本博士論文は、近世日清通商関係を維持するための仕組みと要因を検討したものである。
近世日清通商関係の特徴は、国交はもちろん、直接的な交渉手段さえ欠如する環境のもとで、幕府・清政府とも公認した中国船貿易が長期に亘り比較的平和裏に維持されていたことにあると思われる。しかし、日清通商関係には、清政府の日本銅への需要と幕府の銅輸出制限との対立があった。なぜこうした対立がありかつ直接の交渉がない環境の中で、日清間の貿易関係は長期かつ安定的に維持されたのか。その理由を探ることが本研究の中心課題である。
第一部は、日清両政府がともに認めていた信牌システムの成立過程と仕組みを論じた。近世において、日中両国は、互いに相手国の特産品を必要としていた。しかし、双方ともが認める貿易上の仕組みが成立しなければ、中近世移行期の「倭寇的状況」が再び現れる可能性もあった。幕府の貿易制限に伴う「密貿易」の発生は、まさにそういった動きの兆候だった。信牌制度は貿易統制の方針を守りながら「密貿易」を有効に防ぐ措置として幕府が導入しものであった。では、信牌制度は通商関係の安定性と長期維持においてどのような役割を果たしていたのか。これが第一部の課題である。
第一章では、まず、信牌の記載要項を新例の関連規定と突き合わせながら分析を行い、幕府が考案した信牌制度のメカニズムを説明した。それにより、信牌が商人の貿易資格をチェックするための証明書でもある一方、主に貿易の規模を調整する手段として期待されたという結論を得た。さらに、幕府がどのように清政府の信牌没収による貿易秩序の混乱を乗り越えたのかという問題点に注目し、吉宗期の幕府が、新規信牌を発行することと、信牌の更新を利用して次回の来航予定年を調整することなどにより、数年を経て年間来航唐船の数を概ね予想の範囲内にコントロールすることができたことを明らかにした。最後に、商人間の信牌の所有権をめぐる紛争事件の事例分析を通じて、長崎奉行所が、長崎で紛争の当事者を呼び寄せ、尋問したうえで信牌の帰属を決め、そして信牌譲渡の場合、信牌名義人の印鑑などの提示を要求したことを明らかにした。
第二章は、信牌制度の基礎課題として信牌方の任命経緯と職務などについて考察した。結論としては、新例発布直後、唐通事が信牌担当から外され、その後幕府の任命した書物改役(輸入漢籍の検閲を担当)向井氏と、その配下の役人から選ばれた補佐役が、長崎で信牌方と呼ばれ、信牌の作成・チェック・更新・発給などの一連の事務を実際に担当していたことを解明した。
第三章は、雍正朝・乾隆朝の档案史料を利用し、清政府の信牌対策を明らかにした。すなわち、商人の信牌使用を許可した後、各省の銅調達官は、信牌の購入か信牌商人の直接募集の形で、信牌を柔軟に利用していた。さらに、一七二〇年代後半、銅調達の遅滞問題が深刻化したなか、江蘇省の官署は、銅滞納の商人から信牌を没収して保管する措置をとり、さらに信牌を新規商人へ売り出すまたは賃貸すべきという信牌の再配分案を提示した。その後、信牌の再配分案は実行に移された。これにより、日清双方の信牌利用に基づく信牌システムが確立されたのである。
第二部は、唐船・唐人「違法」に対する幕・関係諸藩の姿勢について考察した。信牌システムだけでは、貿易をめぐるすべての問題を解決できるわけではなかった。互いに相手国の特産品への需要がある限り、貿易統制の枠組みを超える民間レベルの私的取引、いわば「密貿易」の発生は必然であったと言える。第二部の課題は、「密貿易」を中心とする「違法」に対する幕府の法的規制がどのようなものだったのかを解明することである。
第四章は、「違法」唐船問題を扱っている。先行研究によれば、享保期において、幕府は唐船「打潰」(撃沈)までの厳しい打ち払い(武力行使による追い払い)を諸藩に実行させたという。しかし、「打潰」のような過激な唐船攻撃に対し、実際に幕府・藩はどのような態度をとったのか。この課題は、萩・福岡・小倉三藩の藩政文書などを照らし合わせて読むことを通じて明らかになった。すなわち、幕府は、「密貿易」船に対して打ち払いを行い、唐船が逃走・反撃した場合は「打潰」してもいいという原則を示している。福岡藩が唐船を「打潰」した後、幕府は長崎奉行を通じて、「打潰」が好ましくないことを三藩側へ伝えた。また萩藩領の沖で唐船「打潰」が発生した後、攻撃されても逃走しない唐船に対しては、船の状況すなわち船具損害の有無をまず確認すべきという穏便な対応方法を指示し、藩側のやりすぎた唐船攻撃を抑制しようとした。その背後には、日清通商関係の悪化への懸念があったようである。
第五章の課題は、「違法」唐人の処罰をめぐる幕府の態度である。通説としては、幕府が「日本之刑罰」を異国人に適用しないことを原則としたという。しかし、『華夷変態』・『唐通事会所日録』・『通航一覧続輯』などの関連史料から、通説と異なる結論が読み取れる。すなわち、新例では「我国の人を殺すものハ下手人を出すへし、傷つけ候ものハ其軽重に隨ひ過料を出すへし」という処罰原則を提示している。さらに一八一二年、長崎奉行遠山景晋らは、敲・入墨を唐人への刑罰に取り入れようとしたが、清政府または在唐荷主からの承諾を得られず、身体刑の導入を棚上げにした。また一八三五年、唐人「騒動」の頻発を背景に、老中大久保忠真は、敲・入墨を唐人に適用するよう指示した。しかし翌年の唐人「騒動」に対し、中国船乗組員一八人を一年間拘束したが、身体刑は科さなかった。
第三部では、次の発想に基づき、中国商人の組織化という課題を取り上げた。通商関係の不安定要素として、唐船商人の個人的・分散的な取引方式も挙げられる。オランダ商人の場合は、貿易会社の形で一元的に対日貿易に臨んでいた。幕府のオランダ船向けの貿易政策は、オランダ商館側の承諾を得られるなら概ね貫徹でき、信牌を発給する必要はなかった。しかし、唐船側においては、信牌制度が導入されても、信牌の所有権をめぐる紛争が頻発し、貿易秩序の維持は容易なことではなかった。これにより、組織的な取引の必要性が生じた。
第六章は、内務府商人范氏の債務問題に注目し、官商銅調達体制の成立と展開を考察した。范氏は、一七三〇年代前後、ジュンガルとの戦いに参加した清軍のため、食糧の運送を担当していた。しかし運送先の調整に伴い、先払いされていた運賃の一部の返上を要求された。范氏は、日本から銅を輸入して納銅により債務を返済することを政府に申し出た。あたかも、政府が銅調達商人を応募していたため、こうした范氏の願は認められ、翌年に官商の銅調達が始まった。一七四四年、ほかの商業分野に生じた政府への債務も通算され、范氏が引き続き銅調達で債務を返済し、輸入銅を指定各省へ運送することとなった。しかし、范氏の銅輸入はうまくいかず、上納期限は幾度も延長された。こうした范氏の債務返済の長期化に伴い、官商による日本銅の調達体制は次第に定着した。
第七章は、民間商人すなわち民商の日本銅輸入と額商(官許を得て決められた人数で民商の対日貿易を一手に引き受ける商人組織)の成立について検討した。額商の成立については、諸説が併存していることは研究の現状であった。しかし、額商の成立時期と原因を確認できる一次史料を発見した。これらの史料によれば、一七三七年の銅調達改革以後、民銅(民商の輸入銅)官収の体制は次第に整えられた。一七五五年、銅貿易商人一二人は、負債で引退した元銅調達請負商人の債務を代わって返済することを承諾したうえで、対日貿易を一手に引き受けるという特権を清政府から獲得した。しかし、それは期限付きのもので、かつ他地域の商人の貿易参入を否定するものではなかった。一七六九年、雲南銅の生産量の下落を背景に、福建省は中央政府の指示を受けて、地元の商人を日本銅の輸入に従事させた。額商と官商は、福建商船の貿易参加が清政府の民銅官収の妨げになるとして官署に訴えた。朝廷の審議を経て、福建省の長崎への商船派遣を停止することとなった。これにより、額商・官商による対日貿易の独占体制は、名実ともに確かなものとなった。
また、補論では、清朝の档案史料に見られる日本関係の記事に注目し、清朝が近世日本の対外関係をどう見たかについて検討した。まず、『明史』・『武備志』・『海防纂要』にある関連記事に依拠して、豊臣政権が周辺諸国の入貢を促したことや、幕府が薩摩を通じて勢力を琉球に伸ばしたことなどが、日本が勢力圏を拡大しているイメージを中国の官僚・知識人に与えたことを明らかにした。さらに、陳昴上奏・李衛上奏を解読したうえで、清政府が日本とキリスト教諸国との関係悪化、日朝間の使節派遣と釜山貿易の実態などの情報を入手したことを解明し、海防を担う官員の情報収集により、清朝が幕府の対外関係の枠組みを概ね把握していたことを指摘した。
最後、終章で以下のことを結論づけた。日清双方の信牌利用に基づいて確立された信牌システムは、日清貿易の制度的基盤として通商関係を維持する役割を果たしていた。また、唐人・唐船の「違法」に対する幕府の柔軟な対応と、官商・額商の成立を契機とした中国商人の組織化も、通商関係の安定化を促した要因と考えられる。