本論では、夏目漱石が文学作品の創作を開始した明治三十八年から、職業作家として活動を始める明治四十年にかけての初期作品を取り上げ、漱石が初期に構想していた「文学」という概念を考察し、その可能性を明らかにすることを目標とする。
この創作開始期において「文学」の自明性を問い返そうとする意識が漱石にあったことは多くの指摘があるにもかかわらず、この漱石独特の「文学」という概念については、従来、明治四十年にまとめられた講義録『文学論』の分析を通して触れられることがほとんどであった。具体的な個別の作品を通しての分析や考察がなされることは、『文学論』で紹介される創作技法が反映されていることを指摘するものが中心であり、包括的な概念としての「文学」自体がどのように反映されているかを論じるものはあまり多いとはいえない。
この漱石が『文学論』の中で、「文学」として想定した概念は、〈F+f〉として数式化され、〈Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す〉と漱石は述べている。本論では、この「文学」という概念が、いわゆる小説や随筆、詩歌などのジャンルに分化することなく、非常に包括的に捉えられているという点にもっとも注目したい。いわば漱石には、ジャンルに分化する以前のより根源的な概念としての「文学」を想定しようとする意識があったといえる。
この「文学」概念を考えるためには、まず絶対的な必須要素とされる〈f(=情緒)〉の性格を明らかにする作業を主軸に据える必要がある。〈f〉を喚起し「文学」を成立させるためには、何を表現できるかという「対象」をまず第一に考え、続いてどのように表現できるかという表現「方法」について考えを進める。これらは漱石にとって常に、先行する外国文学作品や、また「文学」以外の多くの領域――特に科学や歴史学、美術――と対比させ、その相違点や共通点、互換性を探る道程の中で選び取られていったものである。本論では、こうした他領域との関わりの中で、「文学」概念がどのように漱石の中で精製され、性格付けをほどこされ、またその可能性を作品中で発揮していくかという点を明らかにしたい。本論は三つの部立てによって構成されているが、この「表現対象」「表現方法」という二つの論点に関わる問題は、それぞれ第一部、第二部で扱うこととする。そして第三部では、こうした模索を経て職業作家としての道を歩み始める漱石が、社会・読者と向き合いつつ、表現者としてこの二つの問題点を、どのような形で作品として結実させ得たかを考察する。
まず第一部では科学との関わりの中で模索されていく表現対象の問題を扱う。漱石は二十世紀を、近代的な科学的合理性が様々な局面で強い影響力を発揮する時代と捉えている。そしてこの科学的合理性から逸脱するがゆえに等閑視され、やがて排除抹殺されていく非合理的要素に、漱石はまず「文学」の対象となるに足る〈情緒〉を見出した。さらに近代化の中で滅びゆく非合理的要素の有り方それ自体が喚起する悲劇性が、逆説的に〈情緒〉を深めていることに注目していた。第一章では不条理な運命に翻弄されるロンドン塔の囚人たちの姿に焦点をあてる「倫敦塔」の分析を中心に、また第二章では時代に取り残されつつある偏狭な偉人の、一人の人間としての姿に焦点をあてる「カーライル博物館」の分析を中心に、こうした科学的客観性・合理性だけでは把握しきれぬ〈情緒〉の内実を、漱石がどのような点に求めていたかを明確にした。そしてこれらをふまえ、こうした科学的合理性の称揚が、やがて「科学」が世界を合理的に知悉できるという、信仰にも似たイデオロギーへと変容する中で、あらたに生まれ得た「二十世紀」的な〈情緒〉が何であったかを考察する。第三章では、「琴のそら音」の分析を出発点に、やがて「行人」へと結実する「科学」への信仰が、どのようなロマンティシズムを喚起したかを分析し、後期作品へと繋がる視点を得た。
また、科学との関わりの中で獲得された「文学」の可能性は、時間という概念を通して、表現方法を模索することへと展開されていく。それは美術(造形芸術)と比較されることによって、より豊かな文学表現を生み出すことになる。
本論の第二部では、こうした美術との関わりの中から模索される表現方法の問題を扱う。漱石は、〈画〉(=造形芸術)と〈詩〉(=言語芸術)を比較し、両者の差異をふまえつつも、同時に互換性をさぐろうとしていた。それは〈画〉に表現された一瞬に凝縮された美の時間を、流れる〈詩〉の時間に解凍しようとする意識である。第一章では、登場人物たちが「夢」という美的なものと一体化するために、〈画〉と〈詩〉のジレンマの中で表現方法を追求していく過程を寓意的に描き出した「一夜」の分析を中心に、初期の漱石作品で対比される〈画〉と〈詩〉をめぐる問題を考察した。また第二章では、もっとも美しい理想的な時間を一瞬に凝縮し、不変のものとする〈画〉の世界に一体化しようとする願望を描き出した「幻影の盾」「薤露行」の分析を中心に、時間を「コンデンス(凝縮)」するという漱石の美的理想の性質を考察した。そして、作中で具体化された、漱石の求める〈画〉の世界の内実がどのようなものであったかを明らかにした。また、こうした〈画〉との関わりの中で漱石が構築した「断面的文学」という概念は、多くのジャンルを包括する「文学」という概念に呼応するように、作品全体を通して鑑賞することと、任意の一部分を全体から独立させて鑑賞することを同時に可能にした。第三章では、このような「断面的文学」の集大成といえる「草枕」の分析を中心に、こうした〈画〉と〈詩〉の差異と互換性をめぐる観念に多大な影響を与えたとされるレッシングの芸術論『ラオコーン』との影響関係を改めて確認した上で、漱石がめざした「筋だけにこだわらない小説」が、どのように実現されていったかを分析した。
このように、余技としての自由な創作活動の中で「文学」が表現しうる対象と、また「文学」において可能な表現の可能性を探ってきた漱石は、この直後に教職を辞し、職業作家としての活動に専念することになる。それに当たって、これまで自らの中で形成してきた「文学」の可能性を最大限に発揮させようとする意欲は、当然漱石の中にあったと思われるが、これまでとは違い、専業の作家としての創作――また新聞を媒介とし、より多くの読者に向けて作品を発表するという形式で創作すること――は、漱石に予期しない外的な影響を及ぼしたと考えられる。
第二部までに論じてきた二つの問題意識は、職業的作家となり「社会」「読者」というファクターを新たに加えられたときに、漱石の中でどのように結び付き、発展していったのか。また漱石が新たに獲得せざるを得なかった問題意識とは何であったのか。本論の第三部では、第一部第二部で検証した漱石の「文学」概念における「対象」「表現」の要素が、「社会」という視点を加えられた際にどのように融合させられ、また変容していったかを考察した。「科学」との関わりから発した「文学」の「対象」の問題は、科学の合理性・客観性が社会的な要素と結びつき、やがて倫理観に及ぼした影響へと敷衍されていく。おりしも、日露戦争という国難に際して、文学者・作家という立場の人々が、どのように自己の社会的位置をさぐるかという問題は、同時代的な関心でもあった。第三部第一章では、日露戦争という同時代の題材を直接に扱いつつ、その中で時に偽善的ともいえる態度で、自分が果たし得る役割をアピールする「文士」の姿を戯画的に描く「趣味の遺伝」を中心に分析し、「社会」に向けて創作する行為に向けられた、漱石の表現者としての意識を分析した。
また、この近代的な合理的価値観と、個人の内面的な倫理観の関係は、漱石が個人的に抱いていた近代文明への違和感と重ねられることによって、観念的な対立の図式を漱石の中で生みだしたように受け取られることが多かった。漱石の職業作家としての出発を飾る長編連載小説「虞美人草」を、「失敗作」として評価する風潮は、こうした視点を多かれ少なかれ含みこんでいるといえる。しかし、「虞美人草」で目指されたものの本質は、「美術」との関わりから漱石が編み出して行った「文学」の「表現」に関わる可能性を、内容に関わる「文学」の「対象」の問題と接続し、統合することへの試みであったと考えられる。第三部第二章では、旧弊な「勧善懲悪」的内容と「美文」的文体をもつ時代錯誤な作品として読みとられてきたこの「虞美人草」において、「文学」の要素をアレゴリカルに背負わされた登場人物の性格を分析し、漱石がそれまで練り上げてきた「対象」と「表現」に対する見解をどのような形で結実させようとしたかを考察した。
さらに終章では、その後の「三四郎」から始まる中後期作品にむけ、初期作品史での漱石の試みがどのように彫琢されていったかを望見し、締め括りとした。