『解深密経』は、サンスクリット語の経典名がSam. dhinirmocanas¯utra であったことは知られているが、サンスクリット原典は完全な形では残っていない。サンスクリット語による『解深密経』のテキストが発見されていない現在において、本経を研究するには、北京版、デルゲ版などの木版印刷されたチベット語訳版本を使用するのが一般的である。木版印刷された版本には、これら以外にナルタン版、チョネ版があり、俗に「四大版本」と称される。さらに時代を下って、二十世紀になってから開版されたラサ版も加わり、これら五つの版本を利用して、本経のテキストを作成し内容を検討するというのが本経研究の一般的な手順である。これらの版本は、早いものだと十五世紀から、特に十七世紀を中心に開版されたものである。これら以外の版本で、特に重要なものとして、チベットにおける最初の木版大蔵経であるジャン版があげられる。これは後に四川省のリタンにその木版を移したので、リタン版とも称されるものである。これら六種の版本は、すべて「旧ナルタン写本大蔵経」カンギュルを基に書写され訂正を加えられた「ツェルパ本カンギュル」を底本としており、一般に「東系統」と称される。
これに対し、近年、様々な文献で、西系統写本との比較検討が報告されるようになり、この観点にもとづいたテキスト校訂がなされるようになってきた。西系統の写本として、本論文で扱ったのは、河口慧海氏が将来した東京写本、ロンドン写本(シェルカルゾン本)、プダック写本、トックパレス写本という四種類の写本である。西系統の写本は、単に表記上の問題だけでなく、否定辞の付き方や構文などについても、東系統の版本と異なっていることが多い。その場合の西系統の解釈は、東系統のそれよりも理解しやすいことが多い。
さらに、本経には、これら東西系統と翻訳スタイルをまったく異にする敦煌写本が存在する。この写本は、現在広く使用されている東系統のチベット語訳よりも明らかに古い時代の形跡をとどめている点で、非常に重要である。ところどころリーフごと欠損していたり、部分的に判読不能である場合も少なくないが、それを補って余りある資料的な価値を有している。
また、プダック写本の扱いに関してであるが、使用されている訳語の様子から西系統に配した。しかしながら、その西系統の中では、明らかに種類を異にする。西系統内で異読を示すのが困難であることも多く、それらの異読が東系統と一致することもある。本来、他系統の写本として、別立てすべきであろうが、本対照テキストにおいては西系統に含めた。
本論文の作成にあたっては、上記のチベット語訳写本・版本を比較検討し、より正確なチベット語訳対照テキストを作成することから始めた。本経の対照テキストを作成する際には、まず、数あるチベット語訳を東系統、西系統、および敦煌写本という三種類のグループに分類し、各段落ごとに、見開き二ページの中で対照的に配置した。本来、すべての写本・版本をひとまとめにして異読を付けるのが最良であるが、本経の東系統と西系統テキストの伝承は、明らかに異なる様相を呈し、また敦煌写本に至っては、チベット語の表記すら異なるため、これらすべての資料をひとまとめに扱うことができない。それゆえ東系統に属する諸版本を見開き二ページ中の左上に、西系統に属するものを右上に、敦煌写本を右下に配置し、なおかつそれぞれに、その系統内の異読を分かりやすい形で載せたものを、本経の新たな校訂テキストとして位置づけた。これにより、現時点でもっとも有益な『解深密経』テキストの提示が可能となった。
本論文で取りあげる『解深密経』は、初めて唯識説を説いた経典として、後の経論書において多岐に渡り引用され、その解釈が常に問題とされてきた。しかしながら本経の重要性とは裏腹に、テキストレベルで本経の内容が再考されることはなかった。特に、現在までに、西系統および敦煌写本を充分に利用して本経の思想内容の再検討を行っている論文はほとんど見当たらない。それに加えて、諸漢訳、円測の『解深密経疏』とそのチベット語訳を参照しているものは皆無といってよい。
それゆえ、本論文では、本経の思想内容を再検討するために、まず、より厳密な対照テキストを作成し、その異読の箇所を明示してから、東系統、西系統、敦煌写本のそれぞれの資料のいずれが正しい読みを、あるいは、より理解しやすい読みを伝承しているのかについて論じる。その際には、玄奘訳および菩提流支訳の両漢訳と比較することはもちろんのこと、円測の『解深密経疏』とも比較することを通して、特に本経西系統写本の独自性や位置づけを明らかにする。具体的には、本論文で取りあげる第七章「無自性相品」の精読を試みた上で、内容的にも重要と判断される箇所の異読を抜き出し、すべての資料を比較検討する。本論の構成は以下の通りである。
2.1 西(テンパンマ)系写本における異読の重要性
2.2 「言説熏習心」をめぐるテキスト解釈
2.3 「四種類の有情」の記述に関するテキスト解釈
まず、2.1 について、各チベット語訳写本・版本の異読を参照することによって修正可能となるテキスト部分を列挙し、特に西系統の異読参照の意義について述べる。次にparyupayoga というサンスクリット原語の訳語に関して、各系統間において統一がとられていない点を指摘し、西系統写本に使用されているチベット訳語の方が、より内容に即した理解を伝承している可能性について論じる。
また、2.2 では、「言説熏習心」・「言説随覚」・「言説随眠」という三用語を含む一文について、西系写本を中心とするチベット語訳写本および諸漢訳を参照することにより、今回扱ったすべての系統の訳を可能にするような文章構造を把握する。それに伴い、東系統のチベット語訳からだけでは明瞭な理解が得られにくかった当該箇所について、西系統写本の読みを参考に、敦煌写本および漢訳によってその理解を補強することができる。これらの用語は、より多くアビダルマの教義に由来するものであり、本経の作者は、これらアビダルマ教義を継承しつつ、新たな「三相・三無自性説」を構築したものと考えられる。従来曖昧な解釈に甘んじていたこれら三用語の新たな相関関係を示すことで、本経における正しい「言説熏習心」理解を示す。
最後に、2.3 で、「四種類の有情の区別」に関わるテキストの理解について、各写本・版本を比較検討する。特に有情を区別する際の根拠となる、五種類の宗教的な資質を述べる箇所の解釈について精査する。そこでは、西系統の読みが、より理解しやすい構文を備えていることを指摘する。さらに、これらのテキスト解釈の相違が、サンスクリット原文自体の解釈に起因するものとの推測を立て、当該箇所のサンスクリット原文の想定を試みる。この原文想定は、あくまで可能性の一つとして提示したものに過ぎない。しかしながら、結果として、主に西系写本を参照する必要性を示すことができ、資料としての利用価値の高さを充分に示すことができる。
本経の西系写本は、特に東系統で理解しにくく、曖昧な解釈しか提示されないような箇所において、重要な異読を有している場合が多い。これは、おそらくサンスクリット原文の段階で、すでに解釈が分かれていたがゆえに、チベット語に翻訳される際にも、その地域や時代によって多様な解釈が保存されたままになっていることを示していよう。
本論を踏まえた上で本経の内容を振り返ると、特に西系写本の解釈は、諸漢訳の読みと一致することが多く、また敦煌写本によりその読みが支持される場合が多い。また、理解しやすい構文を使用していることが多く、内容的にも論旨がすっきりとしている。それゆえ、本経の論旨を追う場合には、従来から使用されている東系統の版本だけでは正確な理解は不可能であり、特にサンスクリット原典の文意に沿った解釈を探るためには、この西系写本の参照が欠かせないことが理解される。