本論文は1920年代に上海で誕生した漫才・コント形式の芸能である「独脚戯」と、1942年前後にその独脚戯の芸人らによって始められた上海及び上海近郊の方言を用いる喜劇「滑稽戯」を取り上げ、1910年代から1950年代における、この2つの芸能の成立から上海の興行界・演劇界において一定の位置を占めるに至るまでの過程を、新聞・雑誌・公文書など一次資料における劇評や公演情報を用い、遊楽場・映画・ラジオ等新興のメディアとの関係を中心に考察したものである。本論文が独脚戯と滑稽戯に着目するのは、この2つの芸能が上海で数少ない上海土着の芸能である、そして現在まで上海で一定の人気と地位を有する芸能として存続している、更に独脚戯と滑稽戯には同時代上海の日常を題材とする作品が多く、観客も特定の階層や出身地に限定されていない、そしてこれまで独脚戯が曲芸(語り物芸能)の分野、滑稽戯が演劇の分野においてそれぞれ研究されてきたのに対し、両者を併せて対象とすることにより曲芸と演劇の研究領域を総合的に考察することができる、などによる。本論文は全6章から成り、1910年代から1950年代までの独脚戯と滑稽戯を通史的にではなく、問題史的にアプローチすることを目指し、同時代上海の社会・文化及びメディアを考察することにつながるテーマを独脚戯と滑稽戯からそれぞれ選んで構成されている。

第1章は独脚戯の前身の1つとされる趣劇を対象としている。張冶児・易方朔の2人の俳優並びに彼らが結成した「精神団」を取り上げ、1910年代から1920年代の笑舞台における公演状況、1920年代から1930年代にかけての遊楽場との関係、1930年代以降の劇場への進出、そして1940年代における滑稽戯劇団への合流までを一定程度明らかした。先行研究では独脚戯が成立する1920年代までの趣劇が専ら言及の対象とされ、あたかもそれ以降趣劇が消滅したかのような印象を与えてきたが、本章の調査により遊楽場を除く劇場での定期公演としては京劇の他、滬劇・評劇・文明戯・話劇などに限定されていた1930年代上海興行界における、精神団の劇場公演の実態を確認した。また1910年代から1920年代に関しても、先行研究では指摘に止まっていた笑舞台における趣劇の実態及び変化を、一次資料を用いて明確にした。

第2章は独脚戯の成立に関し、創始者の一人である王无能の作品と軌跡を中心に考察した。とりわけ王无能の劇場・遊楽場・堂会・書場・ラジオ・映画等への進出状況、並びに王の死を題材にした舞台公演などを紹介することにより、独脚戯という芸能が成立する背景となった上海興行界とメディアの状況、更にそれに機敏に対応して進出に成功する独脚戯という芸能の特性について一定程度明確にした。また王无能と彼が創始した独脚戯という芸能が、その死後間もない1930年代後半から既に、1910年代から1920年代までの上海を回顧する言説において、その時代を象徴する人物と事象の一つとして言及されている点も指摘した。

第3章は筱快楽という芸人を取り上げ、その軌跡と作品を通じてラジオ放送と独脚戯との関係、及び筱快楽を人気者にした戦後内戦期上海の時代状況を考察した。筱快楽はその国民党寄りの立場と中華人民共和国成立以後中国を離れた関係で、米商から襲撃された事件に特化した論考を除いて先行研究はなく、また評価も低かった。しかし本章の検証により、筱快楽がラジオの特性を活かして確立した社会批評のスタイルや、対象への攻撃方法など、ラジオ放送における独脚戯としての画期性について指摘した。またその米商との衝突の過程を考察することを通じ、戦後内戦期の複雑な上海の支配構造や支配層内の利害対立、といった様相も一定程度明らかにした。

第4章は1940年代の滑稽戯の草創期を対象としている。この時期の滑稽戯に関してはこれまで俳優の回想に基づいて形成された通説が学術的検証を経ぬまま無批判に踏襲されてきており、それ以外に関しては不明な点が多く残されていた。本章では「滑稽戯」という名称が確立される過程、滑稽戯成立の背景にある興行界の変化、そして文明戯と滑稽戯の関係に関する通説をそれぞれ取り上げ、一次資料を用いて検証を加えた。更に『小山東到上海』シリーズの公演記録と内容に関しても可能な限り紹介し、戦時期上海において話劇の『秋海棠』に匹敵する人気であった点を指摘した。『小山東到上海』シリーズに関しては先行研究でも名前の言及に止まっており、本章の同シリーズに対する考察は芸能史的に意義の大きいものであったと言える。

第5章では1950年代の滑稽戯界及び上海演劇界全体が直面した大変動に関し、1950年と1957年に流行して強い批判を浴びた「阿飛戯」シリーズと、1956年に魯迅逝去20周年を記念して上演された滑稽戯版『阿Q正伝』の2作品を取り上げ、その制作過程・内容・評判を通じ考察した。両作品とも現在再演されておらず、特に前者は上海各界から強く批判されたため、先行研究や概説では作品名の言及に止まり、内容等については全く不明であった。本章では両作品の紹介など基本情報の提示に加え、滑稽戯の代表作の一つとなるに至らなかった要因に関しても検証を行った。「阿飛戯」の流行とそれに対する厳しい批判に関して本章では、その社会背景にある上海の社会に根深く残存していたアメリカ文化への憧憬とそれに対する強い警戒にまで言及し、朝鮮戦争期の上海を社会史的にも考察を試みた。

第6章は滑稽戯の代表作として現在でも再演され続けている『七十二家房客』を取り上げ、その制作の過程、背景となる当時の滑稽戯劇団の置かれていた創作環境、及び代表作として現在まで残った要因等を、一次資料を用いて考察した。本章では特に、滑稽戯『七十二家房客』誕生以前にあった、独脚戯版と映画版の『七十二家房客』、更には第4章で取り上げた『小山東到上海』を詳細に紹介して滑稽戯版との比較を行った。また本章では、1940年代上海の路地裏を舞台に当時の上海の日常生活を喜劇的に再現した『七十二家房客』を、初演された1958年から現在に至るまで上海に暮らす人々が抱き続ける民国期上海、即ちオールド上海を懐かしむ気持ちを満たす作品として位置付け、文化大革命が終結した1980年代以降、上海人のオールド上海への思いが強まるにつれてその作品としての評価が高まった点も指摘した。

結語では、文明戯公演の中で俳優たちが各種の芸能を披露したことから始まった独脚戯が一つの芸能として確立されたのは、遊楽場や堂会のように低コストで短時間の公演が必要とされることが多い上海の興行システムに上手く適応し、レコード・ラジオ・映画・劇場と、方言が問題となった映画を除くと進出に成功した点を指摘した。更に文明戯のみならず京劇・滬劇・弾詞等、上海の芸能は清末より同時代上海の社会・日常を題材とする作品で人気を集めてきたが、その後中華民国期を経て中華人民共和国が成立する前後までの間に、多くの芸能が作品の同時代性よりも芸術性を高めて古典芸能化を目指していった。その中で独脚戯と滑稽戯は上海の芸能の特徴を継承し、同時代上海の社会・日常を中下層の人々の視点から描くというスタイルを保持し続け、それを自らの売り物にしてきた。そこで、独脚戯と滑稽戯は上海、とりわけ路地裏から見た上海を映す鏡としての役割を果たしてきた芸能であると位置付けた。