従来のインド洋海域史研究に於いては、1750年から1800年ごろを境にして西欧諸国の進出によって、この海域世界の一体性が崩壊したという見解が広く支持されてきた。しかし、今日においてもインド洋西海域でこの海域世界を象徴するとされるダウ船が往来するのを目にすれば、必ずしも西欧諸国の進出によって、この海域世界の一体性が崩壊したとはいえないだろう。とはいえ、世界システム論を参照したり、のちの植民地化を想起すれば、19世紀にこの海域世界で現代に繋がるような大きな変化――すなわち「近代」――が生じたことも否定できない。
本稿が試みるのは、こうした巨視的な視点からは否定しがたい19世紀のインド洋西海域世界の大きな変容を、出来るだけこの海域世界に生きる人々に焦点を合わせて具体的に明らかにすることで、この海域世界に於ける「近代」を考察することである。なお、本稿でいう「インド洋西海域世界」とは、インド亜大陸西部沿岸からアフリカ大陸東部沿岸に拡がる地理的に規定されるインド洋西海域を中心にして、そこで行われる商品の交換活動に影響を及ぼし、また、個々の生活に於いてこうした活動の影響を被る人々の総体である。
以上の着想のもと、具体的に論じる対象を奴隷交易に携わる人々に設定した。ここでいう奴隷交易に携わる人々とは、奴隷の獲得・輸送・売買・利用に携わる人々を指し示す。こうした人々に着目する経緯は次の通りである。すなわち、彼らの取り扱う奴隷は、インド洋西海域世界を構成する一員であるとともに、特に19世紀に焦点を合わせれば、その労働力によって生産される商品作物がこの世界とそれまで希薄にしか繋がっていなかった人々をそこに招き入れる誘因になった。これらに鑑みれば、奴隷交易に携わる人々そのものも、間接的であれ、この海域世界を形作ってきた人々であった。さらには、イギリスの奴隷交易廃絶活動に対しては、その最前線でそれと対峙する人々でもあった。したがって、彼らを取り巻く状況の変化を明らかにし、それに伴って変容していくと考えられる彼らの姿を考察することで、インド洋西海域世界の「近代」を考察するうえでのひとつの答えが浮かび上がってくるのではないだろうかというのが、本稿の目論見である。
本稿は序論2章と本論2部10章、結論、および補論1章から構成されている。以下に各章の概略を示す。
序論第1章では、インド洋海域史研究を概括したうえで、上述のような本稿の課題を定めた。続く第2章では、使用資料の説明を行った。
第1部は「19世紀のインド洋西海域世界」と題され、その第1章では季節風モンスーンや熱帯収束帯、インド洋西海域とその周縁諸地域に関する自然地理環境、人間集団及びその生業についての概観を行った。
同第2章では、人々の生活のリズムの連動性と生活文化の共通性について、港町の季節的な人口増減や、塩干し魚や綿織物などの具体的商品を事例に挙げながらインド洋西海域世界をどのように設定するかについて論じた。
同第3章では、インド洋西海域世界の特徴を理解するためには、多様な人間集団が接触する場としての港町に注目することが有効だと指摘した。そのうえで、アフリカ大陸東部沿岸の諸港におけるカッチー・バティヤーというインド亜大陸出身の集団を事例に取り上げ、港町に於ける多様な人間集団の接触のメカニズムを考察した。
同第4章では、マダガスカル島北西沖に浮かぶヌシ・ベ島を事例にして、19世紀にこの島がフランスによる保護統治下に置かれることで、インド洋西海域世界に包含されていく実態を考察した。
第2部では奴隷交易に携わる人々の変容を以下の6章から考察した。
同第1章では、インド洋西海域世界に於ける奴隷交易について先行研究を整理しつつ概観するとともに、イギリス側による奴隷交易廃絶活動の実態について考察した。
同第2章では、イギリス側によって救助された奴隷たちの証言を手がかりに、奴隷交易にどのような人々が関わり、どのような交易がおこなわれていたのかを明らかにした。
同第3章では、奴隷を輸送する人々に焦点を当て、奴隷輸送に特化されない彼らの活動の実態を明らかにしたうえで、彼らを「奴隷交易者slaver」とみなしてその輸送活動を取り締まろうとするイギリス側の活動に対して、輸送活動を継続させようとする際に見出される彼らの抵抗の実態を明らかにした。
同第4章では、プランテーション栽培の興隆に伴って、奴隷人口が急激に増加していった19世紀半ばのアフリカ大陸東部沿岸諸港に注目し、それらが奴隷受容地になっていくと同時に、頻発する誘拐や略奪によって奴隷供給地ともなっていく実態を明らかにした。そのうえで、こうした沿岸部諸港の奴隷供給地化が、外部からやって来る誘拐や略奪の実質的な行為者たちのみならず、多様な主体によって作り上げられていったこと、しかも、そうした主体のなかには奴隷交易廃絶活動を推し進めるイギリスの領事館なども含まれることを指摘した。
同第5章では、インド洋西海域周縁に於いて現地政権下の土地では初めて実施された1860年のアフリカ大陸東部沿岸のブー・サイード朝支配領域における奴隷の一斉解放を取り上げた。本章では、この一斉解放の経緯とこのときに作成された奴隷解放簿の分析成果を示すとともに、この施策によって所有する奴隷を強制的に解放されたインド系の来住者たちの帰属先に関する一連の混乱の過程を考証した。
同第6章では、1860年代からイギリス側の文献で頻繁に指摘されるようになるフランス旗を掲揚する現地船舶に焦点を当てた。こうした現地船舶の多くが、フランス船籍登録証明書を獲得したうえでフランス旗を掲揚していた事実を指摘するとともに、この証明書の交付の実態を明らかにした。そのうえで、当事者たる船舶の所有者や乗組員がまったく出席しないハーグ審判所での審議をもってこの問題に終止符が打たれたことを指摘することで、インド洋西海域世界の海上交易にユーラシア西端の政治的な影響力が大きく及び、現地の人々の意向が全く反映されなくなる実態を示した。
補論では、20世紀初頭に出版された『スワヒリ人たちの慣習』というスワヒリ語文献を基にして、アフリカ大陸東部沿岸諸港における奴隷制について論じた。
以上の考察に基づいた結論は次の通りである。
従来の研究が強調してきた1750年や1800年という時期以降にも、この海域世界では、人々の生活リズムの連動性や物質的交換の結果として生じる生活文化の共通性を確認できた(第1部第2章)。しかも、こうした生活リズムの連動性や生活文化の共通性は、19世紀に大陸部のより奥地にも浸透していったし、喜望峰を超えてもいった(第1部第2章)。このように、19世紀のインド洋西海域世界は新たな参画者たちを迎えていたが、そうした多様な人々の出会いの場として最も重要なのが港町である。ザンジバルを事例にすれば、この港町に参集する多様な人々のあいだの交易をとりもっていたのがカッチー・バティヤーを中心とするインド系来住者たちであった。彼らが仲介者となることで、多様な人々が繋がり合い、それによって、ザンジバルでの交易活動は活性化した(第1部第3章)。
奴隷交易に携わる人々に関する本稿の成果としては次の点を指摘できる。まず、対象年代のインド洋西海域世界では、奴隷交易はそれを専門として執り行われるものではなく、この交易に携わる人々とは、たとえば、輸送者を例にとれば、彼らは奴隷を輸送する際に、この海域世界の生活文化の共通性をはぐくむ生活必要物資を共に輸送しており、この点に注目すればインド洋西海域世界の形成の担い手であった(第2部第3章)。したがって、そうした船舶を「奴隷船」と定義付け、洋上での破壊を行うようになる19世紀半ば以降のイギリス側の奴隷交易廃絶活動は、インド洋西海域世界を分断させる類の行為に他ならない(第2部第1章、第3章)。また、奴隷を取引する人々についても、明らかに奴隷取引以外に生活の糧を得ている人々が奴隷の転売を行っている状況が明らかになった(第2部第2章)。
西欧の進出は、インド洋西海域世界の一体性を破壊するのではなく、むしろ、この海域世界の拡張に寄与することもあった(第1部第4章)。ただし、19世紀のインド洋西海域世界については、それが拡張するだけで、それ以外の変化がなかったわけでは決してない。第2部第3章以下で具体的事例に即して論じたように、インド洋西海域世界に生きてきた人々はこの海域で進展しつつあった西欧の主権国家を中心とする政治的な「繋がり合い」と19世紀半ば頃からより密接に接触するようになっていった。こうした接触に際して、インド洋西海域世界の人々は、政治的な「繋がり合い」のなかで、奴隷交易廃絶活動などによって自分たちの従来からの活動を規制されるという事態に直面するばかりでなく、逆に政治的な「繋がり合い」に戦略的に潜り込むことで、インド洋西海域世界で旧来からみられる奴隷やその他の商品によって作られる「繋がり合い」を持続させようとした。具体的には、各国間の条約の抜け穴やフランスによるフランス船籍の保護、イギリス臣民の立場から得られる利点が利用された。こうした戦略的な潜り込みは、一定の期間、一定の効果を彼らにもたらした。しかし、インド洋西海域の人々が政治的な「繋がり合い」を利用していくことは、この新たな「繋がり合い」のなかにより一層深く侵入していくことでもあった。なぜならば、主権国家によって用意された保護を得ることは、司法権を委ねることと交換であらねばならなかったからであり、彼らは主権国家の主導する支配/被支配関係のなかに取り込まれなくてはならなかったからである。そうしたなかで、2つの「繋がり合い」はより一層、絡まり合い、不可分になっていったのである。