当たりの食糧生産量が伸び悩み、綿作地においても食糧買い付けノルマが引き上げられた。その結果、綿作地では無理な多毛作化を通じて食糧が確保されたが、これは地力の消耗、ひいては綿花生産の低迷をもたらした。以上のように、1950年代以降の綿花生産は食糧生産によって規定されていたが、特に1970年代以降は食糧不足が綿花生産を著しく制限したと言える。
終章においては、改革開放後の食糧政策を概観することを通じて、1980年代以降における食糧不足の緩和が、中国の工業建設および経済成長の前提となっていたことを確認する。さらに、中国のみならず戦後の他のアジア諸国においても、食糧不足の解消を契機として工業建設が軌道に乗ったこと、裏を返せば、食糧不足による工業化の停滞という局面が、計画経済期の中国だけでなく、アジア諸国において広く共通していたことを指摘する。
最後に、以上の各章からは下記の点を指摘しうるだろう。すなわち、計画経済期を通じて、時期により論調の変化はあったものの、基本的には「重工業優先」政策が一貫して採用された。そのため農業部門への投資は相対的に抑制され、従来低い水準にあった農業生産は必ずしも十分に増大しなかった。その結果、政府は工業化に従事する労働者を大規模に扶養することができず、また食糧や綿製品の輸出を通じた外貨獲得も制限された。こうして、工業化の進展はむしろ制約されてしまったと言える。