本論はポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)の詩集『歌詞のない恋歌』Romances sans paroles(1874)を対象に、「非人称的叙情」という観点から当時における詩人の企図を明らかにすることを目的としたものである。

 ヴェルレーヌは後年、詩集の序文や書簡等において、自らの著作の大部分を統括する « personnel » という概念について語っている。これは個人の感性、心情に根ざした作品を総体として捉えるものと解釈されるが、その一方で、この枠組みに収まることのない « impersonnel » の概念で統治される作品の構想を晩年に至るまで持ち続けていた。しかし、« impersonnel » の語は著作や書簡に繰り返し現れるものの、その内容が厳密に定義されることはなく、詩人自身もこの概念を適用した作品の完成形を明確には思い描いていない。« impersonnel » の理想像を漠然と提示したり、またかつての試みに対して回顧的にこの語が冠される際にも、その内実は常に曖昧なものに留まる。詩篇《詩法》における示唆、またフランシス・ポワクトヴァン宛の書簡で告白される「ロビンソンもフライデーもいない『ロビンソン・クルーソー』」の構想などは、詩人自身が抱く計画がかろうじて可視化される数少ない例である。これらの比喩表現から詩人の思うところを推し量るのは困難であるが、その一方で、こうした表現によって指示される対象が、1874年の詩集『歌詞のない恋歌』とそれに続く時期の詩的実践であることは、関連する書簡や伝記的事実から論証される。

 厳密な定義が与えられることのない « impersonnel » の内実を探る手がかりは、まず『歌詞のない恋歌』というその表題に求められる。「言葉=歌詞」« paroles » をもって構築されるべき文学作品から « paroles » の要素を取り除き、「恋歌」 « romances » の持つような叙情性のみを残すという撞着的な夢想は、時期的に詩集と密接な関係を持つ《詩法》で示される、「文学ではないもの」を希求する詩人の姿勢と一致する。論証や雄弁を用いずに感情を表現する形式への憧憬は、『歌詞のない恋歌』を構成する各セクションのタイトルが「忘れられた小曲」、「ベルギー風景」、「水彩画」と、それぞれ音楽や絵画の相を帯びていることにも示される。これらの傍証から、ヴェルレーヌが思い描く « impersonnel » な作品とは、詩篇から個人性・状況の特殊性を取り除き、原因を定かとしないひとつの心的状態を提示することで読者との交感が可能となる場の生成であると解釈することができる。こうした « impersonnel » の様相については、この語が持つ他の含意と区別するためにも「非人称的」の訳語をあてて分析することが相応しく、またその名詞化である « impersonnalité » についても同様に「非人称性」という日本語への置き換えが妥当と判断される。これらの用語を導入することで、ヴェルレーヌ自身が定義することのなかった詩集の性質とその効果の特性は明確になる。

 詩集の第1セクション「忘れられた小曲」は、「非人称的叙情」の実現に向けたヴェルレーヌの意図を最も反映している。個別の表題を持たない個々の詩篇のなかでは、指示対象を明らかとしない多くの人称代名詞が用いられており、読者の感情の移入が容易となっている。詩篇の主題も、多くは状況を削除したひとつの心的状態の提示であり、これらの性質は、外部の物語を失った感情の表出としての「忘れられた小曲」という表題と合致する。その一方で、初出時には《歌詞のない恋歌》、《小曲》と名づけられていた《忘れられた小曲Ⅰ》と《忘れられた小曲Ⅴ》は、メタ的な詩篇として「忘れられた小曲」のセクション、ひいては『歌詞のない恋歌』全体のあり方を規定していると捉えることが可能である。上記の2篇はそれぞれの後続する詩篇とともに「非人称性」を持つ詩篇の構築と、その詩篇がもたらす「非人称的叙情」の受容を提示しており、ヴェルレーヌが抱いた撞着的な夢想のひとつの実現を示すものとなっている。

 続く「ベルギー風景」のセクションも同様に、個々の詩篇の描写方法と、それらを統御する装置という二重の「非人称性」の構造を示している。先行する「忘れられた小曲」とは異なり、人称代名詞を排除し、「風景」に心的状態を溶け込ませる試みに加えて、読者に一定のイメージを喚起する形象を用いることで、セクションの全体は統御されている。こうしたセクションごとの大幅な雰囲気の変化には、自身が身を置く土地、環境に応じて新たな詩法を試みようとするヴェルレーヌの意図が反映している。

 しかし、最終セクション「水彩画」においては、この試みは成功しているとは言いがたい。ベルギーからイギリスに移動したヴェルレーヌは、初めて訪れた場所の「印象」を意識的に集めるという行為から出発して、その土地に固有のポエジーを得ようとしていたことが、残された書簡等から窺い知れる。しかし、その試みが実を結ぶ以前に、結果的に急ごしらえのセクションとして「水彩画」は、手稿の完成間際に『歌詞のない恋歌』に盛り込まれることとなる。したがって、この「水彩画」においては、「忘れられた小曲」や「ベルギー風景」とは異なり、新たな詩法が十全に提示されることはなく、なによりセクションを統御する構造を欠いている。

 こうした不完全さ、未完成の印象は、セクション中の詩篇《CHILD WIFE》が、詩集の第3セクション《BIRDS IN THE NIGHT》とともに、過剰に « personnel » の領域に踏み出していることとも関係している。これは『歌詞のない恋歌』の執筆時期のヴェルレーヌには « impersonnel » への漠然とした傾向のみが存在し、けして確固たる詩法に基づいていなかった事実の反映である。しかし、その一方でこれらの詩篇が、晩年に近づいたヴェルレーヌが大量に書くこととなる自己演出的な、さらには露悪的な詩篇とは詩法において一線を画するのもまた確かである。前述のとおり、後年のヴェルレーヌは自身の著作に « personnel » の概念を持ち込み、自らの感覚・心情に基づいた統一を打ち出している。しかし『歌詞のない恋歌』に関する言及や、再刊やアンソロジーへの収載といった刊行後の扱いを確認すれば、詩集が湛える「非人称性」、「非人称的叙情」の試みが保たれるように詩人自身が配慮していた様子が明らかとなり、そのために詩集は « personnel » の文脈に完全に回収されることはない。

 1872年から1874年にかけてのヴェルレーヌの詩的営為を「非人称的叙情」の観点から考察することによって、詩人が当時抱えていた構想の独自性と、その結実としての『歌詞のない恋歌』の位置づけは明らかとなる。時系列の上では « impersonnel » な詩法の萌芽として受け取られるべき『歌詞のない恋歌』は、後続の作品を持つことがなかったゆえに、その詩法の唯一の、しかし不完全な適用例として、詩人の著作中で特異な位置を占めている。本論においては、『歌詞のない恋歌』1冊を、詩人が後年用いた « personnel » の文脈から切り離し、執筆当時の時代背景に置きなおすことによって検証を試みたが、これによってヴェルレーヌの「非人称的叙情」の詩法が持つ意義とその革新性がより明確に理解される。

 なお本論は「『歌詞のない恋歌』テクスト校訂の諸問題」と題した補論を伴う。詩篇の読解を論の基盤とする以上、テクストの選択には慎重にならざるをえないが、『歌詞のない恋歌』に関しては、ここ数年の間に新たな校訂版が出版された現状においても、なおいくつかの問題が残っている。この補論では本論の主題を扱う上で既存の各校訂版が孕んでいる問題点を示し、その後に論中で使用するテクストを確定するという順序で作業を進めた。具体的には、研究史を概観しつつ、最新の成果に拠って『歌詞のない恋歌』執筆当時の出版事情ならびにヴェルレーヌの個人的状況を検証することで、今日の研究者が取るべき方向性を探ることとした。こうした工程を選ぶことにより、本論では必ずしも詳細に取り上げることのできなかったヴェルレーヌの同時代的状況、ならびに詩集に対する姿勢の変遷を補完的に示すことが可能となった。

上記の作業の結果、本論の論旨に合致する形式で新たに『歌詞のない恋歌』の原文を提示したが、それらに日本語訳を付すことをも同時に試みた。この作業は、文法構造の異なる言語に移す過程で論者の理解と立脚点がより明確になるという側面を持ち、さらに論中で十分な位置を与えることができなかった詩篇の解釈を示す場を得ることにも繋がった。しかし、詩作品を日本語へと翻訳する作業は、原文が持つ複層性の限定とも表裏一体であり、また韻律を翻訳文に反映させること自体、非常な困難を伴う。こうした問題点を認識した上で敢えて翻訳を試みた最も大きな理由は、『歌詞のない恋歌』におけるヴェルレーヌの「非人称的叙情」を扱った本論の趣旨と関連する。『歌詞のない恋歌』を韻律上の実験と見るばかりではなく、ひとつの野心的な詩法の実践と捉えるならば、その中心となる「非人称的叙情」の概念を翻訳に反映させることは可能であろう。このような観点に立った上で、ヴェルレーヌの詩的営為の同時代性をより詳細に検証する場として、またその試みが持つ普遍性を証明する場として、本論に対して以上の補論を付したものである。