本稿は、マルブランシュの自然的判断理論の生成と発展を論ずる。そして、マルブランシュの「神」が真理から次第に秩序、価値という実践的領野へと拡張される事の次第を追うことを目的とする。

本稿は序章、第一章、第二章、第三章、終章から成る。

第一章では、物体の認識を可能にする理論的条件を検討する。マルブランシュにおける延長概念には、叡智的延長、物質的延長、感覚的延長の三者がある。一般的な叡智的延長が存在論的に個別化されたものが物質的延長であり、認識論的に個別化されたものが感覚的延長である。ところで、感覚的延長は、何によってその個別性を得るのか。これにつき、マルブランシュは叡智的延長の触発という理由と、心身結合(の法則)に基づく理由の二つを提出する。ところが、前者からは個別性の論理は出てこないため、後者の心身結合の法則によるより他ない。そしてこの心身結合(の法則)は、物質的延長の個別性に対応した個別的な感覚を神が我々に与えるということを内実とする。したがって、これによって物体の認識は完了するように思われる。ところが、マルブランシュは物体の認識は、神の内なる叡智的延長によって認識されること、すなわち「総てのものを神の内に見る」理説を主張していた。心身結合の法則だけでは不足なのか。不足である。なぜなら、マルブランシュはデカルトの心身二元論を採用した結果、精神が延長的な物体に関わる方途を失い、そもそも延長に関わることすらできないはずだからである。それゆえ、非延長的精神が延長的物体を認識するためには、(1) 物質的延長の原型たる叡智的延長が神の内に在り、(2) 神と人間精神が合一している、という二条件を通じて、非延長的精神を延長の場に引きずり出し、関わらしめることが必要である。この叡智的延長の一般的背景を地とすることにより、ここに図としての感覚的延長が浮かび上がる。ここに感覚が延長性を取得しうるのである。すると、物体の認識は、感覚を心身結合(の法則)によって惹き起こし、「総てのものを神の内に見る」理説によってこれを延長に関わらせることによって完成する。すなわち、心身結合(の法則)という実効性の理論と叡智的延長の一般性の理論の二つが揃って初めて完成する。また、それで十分である。すると、最初に叡智的延長が魂を触発するという理論は不要ではないか。確かに不要なのかもしれないが、この触発理論は、叡智的延長が、心身結合(の法則)の担っていた力能をも自らに吸収することによる、理論の一本化を図るものである。これによって、結局、「総てのものを神の内に見る」理説だけで理論的認識の条件は尽くされているといえるのである。

第二章では、具体的な空間規定を伴った物体の認識について論じる。そのためには、個別の物体の存在が前提されねばならないが、マルブランシュは物体の存在証明を放棄しているのであった。だがこれは物体の不存在を積極的に証明するものではなく、むしろ彼は物質的実在論に立っている。他方、この個別的物体の存在を我々に通知する感覚には判断が伴う。そこで、感覚に含まれた判断、すなわち、自然的判断の内実を把握する必要が生じる。ところがこの自然的判断の内容は、初版と第二版以降では大きく理論が変更されており、生成論的視点をもって、これを把握する必要がある。

初版における自然的判断を論ずる前に、マルブランシュが「延長そのもの」と呼ぶものについて検討を加える必要がある。なぜなら、第一性質における自然的判断は、この「延長そのもの」に則って訂正されるからである。ところがマルブランシュは「延長そのもの」という概念が認識できないことを、形而上学的・経験論的の二根拠で示す。だが、第二の根拠は、延長そのものを、彼は無自覚にも、触覚ないし肉体の運動を範に求めたものであり、そうした既知なるものであるからこそ、延長そのものを「正」なるものとして自然的判断に援用しうるのである。だがこの無自覚な経験の援用は、マルブランシュの自然的判断の体系に困難を惹き起こすが、他方で自然主義の発見をももたらすのである。

まず形状に関する初版の自然的判断を検討すると、この自然的判断が視覚的感覚を訂正するものとして語られる。しかしこの自然的判断は習慣化した意志の判断であり、いまや感覚と混同されてしまったものとして扱われている。「延長そのもの」について語りえないとしたはずのマルブランシュが、習慣によって視覚を訂正するということは実際不可能なはずであるが、彼は延長そのものの身分に無自覚であるがゆえに、これを「真だから真だ」という形でしか、すなわち、自然主義の形でしか提示できない。他方で、距離に関する自然的判断に関しては、「自然的」の語を冠することもなく判断が語られる。その理由は、形状の場合と異なり、距離の自然的判断には訂正の要素を自覚していないからである。つまり、距離の自然的判断に関しては、感能の誤謬論のうちに内容が収まっており、「延長そのもの」を認識できないものとして、誤謬の地位に投げ込まれることになる。さらに、第二性質の自然的判断については、精神に帰属しているはずの感覚を身体や物体に帰属させる点、すべて誤謬だとされる。すると、第一性質の自然的判断は、今度は「真」を語る身分として復権を受け、かたや第二性質の自然的判断は全て偽とされる。するとここに、自然的判断を、彼は無自覚にも三つの基準をもって真偽判断をしていることが明らかになる。

次に、初版の自然的判断が棄てられ、第二版へと発展した動機を追究するが矛盾は発見できない。そこで先の三つの基準の場当たり性に眼を向けよう。これらの三つの基準の内、特異な「真」の身分で語られる形状についての自然的判断は、何をもって真とするのか。マルブランシュはこの相対的固定性を触覚-運動起源としているのだが、これに無自覚ならば、彼は「真だから真だ」という自然主義を押し進めるしかない。しかし、この強弁ともいいうる主張に、理論的枠組みを与える余地は、別のところに見出される。それは、彼が明証性を参与させず、かつ、判断の名を与えていない生命原理である。食の選り分けを可能にさせる、いわゆる本能にこそ、彼は自然的判断のモデルを見出す。ここに、この相対的固定性は、触覚-運動経験の習慣論を脱し、自然主義にいったん譲り渡され、遂に神より賜る目的原理のうちにその安住を見出すであろう。ここに第二性質と快苦原理との区分、および、第一性質と第二性質との区分が、生命原理の名のもとに決壊し、一元化される基礎が見出される。

生命原理に基づくという新たな規定を得た自然的判断は、第二版以降各場面において様々な変化を惹き起こす。形状の判断においては、自然的判断は意志の秩序から神の判断へとその足場を移転させる。与件は神に与えられ、この複数の与件に基づいて神が判断し、その判断を我々に感覚として与える。したがって、自然的判断は「合成された感覚」といわれることになる。また、距離の判断においては、初版においては習慣に根付かせようとしていた、意識されない与件に基づく計算を、神の計算に堂々委ねるに至る。ここにマルブランシュは理性と感能の区分をも決壊させることになった。そして、この自然的判断は、現代の現象学が述べる「世界内存在」の描写にほかならなかったことを結論する。

第三章は、叡智的延長ではなく秩序の観念に前二章を繋ぐ価値を見出そうとする試みである。一般性のうちに身を置くことでおのずから個別性が浮き出てくる様子が一見前二章の共通特性に見えるも、第一章の個別性は価値について無記であるため、両者に共通性はない。そこで眼を向けるのは、叡智的でありながら価値を担当すると思われる「完全性の関係」、そしてその総体としての秩序である。ところで「完全性の関係」の叡智的身分が、「大きさの関係」のごとく比較可能性に支えられないため、感覚へと混濁してゆく可能性が否定できない。また、「完全性の関係」は運動原理であることを彼は指摘するが、観念という静的原理がなぜ動的原理を生み出しうるのか、不明である。

「完全性の観念」の叡智的身分の確保については、結局確たる根拠がないまま、三位一体の玄義へと帰せられることになる。他方、運動原理の根拠は、「感得の恩寵」と「神による絶え間ない刻印」の両者が目されるも、前者は静的原理の「光の恩寵」を助力し、精神の自由を補助するためのものであり、後者は「光の恩寵」と相伴って一般善への魂の運動を可能にするものである。前者の動的原理は、いわば精神の水平運動、後者のそれは、いわば精神の垂直運動と名づけられよう。ところで、この垂直運動を可能にするには、「光の恩寵」という知的・静的一般性と、「神による絶え間ない刻印」という意志的・動的一般性だけでは足りない。前者に「精神の注意」が与えられることで個別善が発見され、後者の一般意志が個別善への愛へと転じるのである。すると「精神の注意」こそ静的原理と動的原理の橋渡しであると見越される。

ところでこの「精神の注意」は意志の作用であるため自由概念を探究せねばならない。我々は「向け換えの自由」と「不同意の自由」の二つの自由をもつが、我々に向け換えない自由はなく、また、一般善の獲得は不可能であるため、我々は堕落へと運命付けられ、その堕落から一般善を希求するだけの存在であることが帰結する。だがそうだとすると、秩序の観念が、明証的に知られないことが必要になる。実際マルブランシュは精神の善にたいして「かならず疑うべき理由」があることを明言する。しかしこの言葉をマルブランシュは正面きって認めないまま、秩序の観念が曖昧になる理由を「精神の注意」の散漫に帰する。しかし、「かならず疑うべき理由」があるのは、叡智的観念に「無限の程度の完全性」があるという観念側での原理的な問題にほかならないのである。すると、我々が堕落するには、「精神の注意」を無限の諸程度にあわせて向けられれば足りる。ここで我々は、マルブランシュが「精神の注意」として想定しているのが、真面目で苦痛を要する「硬い」注意のみならず、欲望と連続性をもつ「柔らかい」注意もあることを指摘する。これによってこそ、「精神の注意」は身体の善のみならず、ありとあらゆる階層の秩序にたいしても向けうるのであり、それゆえ我々は個別善への同意はつねに可能であり、自由が確保されるのである。

ところで、運動原理の説明には、「精神の注意」を経由しないもうひとつの説明をマルブランシュはなしている。すなわち、秩序の観念を原型として存在論的に個別化された、実在的美ないし善を我々が認識するという仕方である。個別的美の実在性につき疑念を抱かせるマルブランシュの記述は存在するが、それは「感覚的美」と「秩序の美」を分断することで斥けられる。そして、物質的延長と同じ仕方で我々は個別的美を見るので、秩序の観念を所有するだけで、「精神の注意」なくして美を認識する。このとき「善と快の比例関係」という公理によって、我々は対象を愛するように仕向けられるのである。

ところで最後のアプローチは、われ知らず価値的世界を判断しているという自然的判断理論の、価値世界への拡張であることが見込まれる。自然的判断が感覚であり、秩序とは本来叡智的対象であるという相違を確認しつつも自然的判断理論が価値的世界へも妥当する「世界内存在」の新展開であることを結論する。