画家で批評家でもあったベヌア(Александр Бенуа,1870-1960)の主張によれば,1910年のバレエ・リュスの《火の鳥》西欧初演以前,「真のロシア的バレエ」はなかった。あったとしても,それは「低俗な紋切り型」であり,《せむしの小馬》(1864年初演)はその悪い代表例だった。こうした見方がこれまで通説だったのは,バレエ・リュス以前のロシア・バレエ研究の不足が原因であり,事実詳細はよく知られていなかった。また,19世紀は芸術の多くの分野でその主題を民族的なものに求めたが,これまでロシアを主題にしたバレエの発展の歴史は十分に確認されていなかった。
本論文では,これまでロシア国外で閲覧することが困難であった『帝室劇場年鑑(Ежегодник императорских театров)』(以下『劇場年鑑』)を主要な一次資料として,あまり知られていない,《火の鳥》以前のロシアを主題にしたバレエとその帝室劇場における上演の実態を調査した。そして舞台美術家達の仕事を通じ,ネオ・ナショナリズム芸術が美術からバレエへどのように発展し,《火の鳥》で結実したかを調べた。また帝室劇場のこれまでほとんど取り上げられることのなかった古い舞台美術家達についても調べ比較することにより,コローヴィン(Константин Коровин,1861-1939),ゴロヴィーン(Александр Головин,1863-1930),ベヌアやバクスト(Лев Бакст,1866-1924)といった後のバレエ・リュスの画家達の革新性を明らかにしようと試みた。
論文の構成は以下である。
第1章では,19世紀ロシア文化におけるネオ・ナショナリズム芸術の定義を確認すると共に,『劇場年鑑』を用いて,バレエ・リュス誕生前夜の1900年代帝室劇場におけるバレエ作品上演の状況を概観する。
第2章では,帝室劇場におけるロシア民話を主題にしたバレエの実態を検証する。特に《せむしの小馬》初演時の批評からその作品の様相と問題点を明らかにする。さらにこれを1900年代以前に上演されていたロシアを主題としたバレエ作品とも比較する。
第3章では,雑誌『芸術世界(Мир Искусства)』創刊号に掲載されたディアギレフ(Ceргей Дягилев,1872-1929)の論文『複雑な問題(Сложные вопросы)』(1899)にまで遡って,バレエ・リュスの人々の芸術的志向の起源を探る。また,舞台美術の仕事をするようになるモスクワの画家達が,民衆芸術から民話へ関心を持つようになる経緯について考察し,その先駆者として,ポレーノワ(Елена Поленова,1850-98)を取り上げる。さらに,帝室劇場における舞台美術について考察する。最も大きな貢献をしたコローヴィンやゴロヴィーンと,彼ら以前のよく知られていない舞台美術職人らを比較する。
第4章では,民話に題材を採る《火の鳥》がどのようにバレエ作品になったのか,その過程を検証する。
付録として1900年代にマリインスキイ劇場とボリショイ劇場で上演されていたバレエとオペラの全レパートリーとその上演回数を調べ,表にした。その他に,現在は失われてしまったバレエ作品のあらすじ,そして初めての試みとして,ディアギレフの論文『複雑な問題』の全訳も添付した。これはロシア美術における象徴主義宣言とみなされている非常に重要な論文である。
「低俗な紋切り型」というベヌアの主張の根拠と真意はどこにあったのだろうか。『劇場年鑑』の記録によれば,《せむしの小馬》は,1900年代におけるペテルブルクとモスクワで,最も上演回数の多い人気作品だった。では『劇場年鑑』に掲載されたロジスラフスキイ(Владимир Родиславский,1828-1885)の批評を元にその内容を実際に調べてみると,サン=レオン(Arthur Saint-Léon,1821-1870)振付の最初の《せむしの小馬》は,エルショーフ(Пётр Ершов,1815-1869)の物語を原作に,民話に題材を採ってはいるが,皇帝の代わりとして中央アジアの汗,その愛妾,王女の友達にギリシア神話のネーレーイスがいるなど,場所の設定,登場人物,人物の描写は,ロシア民話の世界からかけ離れていた。そのようないわば軽薄なバレエが一般大衆の人気を博していたのだった。
《せむしの小馬》以前に遡ると,《ルスランとリュドミラ》(1821)と《三つの帯》(1826)の二つのバレエが確認できる。これらの作品はロシアを主題にして制作された最初のバレエであることは評価できるが,《三つの帯》の原作者であるジュコフスキイ(Василий Жуковсский,1783-1852)の小説同様,西欧ロマン主義の影響を著しく受けているという批判があった。《せむしの小馬》は,寄せ集めの創作とはいえ,少なくともロシア民話を題材として扱ったことに,《ルスランとリュドミラ》や《三つの帯》からさらなる一歩を踏み出したことが感じられる。
帝室劇場のレパートリーを調べてみると,1900年代当時,他にも《金の魚》(1867年初演)《魔法の鏡》(1903)《赤い花》(1907)等,ロシア民話を下敷にした文学を原作とするバレエが上演されていた。これらの作品も《せむしの小馬》と同様に,ギリシア神話の人物が現れる等,物語や登場人物を勝手に作り替えて,本物のロシア民話の内容や構造からはほど遠く,その実態は西欧人指導者達によって創られた19世紀バレエとほとんど変わらなかった。今日までに《せむしの小馬》以外は全て消滅してしまった。
19世紀は芸術の新しい主題を民族的なものに求めるという傾向が各国で見られ,音楽や文学,美術等,バレエ以外の芸術の分野では,ロシアの民族的なテーマが作品の主題として頻繁に取り上げられていた。
バレエ・リュスの人々が《火の鳥》を制作した時,彼らに熱狂した西欧の観客がロシアを主題にしたバレエを見たがったという理由以上に,このロシア人達はサン=レオンやプティパ(Marius Petipa,1818-1910)といった外国人指導者の手を離れて,自分達のルーツに根ざした真のロシアをテーマにしたバレエを創りたかった。
《火の鳥》は,彼らのアイデンティティーを確立させるための重要な作品になった。バレエ・リュスは《クレオパトラ》《シェヘラザード》のようなエキゾチックなオリエンタリズム・バレエで評判を呼んだが,オリエントを主題にした異国趣味的バレエや,《アルミードの館》のようなロシアより西のヨーロッパを舞台にした作品は,上演しようと思えば,ロシア以外の西欧の国でも上演できた。実際,オリエンタリズムは舞台作品の全く目新しい主題というわけではなかった。もし西欧でこれまで誰も見たことがないバレエがあるとすれば,それは「ロシア」を主題にした作品を本物のロシア人が演じる真正なロシアのバレエだった。バレエ・リュスをバレエ・リュスたらしめる,他にオルタナティヴを認めない唯一無二の存在となるために,本物のロシアを主題にしたバレエ《火の鳥》の成立は不可欠だった。ではバレエ・リュスの人々が考えていた本物のロシアとはどのようなロシアだったのだろうか。
ディアギレフは1898年に発行した『芸術世界』誌の創刊号に『複雑な問題』という論文を掲載した。当時,『芸術世界』派の画家達は,著名な批評家のスターソフ(Владимир Стасов,1824-1906)らに「退廃派」というレッテルを貼られていたが,論文はこれに対する抗議の声を上げた。また移動派のような芸術を社会のために役立てるという有用性の目的を否定し,「芸術のための芸術」を掲げる自分達の芸術的信条をはっきりと打ち出した。そしてここでも1910年のベヌアと同じように,ロシアの劇場における偽物のロシアを非難した。
最初の「ナショナリズム芸術」は,芸術に芸術以外の社会的な目的を負わせた形で現れた。移動派のような写実主義は,社会主義の思想と一体となり,画面を媒体として,貧しい民衆や社会の不平等を訴える目的を優先した。だが,В・ヴァスネツォーフ(Виктор Васнецов,1848-1926) ,コローヴィン,ゴロヴィーン,ベヌア,バクストら,後期移動派あるいは次世代の画家達は,主題の語る内容よりも画面上の美的な様式や装飾的価値にもっと心を砕いた。
これらの新しい画家達のインスピレーションの源になったのは,農民の手工芸品などの民衆芸術である。そして民衆芸術復興運動の中心は,モスクワの鉄道王マーモントフの領地アブラームツェヴォにある芸術家コロニーだった。ピョートル大帝によって導入された西欧の文化と経済形式でそれまで主権を握っていたペテルブルクに対し,モスクワとそこで保存されていたロシアの民衆芸術は文化の新しい扉を開き,モスクワが芸術において重要になる大きな契機を作ったのである。
主題の伝えるメッセージや社会性を否定し,装飾性をより重視した画家達にとって,民衆芸術への関心から生まれたネオ・ナショナリズム美術を応用するのに最も適した場所は,『芸術世界』誌を始めとする雑誌の挿画や装丁だった。移動派のような写実的に描く手法とは手を切り,高度に装飾化された画面を構成するために,民話は最も理想的な題材の一つだった。民話は「現実」を直接的に語らず,精神的にロシア民衆の身近なところにあって,豊かな空想の世界である。描かれる人物,建物,森などの風景は,デフォルメされ,色彩的で,高度に装飾的である。最初に民話とその挿画に注目し,この美的価値を高めたのは,ポレーノワだった。この新しい芸術の領域は,В・ヴァスネツォーフやビリービン(Иван Билибин,1876-1942)によって一層の発展を見た。
プロのタブロー画家を初めて舞台美術の仕事に起用したのは,マーモントフの私立オペラ団(プライベート・オペラ)だった。彼らの《雪娘》(В・ヴァスネツォーフ美術)によって,民話の挿画のような新しい様式のネオ・ナショナリズム舞台美術は,最初に劇場の世界にもたらされた。それからコローヴィンやゴロヴィーンら『芸術世界』派の画家達によって,帝室劇場のオペラやバレエの舞台にも導入された。
19世紀末,プロのタブロー画家達が舞台美術の分野に進出したことによって,劇場の内と外でいくつかの新しい革命が起こった。まずネオ・ナショナリズム美術が舞台に導入された。そして舞台作品のエスキースは,一美術作品になるまで価値が高まった。画家達は,二つ目の新しい,大きな,立体的(三次元的)なタブローを手に入れた。これにより舞台美術は,それまでの空間の広がりを強調したものから,平面的で二次元的な,新しい構成の可能性を広げた。特にゴロヴィーン以降の画家達は,タブロー画家として,舞台美術に三次元的構成から二次元的構成をもたらしたのだといえる。
この舞台美術の新しい伝統は,1900年代にはすっかり定着した。だが当時の帝室劇場で上演されていた作品の演出や構成に目を向けると,ロシア民話に題材を採った作品制作の試みは少しずつ行われていたが,その内容は外国人指導者によって振付けられた「低俗な紋切り型」だった。《せむしの小馬》は人気の高いバレエだったが,自国ロシアの民衆に根ざした芸術とは程遠い「偽りの」ロシア・バレエだった。バレエの要素のうち,美術と音楽は既に高いレベルに達していた。総合芸術としてのバレエが真のネオ・ナショナリズム芸術として完成するために,ロシア民話にいるはずもないギリシア神話のネーレーイウス達と手を切って,ロシア民話の世界を忠実に再現する必要があった。こうして完成したのが,バレエ・リュスの《火の鳥》である。
《火の鳥》は単に民話を忠実にバレエ化したという以上の意味があった。物語構造を同じにする《せむしの小馬》には,ロシア帝国による中央アジアの統合という国家のイデオロギーが込められていた。だがディアギレフ達にとって,タタールの血は自分達の文化の一部であり,ロシアという民族的素材とアジアやムスリムといった異国風の境界は曖昧だった。振付家のフォーキン(Михаил Фокин,1880-1942)は,古代エジプトやアラブ世界を主題とする作品においても,これまでのプティパのオリエンタリズム・バレエとは違い,衣装や振付に本物らしさを追求した。これはジャンル・ヌーヴォーという新しい概念であり,そこにはロシアという一民族を越えて,多元性が支配する世界に対する敬意が込められていた。