本論文は18世紀から19世紀にかけての清朝の対外政策決定過程を再構成し、その基調を明らかにするとともに、特に漢文行政文書において、その政策の正当化がいかなる叙法によって行われていたのかを検討する。清朝自らが主張する正当性に関しては、これまで『大義覚迷録』を軸に雍正帝の認識が取り上げられてきたが、乾隆年間以降については必ずしも明らかではない。そこで、本論文ではアヘン戦争以前の乾隆末・嘉慶初に時期を絞り、対外政策決定過程とその叙法に着目する。具体的な事例として乾隆・嘉慶年間における海賊問題を主にとりあげるのは、海賊の組織化にベトナム王権が関与し、また中国沿海全体における治安問題を引き起こし、同時に国際貿易を含む流通に対しても広範な影響を与えたので、国際問題と社会問題と経済問題とが複雑に関連するという意味で、清朝にとって重要課題だったからである。

第一章および第二章においては清朝の政策決定にかかわる制度的前提を確認した。北京において最終決定を下す清朝中枢は皇帝及び軍機大臣と内閣大学士を十数年にわたって兼任する数人の最高級官僚を中心に構成されていた。地方当局は、数年で交代する総督あるいは巡撫によって主宰される。両者がやりとりする文書のうち、地方当局が提出する上奏文には、大きく分けて奏摺と題本の二種があり、前者は清朝中枢と地方当局の間での政策決定に用いられ、後者は内閣と六部が関与するルーチンワークに用いられていた。また皇帝から下される上諭も名義は皇帝によるものであるが、その作成において、軍機処の成員が関わっており、清朝中枢での意見集約がなされた結果であった。以上の検討によって、清朝中枢は最終的な対処の決定と事案の評価を行い、地方当局が情報の提供と政策の実行を行うという、清朝における政策決定過程の基本構造が確認された。

第三章において、本稿が分析対象とする海賊問題が実際に沿海社会にどのような影響を与えていたのかについて、商業流通への影響を中心に検討した。乾隆六十(1795)年頃、ベトナムから海賊集団が大挙して侵入すると中国沿海の治安は急激に悪化し、商船が出航を取りやめたことで、福建と浙江の海関収入が半減するなど、沿海流通は大きく阻害された。この状況に対し、海運を利用する商人は海賊集団との交渉を通じて保護費を支払い、治安の悪化によって算定不能に陥っていた流通コストを計算可能なレベルに押し下げようとした。その後、海賊集団は清朝の軍事行動によって壊滅するが、このときまでに弱体化した海関や緑営水師による清朝の沿海管理体制は回復することなく、海運の一部は清朝の海関を通じた管理を離脱し、19世紀前半におけるアヘン密輸の前提を形成していった。

第四章においては、中国第一歴史檔案館所蔵「吏科題本」糾参処分類に含まれる海賊行為の被害届から、漁民や零細商人を中心とする人々の日常における経営状況を明らかにした。零細な商人の多くは自ら船舶を所有するのではなく、輸送業者を雇用して物資の輸送を行い、多くの輸送業者も自己の資本で物資を買い付けることはほとんどなく、ある程度大きな船舶を所持している場合、官塩の運搬に従事する場合もあった。そのほとんどは短距離での流通にかかわるもので、省をまたいで長距離輸送に従事する船舶は全体の3%にすぎない。また被害額も、船舶の評価額を含んでも100両に満たないものが半数を占めており、その経営規模も極めて小さいことが予想される。このように彼ら下層社会の人々もまた海賊問題の被害者となっていたことが明らかとなった。

第五章において、海賊の増加に対して、清朝は、“緑営廃弛”=治安維持機構の怠慢と腐敗を、その原因として措定していたことを指摘した。これは、督撫クラスの汚職が社会問題の原因となるという乾隆末当時の認識によるものであった。その後、嘉慶四年に汚職のピラミッドの頂点にあるとされた和珅が、嘉慶帝の親政開始に伴い断罪されたことで、種々の腐敗は社会問題の原因として措定されることはなくなり、海賊問題は海賊集団の首領=“著名盗首”である蔡牽や朱濆、鄭一、張保仔などを排除することで解決されるとされた。この間、社会経済への具体的な影響に関してはほとんど議論になっていない。すなわち、清朝中枢による社会問題に関する説明のしかたは、実際の状況を反映したものというよりもむしろその当時の官界における一般的な社会問題認識やあるいは短期的な政治状況の変動に大きく規定されていた。

第六章においては、中国沿海で活動する海賊集団を組織化して内戦に利用していた安南国との関係を清朝がどのように扱ったのかを検討した。乾隆六十年から嘉慶元年にかけて福建・浙江に侵入した海賊集団は、当初、広東出身者の盗賊であるとされ、安南国との関係が否定された。その後、海賊集団の成員のなかにベトナムに暮す中国人が存在することが明らかになってしまうと、安南国王へ照会がなされたが、国王は幼少で関知しておらず、朝貢をしているので“恭順”であるとされた。その後、安南国が滅亡の危機に瀕すると清朝は一転して、安南国が海賊を匿い、海賊行為を後援していたと強く主張し、安南国の滅亡を正当化する。その後、南越国長阮福暎(後の越南国王)が冊封を求めると、阮福暎が海賊対策に極めて協力的であるとして、冊封を認めた。このように、清朝が語るベトナムの王権と海賊の関係は二転三転しているが、実際には、ベトナムへの軍事介入を避けることを基本方針とする対安南政策が一貫していた。このとき表明される“朝貢冊封関係に基づく中華的世界観”は、“海賊問題”同様、政策を正当化するときに利用される論理の一つに過ぎないことが明らかとなった。

第七章において、嘉慶前半に行われた海賊問題をめぐる政策正当化の言説が、問題解決後の官界の認識にどのような影響を与えていたのかを検討した。従来の研究が依存してきた魏源『聖武記』「嘉慶東南靖海記」は、海賊問題の原因として安南国王の積極的関与を認め、福建を中心とする種々の腐敗がその解決を遅らせたが、“著名盗首”の消滅によって解決されたとするなど、嘉慶年間の政権正当化の論理を受け継ぐものであった。この「嘉慶東南靖海記」は多くの表現や事実確認において当時の浙江当局者が残した文章を利用しているが、叙述の枠組みは、官界に流布した浙江提督李長庚の伝記に基づいて組み立てられていた。李長庚は海賊対策のさなかに戦死したもので、複数あるその伝記はみな清朝の政策正当化の論理を色濃く反映していた。すなわち海賊問題における安南関与説や緑営の腐敗、海賊集団の首領の存在と海賊問題を結びつける認識など、清朝が上諭を通じて行った公式の説明は当時から広く受け入れられ、道光年間の魏源の言説を通して近年の研究者にまで影響を与えていたのである。

第八章では、嘉慶十三年に発生したイギリス軍によるマカオ占領事件への清朝の対応を検討した。事件発生当初、広東当局へ対応を任せていた清朝中枢は、イギリス側が提出した文書が“不遜”であることを発見すると両広総督呉熊光を責め、解任した。しかし、清朝中枢・広東当局はともにイギリスを含む当時の貿易管理体制を高く評価しており、現状の貿易秩序を維持しようとする政策基調は動揺していない。すなわち呉熊光の解任は彼の失態や政策の変更によるものではなく、清朝中枢が自らを“強き天朝”として位置付けているにもかかわらず、イギリスという“外夷”が“不遜”な態度を見せたため、それに対して強い態度に出ている事を主張するために行われたものであった。つまり、海賊問題への対処同様、実際の対外政策基調と、内部向けの説明や施策の在り方は、それぞれ異なる文脈のもとに策定されたものであったのである。

上記の検討から、清代中期の対外政策基調は、現状維持と国際関係の安定という慎重な姿勢によっていたことが明らかとなった。一方でそれらの政策は、「強き天朝」あるいは「朝貢冊封関係」という理念によって説明されていた。これは、乾隆年間後半から嘉慶年間にかけて清朝が有徳の「中華」というよりも、むしろ武力をはじめとする諸要素において他者を凌駕する「天朝」としての自画像を提示し、自らを君臨するにふさわしい存在としていたからである。このように「天朝」・「朝貢冊封関係」など東アジアにおける清朝をめぐる国際関係を彩る論理は実際に存在した「在来秩序」ではなく、清代中期においては、清朝内部向けの政策正当化の叙法でしかなかったのである。