本論文は大きく分けて、詩人パステルナークの創作の初期(1910年代から1920年代)と20世紀初頭のロシアにおける文芸論争の一局面の二つをあつかう。

ボリス・パステルナーク(1890―1960)は主に抒情詩の分野で活躍したロシアの文学者である。父が画家、母がピアニストという芸術一家に長男として生を受けた彼は当初音楽の道を志し、青年期にはドイツのマールブルグで新カント学派のコーエン教授に哲学の薫陶を受けた。詩人として活躍を始めたのはその後、1908-1909年ごろとされている。未来派の詩人として活動を開始し、詩集『わが妹人生』(1917年執筆、1922年発表)で詩人としての立場を確固としたものにした。1920年代、パステルナークはマヤコフスキー主宰の雑誌『レフ(芸術左翼戦線)』に数作(『崇高な病』(1924)など)を発表するなど、一時期このグループに身を置くが、最後には公式の脱退を雑誌に明記するよう編集部に迫るなどしており、微妙な関係にあった。1932年に詩集『第二の誕生』を出版するが、その後はしばらく翻訳(シェークスピア、リルケ、ゲーテ、グルジア現代詩)に専念することになる。しかし何よりも彼の名は晩年の長編小説『ドクトル・ジバゴ』(1956年完成、1957年出版)によって広く世界に知られ、これがいわゆる「ノーベル賞受賞事件」を引き起こし、その後に詩集『晴れようとき』(1958)を残して生涯を終えた。

パステルナークについての回想録や研究論文は数多くあり、質・量ともにすでにかなりものがある。しかし筆者は現在までのパステルナーク研究のある種の傾向として以下の二つの点を問題視している。

 一つは、特にパステルナークの創作前半期における作品の難解さをいわば理解不能のものとして片付けてしまう傾向である。この際しばしば援用されるのが、パステルナーク自身が晩年の自伝に記した「私は1940年以前の自分のスタイルが好きではない」という一文である。つまり、30年代までのパステルナーク作品の難解さはいわば「若気の至り」に由来するものであり、そのことは詩人自身すら後に後悔している通りである、とする見方である。しかし上記の一文は、パステルナークが1940年を境とした作風の変化を認識していたことは示すが、しかし1940年以前の作品研究の意義を低める根拠とはなりえない。

 いま一つの問題は以下の点である。つまり、特に20-30年代のパステルナークの諸作品を取り上げる際に、それらの登場人物や個々の場面を、『ドクトル・ジバゴ』の前史とするような指摘の仕方である。それは例えば、『リュベルスの少女時代』(1922)の同名の少女を『ドクトル・ジバゴ』のヒロインであるラーラの、そして『スペクトルスキー』(1931)に登場する同名の主人公をユーリー・ジバゴ医師の原型とみなす論法である。『ドクトル・ジバゴ』がパステルナークを語る際きわめて重要な作品の一つであることは疑いなく、比較や参照のためにこの長編小説を引き合いに出すこと自体は有益でさえある。しかしそれ以前に書かれた諸作品が『ドクトル・ジバゴ』に至る布石または前段階にすぎないかのような扱いは不当である。20-30年代のパステルナークの諸作品には、ロシアで全体主義体制が確立される過程にある歴史の中での一人の芸術家の姿が如実に刻印されている。その姿もまた当時の文学、歴史、政治的文脈で語られるべきものである。

以上のような問題を意識しながら本論では、ボリス・パステルナークという詩人を当時のロシアの具体的な歴史・政治・文学界の中に置きなおし、再照射することを一つの目的としている。

そのために本論ではまず、革命前後のロシアの歴史的状況とその当時戦わされた文芸論争に注目する。パステルナークも自身の創作初期にあっては自ら論争に参加し、諸文学グループ間の抗争にその身を置いていた。革命を前後する時期に交わされた文芸論争は、19世紀のロシア文学界、特にベリンスキー、チェルヌィシェフスキー、ドブロリューボフ、ピーサレフらのロシア思想・社会的文芸批評の伝統を受け継ぎながら、その伝統にマルクス主義が摂取、加味されることによって、様々な主義・主張が生まれ、論争が戦わされた。ここでマルクス主義が摂取される際に大きな役割を果たしたのがプレハーノフの一連の著作であり、彼の文芸論を土台にして1910年代から1920年代ロシア・ソヴェトでの文学抗争が行われた。

また、ロシア革命から1920年代にかけての文芸状況は、プロレタリア派、レフに代表されるアヴァンギャルド派、そして同伴者作家の三つに大別し展望することができる。こうした中で本論ではレフと、同伴者作家に多大な理解を示した雑誌『赤い処女地』編集部という二つの文学グループの主張と論争に注目する。それはレフ派とプロレタリア派の批評家の理論は多くの点で本質的に一致する部分が多く、レフ派と『赤い処女地』派の間の論争点によって1920年代の文学論争の骨子を把握する目的と、この論争を踏まえたうえで詩人パステルナークの作家研究に接続する狙いからである。

それゆえ、題名にあるように、「帝政末期からソヴェト初期」までの期間を考察の対象とするが、具体的に本論で主に扱われるテクストの年代としては1895年(プレハーノフの『史的唯物論』)から1929年(ゴルボフの『ガラテヤ探求』)までを射程に収めている。

 まず第一章ではロシア革命を中心にその歴史状況と文化・文芸政策をふまえる。特に注目するのはレーニン、トロツキー、ルナチャルスキーの三人であり、ソヴェト体制確立の過渡期における彼らの言説に注目する。ロシア内外で次々に生起する諸問題に新体制指導部は統一した対応をとることができず、特に1920年代のロシアの様相が混沌を極めていたことを振り返る。

 第二章で注目するのはプレハーノフの一連の著作である。プレハーノフの芸術・文芸論は、彼の政治活動が収束した晩年に集中して執筆されたが、プレハーノフによるマルクス主義のロシアでの受容もその後の文化建設に少なからぬ影響を与えたことから、芸術・文芸論に限定せず広く彼の著作を扱う。具体的には、『史的一元論』(1895)、『歴史における個人の役割』(1898)、『芸術と社会生活』(1912-1913)、「論文集『二十年間』第三版序文」(1908)である。これらの著作を貫くのが「存在が意識を規定する」というマルクス主義的唯物論的一元論であり、「社会現象としての芸術」というプレハーノフの主張を確認する。

 第三章では革命後ロシアの文芸論争に着目する。上述のように本論では一方にレフ派と、もう一方に『赤い処女地』と峠派をすえる形でこの論争に注目する。「社会的効用」や「合理性」を芸術に求めたレフ派に対して、峠派は個人的「創造」や「直観」を重視する姿勢を打ち出した。1920年代にパステルナークがこの両グループと関係を持っていたことを踏まえ、ここから詩人の創作につなげていく。

 第四章ではパステルナークの初期の創作論と『わが妹人生』に焦点を絞る。この章の最後に峠派の論客・レジュネフのパステルナーク論を取り上げる。文学活動をはじめる前のパステルナークが哲学や音楽に専門的に従事していたこと、そしてこの時期の作品が、自然や風景、室内性の詩学を特徴としていたことなどを詳細に見る。

 第五章においてはまず『わが妹人生』以降のパステルナークの歩みを振り返り、雑誌『レフ』第五号に掲載された『崇高な病』を考察の対象とする。この作品が、時代に同化できない詩人の苦悩を明瞭にとどめ、抒情詩から叙事詩への中間形態にあることを作品の具体的分析をつうじて明らかにする。