本論文は、16世紀後半に作成された枢機勅令簿を主要な史料として、オスマン朝における穀物問題と、それが社会に与えた影響とについて考察を行うものである。具体的には、オスマン朝史研究の最重要史料のひとつであり、勅令の写しを集めたものである枢機勅令簿から関連するデータを収集し、それを分析することによって当時のオスマン朝において深刻な食糧不足が慢性化していたことをあきらかにした。オスマン朝の各地で見られた食糧不足は、都であったイスタンブルにおいても大きな問題となり、オスマン朝政府は領内の各地からイスタンブルへの穀物供給を円滑に行うことに腐心していた。一方で、大きな食糧危機に見舞われていたのはオスマン朝だけではなかった。オスマン朝と同じく地中海性気候の影響下にあり、やはり急激な人口増加が進行していた西欧各国においては、食糧不足などの穀物問題を解決することが、オスマン朝以上に緊急かつ重要な課題となっていた。そのため、16世紀後半において地中海の3分の2以上を領有していたオスマン朝における穀物問題について考察し、その実態をあきらかにすることは、オスマン朝のみならず西欧を含めた地中海世界全体の状況を解明することにもつながる、きわめて大きな重要性を有しているのである。

まず本論に入る前に、第一章において本論文で使用する史料について解説した。具体的には上記の枢機勅令簿に加えて、オスマン語(アラビア文字で記されたトルコ語)で記された同時代の各種年代記を用いることの意義について述べた。さらに、当時のイスタンブルに駐在していた各国の大使や随行員が記した報告書や日誌を参照したことにも言及した。

つづく第二章においては、16世紀後半の地中海世界、とりわけオスマン朝を中心とする東地中海世界における気候や環境の状況がいかなるものであったのかについて、可能な限り歴史学的手法にもとづいて解明することを試みた。具体的には、枢機勅令簿の膨大な記録の中から関連するデータを収集し分析することによって、16世紀後半のオスマン朝においては気候の寒冷化の進行が見られ、それに呼応するようにして厳冬や洪水をはじめとする自然災害が数多く発生していたことをあきらかにした。同時に、各地における食糧事情も非常に深刻な状況に置かれており、それを裏付けるように枢機勅令簿には食糧不足や飢饉についての多くの記述が見られることを提示した。こうした自然環境の悪化に加えて、第三章で考察する人口増加やイスタンブルをはじめとする都市部への急激な人口流入などの諸要素が重なり合うことによって、16世紀後半の地中海世界は、いわば「食糧不足の時代」とも言うべききわめて困難な時期を迎えていたと言えよう。第二章において検討したオスマン朝における慢性的な食糧不足は、第五章で考察した「穀物争奪戦」がこの時期の地中海世界において激化する素地を形成していたのである。

第二章であきらかにしたように、16世紀後半の東地中海世界は、食糧不足が慢性化するとともに各地で飢饉が発生するという厳しい食糧事情のもとに置かれていた。とりわけ、オスマン朝の都であったイスタンブルのような大都市の状況はより深刻であった。当時の地中海世界においても最大規模の人口を有していたと考えられるイスタンブルには、地方からの人口流入が絶え間なく続いており、食糧不足や治安の悪化など多くの都市問題が発生していた。第三章においては、16世紀後半のイスタンブルで生じていた様々な問題に対して、オスマン朝政府がいかなる対応策を立案し、またそれをいかにして実行に移していたのかという点を解明することを目指した。16世紀後半のイスタンブルにおいて生じた食糧不足と治安の悪化に対してオスマン朝が行った対策は大きく三つに分けられる。

まず食糧不足に対しては、広大な領内の各地で生産される穀物を可能な限りイスタンブルに集中させるという政策がとられた。イスタンブルに対する食料供給についてのより詳細な分析は第四章で行ったが、これによってイスタンブルの食糧事情は危機的な水準を脱したと考えられる。また、治安の悪化に対しては保証人制度の導入を行い、滞在税を導入することによって、社会的信用がない者をイスタンブルから放逐するとともに、出稼ぎに来る短期滞在者の定住化を防止することを試みた。さらに、こうした都市問題の根底に存在する急激な人口増加に歯止めをかけ、都市人口を抑制するために、新たにイスタンブルに定住した者たちを調査して、居住期間が5年に満たない者についてはかつての居住地に送還する、いわゆる「人返し」を実施した。こうした一連の政策によって、16世紀後半のイスタンブルは危機的状況を克服したと考えられるのである。

第四章においては、第三章の一部でも言及したイスタンブルに対する穀物供給の問題をさらに掘り下げて検討した。16世紀後半において急激な人口増加と食糧不足に悩むイスタンブルに対して、どこから、どのようにして穀物が送り込まれていたのかを枢機勅令簿の記述から具体的に解明することが第四章の目的である。16世紀後半のオスマン朝の各地において、食糧不足や飢饉が頻発していたことは第二章において既に述べた。ここではまず、多くの都市人口を抱えていたイスタンブルの食糧事情が、同じく厳しいものであったことを枢機勅令簿の記述から確認した。また、こうした慢性的な食糧不足に直面していたイスタンブルを養うために、オスマン朝領内の肥沃な諸地域が「イスタンブル穀物供給圏」とも言うべき広がりを形成し、その範囲は、トラキアや西アナトリアを中心として北はクリミア半島から南はエジプトに至る広大な地域に及んでいることをあきらかにした。さらに、「イスタンブル穀物供給圏」の各地からイスタンブルにもたらされる穀物が、どのような流通システムのもとに、どのような手段を用いて輸送されていたについても、ハードとソフトの両面からその実態について詳細に検討した。

ここまでの考察から、16世紀後半のオスマン朝における穀物流通システムが、イスタンブルを中心に展開していたことをあきらかにした。しかしながら、第二章において述べたように「食糧不足の時代」を迎えていた16世紀後半においては、同じ地中海世界にあって地理的あるいは気候的「構造」を共有する他の諸地域もまた、オスマン朝と同様に深刻な食糧不足に悩まされていた。そのため16世紀後半においては、東地中海世界の大半を領有するオスマン朝を主な舞台として、収穫量が限られていた一定量の穀物をめぐって熾烈な「穀物争奪戦」が展開されることになった。こうした状況のなかで、オスマン朝領内においては穀物の不正輸送となり、オスマン朝領外へは穀物密輸というかたちをとって顕在化した一連の穀物問題は、各地で収穫された穀物を可能な限りイスタンブルに集中させようと試みていたオスマン朝政府にとって大きな脅威となって立ちはだかった。この動きに対して、オスマン朝政府は穀物の不正輸送や密輸にかかわった者たちに死罪を含む厳罰を与えることによって対処し、各地における監視活動や重要な穀物輸送ルートに位置するダーダネルス海峡における検査を強化することによって、穀物流通をより強力に掌握しようと試みた。様々な困難に直面しながらも、16世紀後半のイスタンブルにおいて、多数の餓死者が出るような飢饉や、食糧不足に起因する都市暴動が生じなかったことを考慮するならば、こうしたオスマン朝の政策は、一定の成果を上げたものと考えられる。

16世紀後半の東地中海世界は、気候の寒冷化や自然災害の増加、あるいは人口の急増と都市部への流入といった様々な要因が重なり合うことによって慢性的な穀物不足に悩む「食糧不足の時代」となり、それが各国による激しい「穀物争奪戦」を現出させることになった。この時代の歴史的経験は、寒冷化とは正反対の温暖化という気候の変化に直面し、また世界的な食糧危機や国内における食料自給率の低下に警鐘が鳴らされて久しい現代を生きる我々にとっても無関係なものではありえない。人間の生存にとって不可欠な要素のひとつである穀物と、それをとりまく諸問題をあきらかにし、その解決策を見出すことは、過去においても、また未来にとっても、きわめて重要な意義を有する人類共通の課題であろう。本論文は、こうした問題の一端を解明することを目指したものである。以上が、博士学位請求論文の要旨である。