本研究は、網膜の第2次ニューロンである双極細胞間に存在するギャップ結合の性質と視覚情報処理に果たす機能を実験的に検討したものである。
第1章では、本研究の背景とこれまでに行われてきた研究について概観した。
外界の情報は、各感覚に特化した感覚受容器によって受け取られ、主に脳・中枢神経系によって処理される。その結果、われわれは外界を知覚すると考えられている。神経系における情報処理とは、ある特定の神経回路網において、その構成要素である神経細胞による入力情報の時空間的統合処理と、神経細胞間で行われる情報の授受を意味する。したがって、神経回路網における各神経細胞の情報処理と神経細胞間の情報伝達を理解することが、知覚のメカニズムの解明に繋がるといえる。
視覚系において、網膜は最初に外界からの情報を受け取る組織であるが、単なる光受容器ではない。これまでの研究から網膜では運動検出やコントラストの増強、光順応などの情報処理が行われていることがわかっている。したがって、視覚系情報処理を解明するには網膜における情報処理を明らかにすることが必要不可欠である。
神経細胞間の情報伝達様式は、化学シナプスと電気シナプスに大別できるが、主たる情報伝達は化学シナプスによって行われている。しかし、網膜の1つの特徴は、ギャップ結合による電気シナプスが豊富に存在していることである。したがって、網膜における情報処理を解明するには、化学シナプスだけでなく電気シナプスについても、それがどのような機能を持っているのかを明らかにしなければならない。
網膜における電気シナプスについてはこれまで多くの研究がなされ、その性質や機能について明らかにされてきた。しかしその一方で、双極細胞間の電気シナプスに関してはその存在自体はすでに報告があるものの、その性質や機能については不明な点が多い。そこで、本研究ではキンギョ網膜のMb1型(オン)双極細胞を用いてギャップ結合の性質及び機能について検討した。
第2章では、本研究で用いた実験手法について詳細に記述した。本研究では電気生理学的実験、トレーサー結合実験、コンピュータ・シミュレーションを行い、キンギョ網膜のMb1型双極細胞間のギャップ結合の性質と機能を検討した。
電気生理学的実験では、主に網膜スライス標本を作成し、ホールセル・クランプ法をMb1型双極細胞、アマクリン細胞、神経節細胞に適用し、1細胞のみならず、必要に応じて2細胞あるいは3細胞からの同時記録を行った。
トレーサー結合実験では、剥離網膜標本を作成し、1個のMb1型双極細胞にトレーサーであるneurobiotinを記録用電極から導入した。記録終了後にneurobiotinを可視化して、細胞間の結合を検証した。
コンピュータ・シミュレーションでは、過去に行われた研究と本研究から得られたデータを基にMb1型双極細胞の電気的ネットワーク・モデルを構築し、Mb1型双極細胞間のギャップ結合のコンダクタンスや、コンダクタンスと受容野サイズの関係について推定した。
第3章では、電気生理学的実験及びトレーサー結合実験を行い、Mb1型双極細胞間のギャップ結合の性質を検討した。
トレーサー結合実験から、Mb1型双極細胞は周囲にある約6個のMb1型双極細胞とギャップ結合を形成していることがわかった。また、2個のMb1型双極細胞から同時記録した結果、このギャップ結合は電気シナプスとして機能しており、Cx35(哺乳類Cx36と相同なコネキシン・タンパク)から構成されていることが示唆された。さらに、細胞体から離断された軸索終末部や、軸索終末部を切断されたMb1型双極細胞を用いた実験から、Mb1型双極細胞は樹状突起でギャップ結合を形成していることがわかった。
隣接する2個のMb1型双極細胞からの同時記録により、ギャップ結合には、電位依存性や整流性が無いこと、また、10 Hz付近に遮断周波数をもつローパス・フィルタの時間周波数特性を持っていることがわかった。
Mb1型双極細胞間のギャップ結合は光順応によって制御されており、明順応条件下では暗順応条件下に比べてコンダクタンスが大きいことがわかった。
第4章では、コンピュータ・シミュレーションによって、まずギャップ結合のコンダクタンスを推定した。トレーサー結合実験から1個のMb1型双極細胞は隣接する複数のMb1型双極細胞とギャップ結合を形成していることが明らかになった。したがって、単に隣接する2細胞からの同時記録を行っても、2細胞間にあるギャップ結合コンダクタンス(Ggj-real)を求めることは困難である。そこで、コンピュータ上に2次元のネットワーク・モデルを構築し、シミュレーションによってGgj-realを推定した。その結果、Ggj-realは暗順応条件では1~2 nS、明順応条件では、2~3 nSとなり、生理実験から求めたコンダクタンスは過小評価されていることが示唆された。
次に、ギャップ結合のコンダクタンスの変化がMb1型双極細胞の受容野サイズに及ぼす影響について推定した。その結果、ギャップ結合のコンダクタンスが光順応によって変化しても受容野サイズにはほとんど影響を及ぼさないことが示唆された。これは、ギャップ結合のコンダクタンスと個々のMb1型双極細胞の入力抵抗がトレードオフの関係にあるためであることが推察された。
第5章では、Mb1型双極細胞がギャップ結合を介して互いにどのような情報伝達を行っているかを検討した。2個のMb1型双極細胞から自発性の膜電位変動を同時記録したところ、膜電位変動はギャップ結合によって細胞間で同期しており、また個々の細胞が持つノイズは減少してS/N比が改善されていることが明らかになった。ただし、同期強度の長さ定数は約25 μmであるのに対し、樹状突起の広がりは直径約30 μmであったことから、このような機能は比較的近傍にある細胞間でしか実現できないことが示唆された。
これまでに、Mb1型双極細胞は特に暗順応条件下では光刺激に対してCa2+依存性の活動電位(Ca2+スパイク)を発生させやすいことが報告されている。隣接する2個のMb1型双極細胞から同時記録を行い、電流注入によって一方の細胞にCa2+スパイクを発生させると、ギャップ結合を介して電気緊張性に他方の細胞を脱分極させ、その結果この細胞でも約10 msの遅延後にCa2+スパイクが発生することがわかった。このような現象は隣接していないMb1型双極細胞間でも観察されたことから、Mb1型双極細胞の電気的ネットワークでは、Ca2+スパイクを用いて遅延を伴った広範囲にわたる情報伝達が行われていることが示唆された。つまり、双極細胞間の電気シナプスでは他の神経細胞間の電気シナプスで行われているような受動的な情報伝達だけではなく、Ca2+スパイクを使った能動的な情報伝達も行われていることが明らかになった。
第6章では、Mb1型双極細胞の電気的ネットワークにおけるCa2+スパイクを使った情報伝達が、神経節細胞やアマクリン細胞へのシナプス伝達にどのような影響を及ぼしているのかを検討した。Mb1型双極細胞と神経節細胞の同時記録を行った結果、Mb1型双極細胞への短い脱分極パルスに対して神経節細胞では速い成分と遅い成分からなる時間経過の非常に長いシナプス後電流が観察された。Mb1型双極細胞内にCa2+が流入しないような大きな脱分極パルスを与える実験、薬理学的にギャップ結合を阻害した状況での実験、細胞体から離断された軸索終末部を用いた実験から、この時間経過の長いシナプス後電流のうち、速い成分は脱分極パルスを与えたMb1型双極細胞からの直接の出力を、遅い成分はギャップ結合を介した他のMb1型双極細胞群からの出力を、それぞれ反映していることが明らかになった。また、隣接する2個のMb1型双極細胞と1個の神経節細胞からの3細胞同時記録により、この遅い成分はMb1型双極細胞間で行われるCa2+スパイクを使った遅延を伴う情報伝達によって生成されていることが示された。
第7章では、本研究で得られた知見を総合的に考察した。Mb1型双極細胞は、アマクリン細胞や神経節細胞等で発現しているものと同じタイプのギャップ結合(Cx35)によって互いに電気シナプスを形成していることがわかった。また、その性質についても他の網膜部位で報告されているものと比べて大きな違いは無かった。しかし本研究によって、Mb1型双極細胞では他の神経細胞とは異なり、Ca2+スパイクを用いることで遅延を伴った広範囲にわたる情報伝達を行うという、これまでほとんど想定されてこなかった振る舞いが明らかにされた。
Ca2+スパイクによる能動的な側方情報伝達は、Ca2+スパイク自身の波形や、アマクリン細胞からの抑制性フィードバックやフィードフォワードによる影響を大きく受けると思われる。特にCa2+スパイクは、その発生確率や波形が光順応条件によって影響を受けることが示唆されたが、これによって側方情報伝達の範囲だけでなく伝達速度も影響を受ける可能性が考えられる。また、Mb1型双極細胞間のギャップ結合コンダクタンスが光順応条件によって影響を受けることも示した。Ca2+スパイクによる側方情報伝達が、具体的にどのような機構によって制御されているのかは、今後の課題である。
本研究で明らかになった双極細胞の電気的ネットワークにおける能動的な側方情報伝達は、動きの予測といった機能を持っている可能性が考えられる。例えば、視覚運動錯視の一つであるフラッシュ・ラグ効果を生成する情報処理が既に網膜で始まっている可能性がある。