本論文の関心は世紀末ウィーンを代表する作家アートゥア・シュニッツラー(1862-1931)のわけても散文作品にあり、そこに彼の詩学(言語運用の規則・原理)がおのずから浮かび上がってくるような読解を施すことが小論の企図するところである。
シュニッツラーという作家がもつ言語運用の規則を明らかにすること、彼の発想と創作とに通底するだろう原理を見定めることはしかし、それにより彼の言語観をわりきってそうして彼の作品を約言するためのものではない。その詩学を究明することはシュニッツラー理解のための便利な公式らしきものを得ることに終始してはならないし、現にそれにとどまらないようなひろさの中で書いたひとこそがシュニッツラーであった。
ひとは例えば彼に、ドイツ文化に属しオーストリア人でありユダヤ人であり性をテーマに書いた世紀末ウィーンを象徴する作家というふうに、いくらでも属性を追加してゆくことができる。ところがそこからさき一歩でも突き詰めてみようとするとき、「オーストリア」や「ユダヤ」や「世紀末」や「ウィーン」といったことばたち概念たちははたしてどれくらい、自明だろうか。もしもそう考えてこれらをあくまでシュニッツラーのことばに織り込まれたものとして捉えるなら、つとめてシュニッツラーのことばの側から捉え返してみるなら、無責任にクリシエと化したこれらの概念はゆたかな具体性を恢復するだろう。強度を恢復するだろう。シュニッツラーの詩学を研究するとはしたがって、たんに一個の作家の言語運用に注目するということにとどまりはしない。それは同時に、「オーストリア」や「ユダヤ」や「世紀末」や「ウィーン」といったよりひろい全体性を、いわば具体的な全体性として捉え返すことでもあるのである。
シュニッツラーの生は、世紀転換と第一次世界大戦という二つの大きな事件でもって区切ってみることがゆるされる。すると1900年までの前期、そこから第一次大戦までの中期、大戦以降の後期のそれぞれの時期に特徴的な詩学を指摘することができる。それに合わせて本論文は三つの部から成り、第I部:語りの技法論、第II部:ロマーン論、第III部:対-精神分析論のそれぞれが前・中・後期の詩学に対応するようにした。以下順をおってあらましを述べるが、それに先だって対象規定について一言しておく必要があるかと思われる。
シュニッツラーの詩学をつきとめるにあたって本論文では主にその散文作品を対象にしている。これは、すぐれた戯曲の書き手でもあったシュニッツラーがしかし、みずからをあくまでハプスブルク・ウィーン(歴史家ピーター・ゲイの言い方を借りるなら、第一次大戦が始まる1914年までの「シュニッツラーの世紀」)の作家と規定していたことによる。事実、彼は大戦後、ハプスブルク帝国が地上から消滅したあとも戦前の世界を書きつづけたのであった。そしてこのシュニッツラー後期においては、彼は戯曲をほとんど書いていないのである。かかる事情に加え、戯曲と散文すべてを網羅的に検討するのはもとより手にあまる仕事なのだから、ひとまずは散文に対象を限定することが彼の生涯になるべく偏りなく目を配る意味でも得策であるというふうに判断した。ただしこのことは戯曲作品を考察から除外するということを意味しない。現に、『輪舞』をはじめ、必要と思われる箇所ではそのつど戯曲作品にも少なからず言及している。
さて、語りの技法論という括りの第I部では、どのような情況のもとにシュニッツラーが生涯にわたって書き、また語ることを強いられたかを環境分析する序論(『輪舞』論)から話を起こして、おなじく前期の代表作である『グストル少尉』(1900)に至るまでのいわば「語りの試行」の軌跡を、文脈ひろく追っている。
盟友ホフマンスタールによってもドイツ文学におけるその独創性を保証された『グストル少尉』、その「ジャンル」の新しさとそこに名指された「オーストリア的なもの」の意味を正確に把握することがここでの目当てになるのだが、そのためには二つの流れが辿られる必要がある。一つは作者シュニッツラーが受容したフランス文学、とくにバルザック以降世紀末までのフランス小説美学の変遷であり、いま一つがシュニッツラー自身のいくつもの初期散文作品における語りの試行で、これら二つの前史の交点として眺められてはじめて『グストル少尉』、その形式上の真価は測られる。そしてこの手続きの先にのみ、名誉評議会(軍隊と社会の密約の場)にまつわる「オーストリア的なもの」もまた見えてはくるのである。「語り手の脱権威化」としてのモノローグ小説、だがそれによって叶えられた多声性があるということ、豊穣なるパノラマがあるということを示したい。
第II部ロマーン論では、シュニッツラー中期を代表するだけでなく、第一次大戦前夜に書かれたという点からいってもドイツ小説史に名を刻まれるべきロマーン『戸外への道』を対象に、パロディの原理をはじめとする彼の小説美学を論じてある。
その小説美学はとうぜん先行する「語りの試行」の発展形としてあるわけだが、そのさい議論の中心にくる多声性(初期短篇ですでに機能し効果をあげた多声性が、この中期のロマーンではどのように展開されたか)に関して注記しておかなければならないのは、ここでも多声性は作品をうまく切り分けて整理するための文藝上の手頃なアイテムでもなければ、純粋に技術的な、物語理論的な概念でもないということである。それは大戦前夜の、多民族国家の首都ウィーンという高度に政治的な場において覚悟されたまさに詩学なのであった。まずはやや巨視的にパロディ論=小説理論を準備し、それをさらにその影響が及ぶことシュニッツラーにも甚大であったニーチェの言語観・パロディ観とつきあわせた上で、その具体例としてロマーン『戸外への道』を作品論のかたちで論ずるという手順を踏む。シオニズム、ワグネリズム、生の哲学を並存また対立させるこの小説が、どういった理由で「ウィーン小説」と目されるべきかがここでは示されるだろう。
第III部、対-精神分析論では、シュニッツラーとフロイトという二人の同時代人、そこに働いた親和力と斥力を根本的に論じている。おなじく高度に政治的な場から生まれた精神分析の思想にたいし、フロイトの「性」にたいし、シュニッツラーの「アルス・ポエティカ」(この語はフロイト『詩人および夢想すること』に倣っている)はいかなる点で同調し、またいかなる点で決定的に切り結んだのか。後期シュニッツラーを読むことでようやく明らかになる両者のあいだの微細な差異に分け入ることで、これまでごく大まかにしか扱われなかったように思われるこの問題に、自分のなかで最終的な決着をつけたかった。
総論から各論へという流れはここでも反覆される。「親和力」、「無意識という神」、「エディプス・コンプレックス」、「間意識」、「ユダヤ性」の五つの測量点において両人の関係、その総体を輪郭づけたあとを、二つの作品論、『Ich』論と『予言』論がつづく。言語危機を切り抜けたそのさきで精神分析に対峙するシュニッツラーということを前者においてはみる。後者では、フロイトがシュニッツラーを自らのドッペルゲンガーと呼んでいたことはつとに有名だが、しかしシャーロック・ホームズの推理分析、その行き方にひそかに自分の精神分析を重ね見ていたフロイトにたいしてシュニッツラーは「アンチ・ホームズ」として臨んでおり、フロイトの推理分析=精神分析、その急所をつくのが小説『予言』であるとの仮説をしいてこれを検証する。
未完にとどまった彼の戯曲『ことば』のなかで、シュニッツラーはこう書いたことがある。「私たちのモラルはすべて、私たちがウソをつくのをいとも容易にし、私たちをいとも無責任にし、いとも言い訳がましくするこの不精確なマテリアルから、つまり言語から、いくらかでもよりよきものを作ることだけに存するのです。ことばでもって、できるだけ少なく、ウソをつくこと」。
ことばでもって、できるだけ少なく、ウソをつくこと。シュニッツラーの人と作品、その表情をこれ以上よく言いあてたものは外になく、本論文が全体をかけてゆきついたところにこの一節はある。
結語では、シュニッツラーの詩学を問うとはことばでもってできるだけ少なくウソをつくための技藝を問うことであったということを確認するべく論全体を振り返る。
第I部で語りの技法に定位したのは、いと高きものといと低きものとが位階なく混淆し、真と偽のあいだに線をもはや引けなくなった社会(小論はこれを『輪舞』的情況と呼ぶ)のなかでそれでもなにかを語ろうとするときに、作家にはどのような方法が可能だったかを知りたかったからである。第II部では政治的空間における隠微なかけひき、あるいはそのむきだしのうねりとざわめきがロマーンという言語藝術形式のなかにどう言語化されてあるのかを見たかった。第III部で精神分析との係わりに照準したのは、思想のことばに文学のことばがどう対抗しうるのかを鮮明にしたかったからである。つまり、シュニッツラーの詩学とはそれぞれ、社会が、政治が、そして思想ないしイデオロギーが孕んでしまっている虚言に対する応答としてある。応答以上のものとして、ある。そのことが確かめられて論は閉じられる。