19世紀中葉のロシアでは、「農奴解放」をはじめとして、国家のさまざまな分野で改革が行われた。のちに、「大改革」と呼ばれた時代である。本稿の主題は、「大改革」期における一般教育制度改革である。一般教育制度とは、各専門省庁のもとにおかれた専門教育機関とは異なり、教養主義的な基礎教育を行う教育制度である。この一般教育制度改革の結果、従来の身分制限が緩和され、より広い社会層が大学・ギムナジアなどの中等・高等教育を享受するようになった。こうして大学・ギムナジアは、19世紀後半にかけて、新しい教養層を生み出し、社会的流動化を促す装置としての役割を果たすことになった。本稿の目的は、そうした変化をもたらした一般教育制度改革のプロセスを分析し、政策転換の局面を具体的に明らかにすることである。とくに、専門職者として独自の集団に発展しつつあった大学教授やギムナジア教員の動向に着目し、彼らが政策転換に影響を与えたことを示した。
本稿が用いた資料は以下のものである。『ロシア帝国法律全集』、『国民教育省雑誌』などの基本的な資料の他、ロシア国立歴史文書館とロシア国立図書館手稿部の文書、高官の手記や教育専門雑誌などの刊行資料を用いた。さらに、改革過程における大学教授や教員集団の動向を明らかにするために、法案に対して教育関係者から出された意見をまとめた資料も用いた。この資料は、国民教育省が情報公開を旨として、改革の過程の1862年に出版したものであり、大学制度改革については、『ロシア帝国大学一般法案注解』(全二巻)として、初・中等教育制度改革については、『一般教育機関法案および国民学校制度一般計画注解』(全六巻)として出版された。また、国民教育省内での審議過程を明らかにする資料として、収集された教員からの意見をテーマごとにまとめた報告集『一般教育機関法案注解集成―ギムナジア・プロギムナジア制度に関して』(1862年)や、大臣評議会議事録、学校総局(国民教育省内の政策審議機関)議事録なども扱った。政府内での審議過程を明らかにする資料として、最終的な法案審議のために国家評議会に提出された資料群(国家評議会審議資料シリーズ、ペテルブルグ国立図書館所蔵)も用いた。
序章では、近年の研究動向を整理した。本稿が課題とする一般教育制度改革は、「大改革」のなかの一部として行われたものであるため、教育史だけではなく、「大改革」研究の動向もまとめ、本稿が扱った個別テーマが近年の帝政期ロシア史の研究動向のなかでもつ意義を位置づける必要があったからである。とくに近年、帝政末期における専門職者などの中間層の発展や、社会的流動化が研究され、ロシアにおいても「公共圏」や「公的文化」が発展しつつあったと論じられるようになったことに着目した。しかしこうした諸研究は、変化の起点となった「大改革」期の諸改革については概略的に言及するにとどまる傾向がある。こうした研究動向をふまえることによって、本稿が扱う「大改革」期の一般教育制度改革は、帝政末期にかけて生じた変化のひとつの起点として位置づけられることになる。
第一章では、本稿が扱う国民教育省管下の一般教育制度が、18世紀から19世紀前半までのロシアにおいて、制度的にどのように位置づけられていたのかを明らかにした。とくに、本稿の主要な論点となる、教育行政制度、および国家勤務・身分政策の問題に着目しながら、一般教育制度の歴史的変遷を整理した。そのさい、設立時に一般教育制度は、全身分に基礎的な教養教育を提供することを目的としたが、その後、国家勤務者育成の機能を負うことになり、結果として、身分制限を行う必要が生まれたことを、とくに高等教育を中心に示した。
第二章では、ニコライ一世の死去とクリミア戦争の敗北を契機として、一般教育政策が転換する局面を扱った。この転換において政府は、学校教育を全身分に普及することの重要性を再認識し、国民教育省管下の教育機関に設けられていた身分による入学制限を撤廃することを検討した。本章がとくに着目したのは、国民教育省が、身分制限を撤廃することをめざしたものの、学校教育を通じた身分移動(担税身分が卒業後に国家勤務に就き、官吏身分へ移行すること)を警戒し、学校卒業後に諸身分がそれぞれ生まれの身分に戻るようなシステムの構築をめざした、という点である。このことを、大臣の上奏文や報告書などを用いて明らかにした。こうした皇帝や政府の教育改革への呼びかけに応じて、社会でも教育運動や教育論議が活性化した。この社会での教育論議もまた、全身分に教育機会を拡大しつつも、諸身分の社会的役割や序列を変更しない、という国民教育省の方針に沿うものであった。
以上の一般教育政策はさらに転換する。この政策転換を経て、最終的に一般教育制度は、出自に関わらず、学業が優秀であった者に勤務特権を与えて、社会的エリートの地位に引き上げていくというシステムへと変化した。この変化に対して大学教授やギムナジア教員が影響を及ぼしたことなどを、彼らが政府の提示した法案に対して提出した意見の分析から明らかにするのが、第三章と第四章である。
まず第三章では、「大学の自治」の問題を軸として大学制度改革を再検討した。当初国民教育省は中等教育制度改革を優先していたが、1861年に学生騒擾が生じると、大学制度改革に着手した。そのさい国民教育省は、学生騒擾は大学教授が自らの責務を果たしていないことから生じたと捉え、学内行政における大学教授の「自主的活動」を強化しようとした。これをうけて大学教授は、「自主的活動」の意味を積極的に捉え直し、大学評議会の自律的決定権をさらに広げるとともに、自らの社会的・経済的地位の向上も要求した。こうした要求で注目されるのは、大学教授が、大学が国家の機関であるがゆえに、身分的な価値観とは異なる、能力や知識を重視する「公共精神」を涵養しうると論じた点である。最終的には、こうした大学教授の意見が受け入れられ、大学は、出自よりも能力を重視する教育機関と認識されるようになった。さらに、大学教授は官吏としての地位をあげ、大学評議会を基盤として自律的な決定権を大幅に拡大した。
次に第四章では、中等教育制度改革を扱った。1862年の法案までは、国民教育省は、ギムナジアに全身分を受け入れつつも、諸身分の社会的役割や序列を変更させることなく、諸身分の内面的な融和をはかる機関としてギムナジアを位置づけていた。そのために、担税身分が身分移動を意識する制服や卒業後の勤務特権の付与を撤廃し、さらに、学校運営において諸身分が融和をはかることができるよう、諸身分の代表者からなる庇護者評議会を設置しようとしたのである。しかし、1862年の法案に寄せられた教員集団の意見を検討するなかで、国民教育省の方針は変化した。ギムナジア教員は、同じ教育を受けた者の対等な権利を主張し、制服や卒業後の勤務特権の維持を求めた。さらに、自らの社会的・経済的な地位の向上とともに、大学評議会に倣って、ギムナジア教員評議会の自律的な権限の拡大も要求した。そして、諸身分が学校運営に介入することを嫌って、庇護者委員会の設置に反対したのである。こうしたギムナジア教員の意見は、新制度の構築のさい、おおむね受け入れられた。制服と卒業後の勤務特権は維持されたが、庇護者委員会の設置は見送られ、逆に、ギムナジア教員評議会の自律的な決定権は大きく拡大されたのである。
このように、第三章と第四章では、大学教授や教員集団の意見の影響で、一般教育制度が出自からは相対的に自由な、新しい教養層を生み出す教育制度へと変化したことを論じた。大学教授や教員集団は、改革に関与するなかで独自の価値観を認識し、教育行政内で自律性と発言権を強めた。彼らが、自らの地位や活動の基盤を国家に依存していたのは事実であるが、逆にそうであるがゆえに、国家に保護されながら、諸身分や他の行政権力からは相対的に自立して、専門職者として発展する基盤を得たと言うことができる。
新しい一般教育制度の及ぶ範囲の境界を明らかにしたのが、初等教育制度改革を扱った第五章である。第五章では、農民改革の影響を受けて、初等教育が大学・ギムナジアというエリート教育の系列から分離され、別のシステムとして再構築されたことを示した。とくに、初等学校教師の地位の格下げという問題に注目し、彼らの位置づけを大学教授や中等教育教員の位置づけと対比させながら分析した。この分析を通じて、一般教育制度改革の結果生じた「身分性原理」の緩和は、農村には到達しなかったことを示した。
このように、「大改革」期の一般教育制度の改革によって、一般教育制度はより身分開放的となり、大学やギムナジアのある都市では一定の社会的流動性が生まれ、出自からは自由な教養層が拡大する可能性が開けた。さらに、大学教授やギムナジア教員は、国家の保護のもとでその地位を向上させ、専門職者として発展していく基盤を得た。しかし、こうした変化は、都市の諸身分に限定されており、膨大な数の農民はその圏外に留めおかれた。
現在まで、概説的な通史を除けば、「大改革」期における高等教育から初等教育までの改革を網羅的に分析した研究は存在しない。これに対して本稿は、一般教育制度改革全体を、官僚と大学教授・教員集団との関わりに着目しながら分析することで、「大改革」期に生じた変化の広がりと境界を明らかにしたと言えるであろう。