本論文は1930年前後の中国における歴史学及びそれに関係する諸学の展開と,そこに存在した学術的・思想的・制度的問題について,顧頡剛(1893-1980)と傅斯年(1896-1950)という2人の学者を軸に,考察するものである。テーマ設定の理由は以下の通りである。近現代中国の歴史学は,「中国」という国家・中華民族という民族を歴史的に基礎付け,過去から将来への展望を示す役割を持ち,とりわけ中国の起源を探る意味で,上古史の研究が高い関心を惹いた。学問の方法として,伝統学術(経学)からの連続性を有してもおり,当時多くの人材が歴史研究に従事していった。こうした点で,中国近現代の歴史学は思想史研究の重要な対象となりうる。1930年前後は,整備された学術機構の成立と発展,大学における学科体制・専門カリキュラムの構築といった学術の制度化が,南京国民政府の成立という政治状況の変化のもとで進展した。また,学術の中心を担う人物が世代交代し,欧米留学から帰った少壮学者達が,次代を担う学生の教育を開始した。こうした側面において,1930年前後は中国近現代の中で独自の重要性を持つが,従来の中国近現代史学史研究は,清末と新文化運動期を「新史学」の成立と発展・展開という意味で重視してきたものの,1930年前後の位置付けは十分明確ではなく,新たな研究が必要である。
1920~30年代において歴史学の主流を構成したのは,顧頡剛・傅斯年及び両者の師である胡適(1891-1962)の3人であったとされ,筆者も当時の制度化の進展,学説の影響力等の状況から,この説に同意する。この3人は,整理国故派,新考拠派,新漢学派,などと呼ばれ,1つの集団を形成する学者と考えられてきた。他方,近年の研究では,顧頡剛の「疑古」を,傅斯年による考古学に基づいた歴史の「再建」が超克し,胡適も同調したという見解が見られ,「疑古」史学への批判的見直しから,顧と胡・傅を区別する傾向もある。主流を形成する3人の相互関係は,1930年前後中国の歴史学を考える際にまず重視すべき問題であり,それを本論文において第1に考察するテーマとする。研究方法としては,3者を中心とする学者達の著作・書信・日記等への思想的分析と,上述した1930年前後の特質から,学術制度面への考察を複合的に行う。史料としては,北京・南京・台北の機関所蔵・個人保管の文書等の未公刊史料を含め,関係するものを出来るだけ収集活用するよう努めた。
論文は大きく分けて,3者の相互関係を,学術機構の設立・運営という制度面の考察と関連付けつつ跡付ける前半の2章と,胡適・顧頡剛・傅斯年らが,中国古代史研究の領域から,また,学界を主導する立場にある学者として,当時の思想課題にいかに取り組んだか,主要なテーマを取り上げて個別に論ずる後半の2章に分かれる。
第一章「中山大学語言歴史学研究所から中央研究院歴史語言研究所へ」では,1927~29年の広州・北平で準備・設立・運営された両研究所の研究計画・組織と,顧・傅及びそこに集った諸学者の活動を比較する。先行する研究機関(北京大学研究所国学門,厦門大学国学研究院)との関係も踏まえ,語史所と史語所という,よく似た名前の研究所の間の連続と断絶,その学術的計画と活動が1930年前後,そして近現代中国学術史において持った意味を,両研究所の採用した学問区分ごとに論じる。
第二章「国民革命前後における胡適,顧頡剛と傅斯年の関係」では,語史所・史語所を主な舞台として展開した,国民革命前後の顧と傅の学術思想と活動を直接比較する。その際,両者が共に支持を得ようとしていた胡適との関係を重視する。まず書信・日記など多くの史料を比較・活用し,3者のそれぞれの活動と相互関係を細密に跡付ける。次に顧と傅が中山大学時代に行った講義,執筆した著作を個別に分析する。続いて,胡適の1928年前後の中国の進路に関する思想と学術面での見解を,顧・傅及び何定生(1911-1970)・陳槃(1905-1999)ら学生達との関係を踏まえて論じることで,胡・顧・傅3者の離合の意味を考察する。
第三章「「中国」の構想と古代史研究」では,中国の学術的伝統と西洋近代学術の関わり,中国古代史研究と「疆域」「民族」問題の関わり,そしてその現実の政治的社会的問題との関係が取り上げられる。まず第一節では,語史所と史語所という,「言語」と「歴史」が結合された名前の研究所が中国に登場したことの背景と意味を考察する。この問題はごく基本的なものだが,研究所の名前は単なる固有名詞として扱われることが多く,これまで十分検討されていなかった。「言語」と「歴史」の結合という事態の背景に,中国と西洋・日本の学術的文脈が存在することが明らかにされる。第二節では,この時期歴史学の補助学科として最も注目された考古学について論じる。今日考古学と歴史学の結合という文脈で重視される王国維(1877-1927)の二重証拠法を顧頡剛の論と比較し,史語所において考古発掘を取り仕切った李済(1896-1979)の考古学の扱いを検討し,さらに顧・傅とは異なる学術的思想的背景を持つ郭沫若(1892-1978)と章炳麟(1869-1936)の論を取り上げる。それによって,近代西洋学術としての考古学が,中国という独自の学術的伝統を持つ場所に導入される際に必然的に生じた問題を提示する。第三節では,1930年前後の中国上古史研究において主要な問題の1つとされた疆域と民族の問題を考察する。顧頡剛と傅斯年の具体的な論述を辿り比較することで,上古史研究が中国の歴史的な基礎付けにいかなる形で関与することになるのか,「疑古」と「再建」の論理としての交錯を抽出する形で論じられる。第四節は,第三節の学説分析を踏まえて,顧頡剛と傅斯年の現実の民族論を検討する。第二次大戦中に展開された中華民族をめぐる顧・傅の論を中心として,顧の論の相手となった費孝通(1910-2005)の論や,中華民族論の基軸を設定した梁啓超(1873-1929)の論,また中国の民族論が敵視した矢野仁一(1872-1970)の論を取り上げて比較する。これによって,歴史学者が現実の問題にいかなる形でコミットしたのかを見ていく。
第四章「「学術社会」の構築」では再び制度の問題を論じるが,そこで対象となるのは,第一章で論じるような,学科構成等の学術内部の諸制度ではなく,学術そのものの存立に関わる,学術を全体として規定するような,基盤的制度である。この時代の学者,とりわけ顧頡剛と傅斯年は,「学術社会」の建設を大きな目標としており,そうした制度についても思考し実践していた。第一節では,顧頡剛と傅斯年,胡適,さらにこの時期の学術政策を考える上で欠かすことのできない蔡元培(1868-1940)の,1930年前後における大学・研究所の運営構想・活動,また当時の大学の組織及び大学教員の身分に関わる制度を検討することで,彼らがいかに「学術社会」を構想し,構想と実際の営為,制度との間にいかなる矛盾があったのかを論じる。1933~34年の,中央研究院史語所と社会科学研究所の合併問題,北京大学中国文学系の改組問題という2つの事件を通して,「学術社会」の構築という目標が,現実にぶつかった問題,また時に「学術社会」の構築を目指す人物自身がそれと反するような行動をすることもある,といった状況が明らかになる。第二節では,大陸における中華民国政府の末期に行われた中央研究院第一次院士選挙の過程を論じる。「学術社会」の範囲は当然中国全体を含むはずだが,院士選挙という全国的事業において顕在化した中央と地方の緊張関係は,「学術社会」の具体的な構築の難しさを示すものであった。また,当然ながら院士選挙においては学術を誰が・いかに評価するのかという問題が決定的に重要であった。学術の評価システムは,「学術社会」における学術活動のサイクルを支える根幹であり,この点においても院士選挙は重要な出来事であった。この選挙の過程では,胡適・傅斯年と顧頡剛は対照的な動きをしており,両者の選挙における動きを見ることは,顧と傅の比較を大きな柱としてきた本論文の締めくくりにふさわしい。院士選挙は1947~48年に行われているので,本稿で中心的に扱う時代の範囲を大きく超えているが,院士選挙は元来中央研究院設立時(1928年)から構想されていたイベントであり,1930年前後の延長上にある事象として取り上げることができる。
以上の4つの章を経て,結論では,1930年前後の歴史学,とりわけ顧頡剛と傅斯年の思想と営為の持った意味を考察する。先行する胡適の「整理国故」と王国維の価値観及び研究業績との関係から,清末以来の「新史学」が1930年前後に顧や傅によって新しい時代を迎えたことを論じ,後続する郭沫若らマルクス主義史学との関係についても,分析の視座を得る。
附録として,顧や傅らの学術活動がいかなる場において展開していたのか,全面的な理解を得るため,中山大学文科の講義一覧(1927年2月~1929年6月)・学生数表(1928年2月~1930年2月),また,語史所関係人物一覧と語史所・史語所の人員対照表,北京大学中国文学系の科目一覧(1925年9月~1937年6月)を関係する章の末尾に置く。