本論は、プルードンの思想を、秩序についての哲学的思考と捉え、その方法および、主に内在的理由による展開について論じることを目的としている。

 従来、プルードンの思想は、二つの意味で「オルタナティヴの思想」として捉えられてきた。一つには、既存の秩序とは別様の秩序を構想する思想であるということ、もう一つには、別様の秩序を構想する思想の中でも、主流とは別様の仕方で構想すること。そのため、プルードン思想がどのような内的理由によって展開を遂げたのかが本格的に論じられることは稀であり、それが持つアイデアにばかり注目が集まってきた。本論は、初期の著作である『所有とは何か』で採られた方法から論じ始め、その方法によって秩序を捉えようとする思考が抱えた問題点を整理し、以降の著作の中で、どのようにその問題点が解消、もしくは複雑化するのかを論じた。その際、時代状況や論争状況(とりわけ、社会的なものと政治的なものとの関係について論じるという19世紀のフランスの論争状況)について言及しながらも、「秩序の哲学」としてのプルードン思想が内在的な理由によって展開を遂げていることを明らかにした。

 本論は、序論、第1章、第2章、第3章、第4章、結論より成る。

 序論では、先行研究の概略を述べ、1960年代から80年代にかけてのプルードン研究の「第二の波」といわれる状況の中で繰り返し提示された疎外論のモティーフでプルードン思想を理解しようとすることへの疑義を提示し、上記議論の必要性について論じた後、プルードン思想を『一九世紀における革命の一般理念』(以下、『革命の理念』)が発表された後の1852年頃までを「前期思想」、それより後を「後期思想」と呼ぶことの正当性について論じた。その区分は、前者において、あるべき秩序としてアナルシーが唱えられていたのに対し、後者においては、連合主義が唱えられたというところに理由がある。先行研究において、この区分を重視しない論者も多数存在したが、この区分が必要であることも、ここで示し、本論の構成を明らかにした。

 第1章では、最初の主著である『所有とは何か』における秩序論の成り立ちを明らかにした。

 第1節では、プルードンがこの著作において、あるべき秩序について語っているのか、現実の秩序について語っているのかを峻別して読解しなければならないことを示し、その両者を独特な仕方で結びつけるプルードンの方法を明らかにした。わけても重要なのは、プルードンが「(社会的)事実」として認定するものは、自律的に成り立つ社会的秩序(あるべき秩序としてのアナルシー)の萌芽と見なしうるものに限られ、この著作においては、労働者の協業の場面に限られていることを明らかにした点である。ほかに、先行研究の概略、この著作の書かれた七月王政下のアソシアシオンを中心とした時代状況、サン=シモン主義者を中心に、当時の論争状況についても、ここで概観し、章の目標を提示した。第2節から第4節は、第1節で提示した目標に応じて構成されている。

 第2節では、あるべき秩序がアナルシーであるという一見奇妙な主張をプルードンがするに至るまでの原理的考察を繙いた。その中で、プルードンのいう「正義」の原理の内実、それが「所有」の原理と対立することを明らかにし、前者が内的な原理を持ち、自律的な「社会」の原理とされるべきであるのに対し、後者が「権威」や「力」といった外的なものを必要とし、かつ「社会」に対して外的に働く原理であると述べた。その後、「正義」の内実と見なされる「平等」の原理の内実を繙いた結果として、あるべき「社会」の像が、剰余なき自足的なものであること、しかしながら、一枚岩の抽象的実体ではなく、その内部において、「自由」が成り立つものであることを示した。そして最後に、あるべき「社会」の像がアナルシーであるということを明らかにした。

 第3節では、今度は現実の秩序の中にプルードンが政治的秩序と社会的秩序の対立、それを原因とした矛盾を見ているということを明らかにした。まず、前者に関して、現実の秩序において「所有」の原理が発揮している「力」および「権威」の果たしている役割について見た。そして、現実の秩序の中においても、徐々に「平等」が実現し、あるべき秩序としての「社会」が生まれつつあることを、有名な「集合的な力」の議論を中心に見た。そして、にもかかわらず、「所有」の原理に基づく「力」や「権威」がそれを抑圧しているという議論を繙いた。

 第4節では、現実の秩序の中に見出された社会的秩序の萌芽(第3節)を(が)いかにして、あるべき秩序としてのアナルシー(第2節)へと変化させる(する)のかを中心に、秩序の変化についての議論を見た。結果、三つの問題点が以降の著作群に課題として残されたことを明らかにした。それは、①労働者の協業の場面を本当に「社会」の萌芽と見なせるのか(社会的秩序をめぐる問題)、②「集合的な力」は政治的秩序における「力」へと転化しないのか、また、アナルシーにおいて、人間の政治的意志はどう処理されるのか(以上あわせて、政治的秩序をめぐる問題)、③秩序は人間の意志と関わらずに変化するのか、それとも、変化させなければ変化しないのか(秩序の変化をめぐる問題)、である。

 第2章と第3章は、前期思想の残りの期間において、上記の問題がどのように処理されたのかを中心に論じた。

 第2章では、『人類における秩序の創造』(以下、『秩序の創造』)および『経済的諸矛盾の体系』(以下、『諸矛盾の体系』)の議論に関し、上記の問題のうち、①と関わる議論を中心に、現実の秩序における様々な営為を総体的に捉えようとする試みとしての部分のみを繙き、続く第3章で見るアナルシーの主張の先鋭化のために必要な作業であったことを確認した。(特に、『秩序の創造』については後期思想につながる発想をも見た。)

 第1節では、『秩序の創造』の議論に先立って書かれた『所有者への警告』の議論を見ることからはじめ、「分業」が『秩序の創造』において、社会的事実の一つに数えられる過程を明らかにした。

 第2節では、『諸矛盾の体系』において、「分業」のみならず、「競争」等も社会的事実の一つに数えられ、それらが所有に関して第1章で見たのと同じく、現実の秩序の中で矛盾として存在しているという議論を紹介した。また、先の問題点のうちの③に関わり、労働が「不可抗力」となって秩序を変えていくという議論を紹介した。

 第3章では、前期思想の到達点で、アナルシスムの完成形態を提示する『革命の理念』における「政治的秩序の社会的秩序への解消」の議論が、どのように形成されているのかを明らかにした。

 第1節では、アソシアシオンが政治的色彩を帯びてくるという時代状況および、ルイ・ブランの議論を紹介することで、当時の論争状況の一端を見た。

 第2節では、プルードンが二月革命後の状況を、社会の諸々の力能を組織されないままに放置したとして批判していることをまず紹介し、『革命の理念』において、現実の秩序が、政治的秩序における「力」という『所有とは何か』でも論じられた「力」と、社会的秩序における「経済的な力」、より包括的な「社会的な力」との対立として描かれることを明らかにした。これは、第2章において見たように、社会的事実が総体的に捉えられたがゆえのものである。「力」同士の対立であるがゆえに、「社会的な力」の方に従って秩序を形成すればあるべき秩序としてのアナルシーになる、これが『革命の理念』の発想であるということを明らかにした。

 第3節では、『所有とは何か』の段階においては好意的に見られていたアソシアシオンに対し、徹底した批判を加えていることを確認した。まず、アソシアシオンは、前節で見たような「社会的な力」の一つには数え上げられない。その理由は、かつて「所有」の原理を批判したのと同じく、アソシアシオンが、外的なものの働きを必要とするからである。そして、アソシアシオンが掲げる「友愛」「連帯」といった原理を批判し、その批判を権威の原理に基づく政府の批判(第4節)につなげる。そのような過程を繙いた。

 第4節では、アナルシスムの完成形態につながる議論の中で、相互性に基づく交換的正義についての議論を見た。その中で、プルードンがこの著作で行うルソー批判の意味を読み解き、それが後期思想へ展開する内在的動機になっていることを示した。それは、ルソーの議論に、人々の複数性を許容する余地がない、というものであるが、アナルシスムを完成させたプルードン自身も、この批判を行うことで、政治性なき社会的秩序の不可能性を浮かび上がらせたのだと解釈した。そして、以上二つの章により、先の問題の①は解決されたものの、②と③に関しては、より困難な問題として残されたことを明らかにし、プルードンが後期思想を展開する内在的理由がそこにあると解釈した。それは、一言で、人々の政治的能力は発揮する機会を持っているのか、また、それによって秩序を変えることができるのか、というものである。これらは、後期思想で肯定される。

 第4章では、この問いに導かれてプルードンが後期思想に至って、政治的秩序に積極的価値を認めた上での連合主義の立場に移行したことを示した。

 第1節では、『連合の原理』における政治的秩序の議論を見て、それがいかに前期思想の到達点であったアナルシスムと異なるものであるかを示した。要点は、『革命の理念』で否定し尽くされた政治における「権威」の原理が、個人の「自由」の原理に先立つものであるというものである。とはいえ、前期思想で得られた「交換的正義」に基づいて、個人と政治体との関係が築かれるべきであるとされている点で、連続性があることをも明らかにした。

 第2節では、『連合の原理』よりも前に書かれた『革命と教会における正義』(以下、『正義』)の議論を見ることで、プルードンがアナルシスムを捨て去ることになる内在的理由を明らかにした。(時代状況の変化、国際関係への注目という従来から言われている理由についても一言した。)その中で、同時代の思想家トクヴィルの議論と対照させることで、ルソー批判が政治的空間についての議論の必要性に結びつくはずであるという予測のもと、プルードンが『正義』において初めて国家について積極的に論じ、社会的秩序における「正義」が政治的秩序にも適用可能であるという議論を行っていることを明らかにした。

 第3節では、疎外論でのみプルードン思想を捉えることは、プルードンの秩序の変化に関する思想の展開を見落とす結果になる危険性が高いことを示した後、最晩年の『労働者階級の政治的能力』において、労働者階級が、集合的理性に与ることによって、秩序を変化させていくことの可能性を示していることを明らかにした。そして、第2節と第3節で見た議論が、前期思想の問題点の解決として書かれているという結論を得た。