本論文は、東アジア絵画史の観点から、東京国立博物館の所蔵する呂紀「四季花鳥図 四幅」(重要文化財。絹本着色、各幅は縦一七六.〇センチメートル、横一〇〇.八センチメートル)を中心に、日本に所蔵されている中国花鳥画やその影響を受けた日本室町時代の大画面花鳥画を考察することで、呂紀「四季花鳥図 四幅」の東アジア絵画史における位置づけ、さらに東アジア地域における大画面花鳥画の展開を解明しようとするものである。
 第一章では、鈴木廣之氏が指摘する鳥の型が鳥の種類に関係なく転用され、さらに作品に嵌め込まれる「超類型化」の概念に基づき、小川裕充氏が指摘する中国唐時代・薛稷によって創始された「六鶴」の型と比較しながら、東アジアで古くから制作されていた鷹図における鷹の型とその組み合わせ方の伝統について考察した。唐時代の「十二鷹様屏風」の実際の作品は残されていないが、唐時代の壁画や宋・元時代の鷹図における鷹の型を分析することによって、唐時代「十二鷹様屏風」における鷹の型は六鶴の型に基づいたものであることがわかり、「超類型化」はこの時代から始まっていたことを論じた。
 また、鷹の型は、唐時代「十二鷹様屏風」のような一幅一様の画面を鷹の体や頭の方向性に統一性を持たせて並べた作品や、一幅一様の単幅に使われただけでなく、他のモチーフと組み合され大画面に嵌めこまれる形でも登場することを指摘した。同じ型の共有は、宋、元、明時代の中国の鷹図だけでなく、室町、桃山時代の日本、朝鮮時代の朝鮮半島の様々な作品に広く見られる現象であり、鷹図の型とその伝播の考察は、花鳥画の歴史を貫く鳥の型とその組み合わせ方の伝承を構築する重要な一部分である。
 第二章では、番つがい、または複数の鳥の型が、その動きや体や頭の方向上の対比、呼応関係によって組み合されて画面に嵌めこまれる方法を考察した。その際に大画面花鳥画の画面形式を、新疆阿斯塔那二一七号唐墓の「六扇花鳥図屏風」のような縦長画面と、王公叔夫人呉氏合葬墓、王処直墓の衝立形式の花鳥画の壁画のような横長画面に分類し、縦長画面においてはモチーフが下から上へ積み上げられ、横長画面においては左右対称に配されていることを併せて論じた。こうした唐・五代・北宋に成立した方法は元時代、さらに明代初期の辺氏一族に継承されており、呂紀も辺文進を通してこの伝統を継いだと画家の一人と考えられる。
 第三章では、まず研究の基礎となる呂紀の活躍年代と地域を再確認し、第一、二章で考察した明代初期の辺氏一族まで、すなわち呂紀が登場するまでの鳥の型とその組み合わせかたと、画面構成の伝承を踏まえながら、呂紀「四季花鳥図 四幅」の様式やモチーフや構成方法などを分析した。続く第四章では、さらに各幅における花鳥による季節表現を考察し、呂紀「四季花鳥図 四幅」の中国絵画史上の位置づけを明らかにした。
 まず、文献資料によって呂紀の生涯を考証する。呂紀は北京の宮廷に徴用される前に、早い段階から故郷の鄞(寧波)、維揚(江蘇地方)、南京で花鳥画家として活躍し、名前が知られていた。このことからその画風は一五世紀後半に広い地域に伝播していたであろうことが推測できる。呂紀「四季花鳥図 四幅」における鳥、植物の表現は宋元絵画の伝統に基づいたものである。山水表現は馬遠、馬麟に遡ることができるが、同時に元代馬夏派や明代宮廷絵画との密接な関係も指摘できる。また、花鳥による四季表現はおおむねが南宋絵画の伝統を継承したものである。さらに、鳥の型とその組み合わせ方、画面に嵌め込まれる方法を見ると、各幅においては、鳥の型と他のモチーフを画面の下から上へと積み上げる方法は、唐時代「六扇花鳥図屏風」以来の縦長画面の構成方法をとっているが、四幅を繋げて見れば、王公叔夫人呉氏合葬墓、王処直墓の横長画面の左右対称の構成を守りながら、水平線を画面の縦の二分の一に設定することの多い北宋時代以来の透視遠近法をも取り入れ、山水表現と花鳥表現の整合性を創り出すことに成功している。すなわち、「夏景」と「秋景」の岩石と花木が中軸となり、その両側の水禽の泳ぐ方向と水の動きは「ハ」の字型に方向上の対称性をなし、両端の「春景」と「冬景」における桃と梅は同じ型の左右反転型である。このように、呂紀「四季花鳥図 四幅」は各モチーフの表現だけでなく、鳥の型とその組み合わせ方も、唐、宋、元代絵画の伝統をよく継承した作品であるといえる。
 最後に、第五章で雪舟、殷宏、呂健、陳箴の作品を取り上げ、より広い視点で東アジアの花鳥画史における呂紀の位置づけを論じた。呂紀とほぼ同時代に活躍した雪舟の「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館)は、その四季の図様、描写上の特徴、鳥の型の組み合わせ方や画面に嵌めこまれる方法が、呂紀「四季花鳥図 四幅」や『魯泰興王府画法大成』中の「松鶴図」と共通しているだけでなく、その左右対称の構成方法も同じであり、雪舟が呂紀の影響を受けたことを端的に示す重要な作品であると指摘した。一六世紀初期に活躍した、呂紀の次世代にあたる殷宏の「絶壑聚禽図」は、呂紀「四季花鳥図 四幅」の「冬景」をよく継承しているが、鳥が型として画面に嵌めこまれ、造形の面では幾何学傾向がさらに進められていることが、その特徴として認められる。また、一六世紀後半の呂健の「崑崘松鶴図」と一七世紀前半の陳箴の「山水鳥花図(春景、夏景、冬景)」は、呂紀の影響を受けた作品であり、失われた呂紀の作品を思わせる点でも重要である。前者は、呂紀の「五鶴図」を忠実に継承したものであり、その鶴の型は元信の「四季花鳥図 襖絵」(霊雲院)だけではなく、伝商喜「朱瞻基行楽図」にも見られ、その史的意義は無視できない。後者は四季四幅で「秋景」は現存していないが、その四連幅としての鳥の型と水の流れの方向性や山の配置方法は呂紀「四季花鳥図 四幅」と共通している。陳箴「春景」と同じ構図を持つ呂紀の落款を有する「柳塘集禽図」の原本、もともとは四季花鳥図の一幅であることが推測できると指摘した。
 このように、本論文では鳥の型とその組み合わせ方の成立と展開の観点から、呂紀「四季花鳥図 四幅」の具体的な考察を行い、その影響を受けた日本と中国の作品と比較しながら、一五世紀から一七世紀初期にかけての東アジアの花鳥画の基盤を明らかにしようと試みた。呂紀「四季花鳥図 四幅」は、唐、五代、北宋に確立した鳥の型とその組み合わせ方をよく継承した明代前期の作品というだけでなく、それを後世に伝えてゆく担い手として、雪舟や狩野派を含む一五、一六世紀の東アジア地域における大画面花鳥画の成立に影響を与えた、一つの規範として位置づけられ、その東アジア絵画史における意義は非常に大きいのである。