立原道造(一九一四~三九)の制作した一〇〇編あまりの十四行詩は、多くの愛読者を持ちながら、その詩篇の魅力を言語化しようとする時、概して各論者とも曖昧な言い方に終始せざるを得ない。本論はその立原詩形成における根本原理を探索し、昭和一〇年代前半という日本回帰の時期に生きた彼の精神的位置を読み解く試みである。
第一部では立原詩の方法を考える。第一章「立原的語法の出発――口語自由律短歌・映画的発想――」では、口語自由律短歌と、映画的手法を中心にその文学的出発期を探索する。立原は「実相観照」的な文語短歌から口語自由律短歌、そしてモダニズム詩と表現を模索し、それは「フラッシュバック」や「オウヴァラップ」という断絶、重層の映像的手法にまで達した。寺田寅彦がエイゼンシュテインのモンタージュ論に影響されて連句をのみもって映画に比し、言葉のフラッシュバックとオーヴァーラップを同一地点に収斂させていたのに対して、立原は二者を判然と区別して用いておりその言語感覚の鋭敏性がかいまみえる。すなわち「傷ついて、小さい獣のやうに」のごとく、意識を掬い取ろうとして際限なくずれていく言葉を執拗に追跡した語りと、「またある夜に」、「風に寄せて その三」に見られるような、「とほくて近い」という連続状態のままに境界を消失させる語法である。
第二章「立原的語法の特色 ――宮沢賢治・「四季」後継者たちとの比較を通して――」では、立原の「純粋状態」・「中間者」意識の詩法的実現の様態を宮沢賢治『春と修羅』「序」の語法、および立原詩の模倣者、鈴木亨の作品に対比させることで浮き彫りにした。立原詩の基盤には「中間者」という、「人間」が「金属」となり「結晶質」となるような融和する連続体の親和意識が存在し、「風のうたつた歌 その一」、「またある夜に」、「さびしき野辺」といった作品では、融和する二者の様態を、その「純粋状態」のままに、言語の操舵の様態によって十四行詩に実演してみせる特色を持つ。そこで彼が宮沢賢治に対して発していた「イメージの氾濫」との疑念の言葉は、自身の表現上の操作に比べ、賢治が、親和状態の把捉には不十分な、イメージの過剰な使用と縷々続く直線的叙述に終始した点への非難であったと考えられる。加えて立原詩にその模倣者たる鈴木亨の作「籬によせるⅠ」を比較してみれば、鈴木は表層の語彙を移入したにとどまり、立原の詩構成における統語法の緻密さが改めて浮上してくるのだ。
第三章「立原的語法の由来――三好達治/翻訳調/新古今的語法――」では、立原詩の統語法の起源を追跡する。立原は三好達治の作品、リルケ翻訳によって日本語の属性に自覚的になり、そしてさらに十四行詩が生れる一九三五年には新古今的語法を学習して、①倒置によって語句が二箇所に経絡する、②修飾句が二箇所に経絡する、③述部が二つの主語をうける、もしくは述部が二つの対象を分かたずにうける、といった語句経絡の方法を学んだ。これは新古今的語法が先端として蘇生し、伝統によりモダニズムが乗り越えられたことを意味する。
第四章「近代新古今評価の中で」では再評価がなされつつあった昭和初期の新古今和歌集の様態を検証し、その中で本歌取りが再生された立原詩を解読していく。近代において、本歌取りにおける古世界への自己投入は逃避と捉えられる場合が多かったが、しかし感情の複雑さを古歌の重層を用いて創出する行為に着目されるときには個我の発露として主体性が見出された。その中立原は「浅き春に寄せて」において、『伊勢物語』第四段を踏まえ、悲哀を重層させることにより自身の空虚を昇華させた。また立原は、著名ならざる歌が作品にとられていることを読者にわからせる工夫に、エピグラフとして本歌を記しておく手続を施す。立原は近代新古今和歌評価における否定的な本歌取り観の中で、感情の複雑さを古歌の重層を用いて創出する点に価値を認め、繊細で入り組んだ抒情を表出したのであり、この本歌取りもまたテクスト外部とのオーバーラップの試行だったといえる。
第二部では立原詩の精神性を論じる。第一章「「変様」の力学――芳賀檀の受容・中原中也への対峙――」では、立原晩年の一九三八年における思想を概観した。この年の立原は、芳賀檀に接近しナショナリズム的風貌をまとったと捉えられがちだが、保田與重郎のいう「血統」が神代との照応の根拠であるのに対し、芳賀の語る「血統」とは未来へ「変様」し続けることを担保する底流であり、芳賀にとって古典とは「以上」へ変革される意味で尊重されるべきものであった。立原は芳賀の思考を得、それまでのイメージ増幅装置としての本歌取りを「変様」の形式として作り変える。また立原はそれと期を一にして、ハイデガーの古典主義を未来への「変様」の土台として受け取り、ハイデガーの用語「対話」をも、「以前」を「以上」へと「変様」せしめる場、未来へ向けて新たな存在を導き出す言葉として捉えなおした。その立場から一九三八年の詩群、「何処へ?」、「歌ひとつ」、「或る晴れた日に」等が作られたが、そこには模倣者に感じ取られない、底知れぬ不安と慄きを抱きつつも「出発」せんとする、立原独特の引き裂かれた意識が刻み込まれる。こうした立原が中也を見る時、「汚つちまつた悲しみに……」には「以上」への視線がなく、また「言葉なき歌」にはそれがみられたにせよ詩として形象化する修辞法がないと捉えられた。
第二章「建築と詩の交通――「方法論」の解読――」では立原の東京帝国大学工学部建築学科の卒業論文「方法論」の読解を通して、立原における建築と詩の交流の様態を探索する。一九三六年一二月に書かれた「方法論」は「現象学の建築芸術の領域への応用」であると標榜され、立原は現象学的態度により建築体験を捉えなおそうとする。そして現象学の思考を詩に移入した「ゆふすげびと」のような作が成されたが、それは現象学的認識の状態で書かれず、現象学的認識の状態を反復する態度によって形成されることとなった。また立原はベッカーの「芸術家」存在における「瞬間」と「永遠」の融合の思考を「建築体験」に変容移入し、私たち人間としての生が「壊れ易い」ものであることによって、まぎれもない歴史的時間の中の永遠性・無限性であるという、「死と成、成と死の間に動く」中間存在であることを示す。その思考は詩篇「風に寄せて その五」に結晶化された。
第三章「共同体の希求――「ほんたうのふるさと」をもとめて――」では第二部第一章に見た「以上」への意志の下、立原が向かった着地点を探る。卒業設計の舞台にも選定された、理想郷としての信濃追分を喪失した立原は、「以上」への延長線上に全円と個の共同体、「ほんたうのふるさと」を把捉せんとする。その探索のため、彼は「以上」へと上昇し続ける芳賀檀の思考に共鳴し、「出発」の決意を新たに発し続ける限りにおいて日本の原郷回帰から逃れ得た。しかし「国体」という絶対概念が定立された戦時下、芳賀にとって「血統」の語彙は、日本民族が世界へ優越する根拠となって捉え返されることとなる。そしてまた立原の「純粋状態」・「中間者」の発想が共同体の原理へと変質するとき、それは西田幾多郎が示す八紘一宇の原理と隣接する。戦時下に生があったとして岸田日出刀、丹下健三らの東大建築科出身の国策的グループに交わらざるを得なかったであろう立原は、彼らと同様ナショナリストの風貌を纏ったことが見通されるのだ。しかしまさにその「純粋状態」・「中間者」の原理を執拗に詩へと変換せんとした努力こそが、彼に新古今的語法を発見させ、各論者が語って言い尽くせなかった魅力を内包した詩篇を創出させた。ことに晩年の、「変様」と共同体状態の形象化を求め続ける詩篇には、「宇宙的なさすらひや大なる遠征」が成就し得ずに傷つき崩壊へと向かう自身の存在の様態が反復刻印されることとなった。立原詩はこの危うい均衡において求心力を発し続けるのである。
第四章「加藤周一に見る〈立原的なるもの〉の戦中戦後」は、教養派的知識人による、立原乗り越えの可能性の検討である。加藤はその文学的出発期には立原に影響され、立原的語法によって押韻詩を制作する模倣者の一人であったが、しかし戦時下には、超越的普遍との交感の様態そのものを「詩法Ⅰ」(一九四四)に構成し、軍国主義への文学的抵抗を試みた。この作には皇国史観に裏打ちされた政治、所謂「神ながら」のみちからの脱出の身振りが読み取れ、その限りで軍国日本の精神性への抵抗となり「星菫派」から差異化される。だが対峙すべき皇国の原理に対しての抵抗をやはり原理的に行ったために、その象徴主義は現実社会を通り越して個を形而上学的外部へと直結するものになる。そこから加藤は荒正人・本多秋五らによって「高踏的な審美主義」による「現実回避」、との批判にさらされることとなった。しかし戦後加藤は、サルトル、アラゴン等抵抗者の思想・文学を受容することによって近代的自我中心主義を否定し、世界に投げ出されてある人民間の連帯をこそ積極的抵抗と捉えるに至る。連動して彼の象徴主義も普遍的外部志向から社会的現実との交流へと重点は移り、「愛の歌Ⅰ」(一九四七)はその意識が反映される抵抗の象徴詩となっていた。この時加藤は、「星菫派」からは明確に隔たり、荒・本多らの酷評からも切断されるのである。つまり加藤は、立原には存在しなかった抵抗の態度をもって戦時下にあるべき連帯の思考を得たのであり、立原の「純粋状態」「中間者」の発想により社会的現実を捨象して全円と個を繋ぐというユートピア的な共同体原理を乗り越えているのだ。