『日本国現報善悪霊異記』は平安時代初期に薬師寺の僧、景戒によって著された。景戒は、この書にいわゆる因果応報譚を集め、出来事としての「善悪の状(さま)」・「因果の報(むくい)」を示すことで、ひとびとを「善道」へと導こうとしたのであるが、その背景には、景戒が「何ぞ、唯(ただ)し他国の伝録をのみ慎みて、自土の奇事を信じ恐りざらむや」(上・序)と嘆く、「自土の奇事」が「善悪の状」・「因果の報」だということに気づかないひとびとの存在があった。景戒は、「他国」とは異なる、「日本国」における「善悪の状」・「因果の報」のあらわれ方の具体例を示し、ひとびとにそれとして気づかせるために、『日本国現報善悪霊異記』をまとめたのである。それは、釈迦在世から時間的にも空間的にも遠く隔たった「日本国」において、仏の教えとひとびととをつなごうとする試みでもあった。
しかし、その景戒も仏の教えから遠く隔たっていることは他のひとびとと同じであり、景戒自身、各巻序において、自身の仏教者としての才知の劣等にくりかえし言及しているのであるが、それはとりわけ『霊異記』を執筆することについての記述においてである。このような自身の才についての問題意識の背景には、「聊(いささ)かに側(ホノカ)ニ聞けることを注(しる)」(上・序)すといういとなみが、自身の手によっていることについての自覚、いうなれば、『霊異記』という書が説話編纂という仕方で景戒の思想をかたちにしたものであることについての、景戒のあきらかな自覚がある。つまり、景戒にとって『霊異記』を執筆することとは、「凡人(ただびと)」である自身が考え信ずるところにかたちを与え、確認するいとなみでもあったと考えられるのであり、本稿は、そのような景戒の思想としての『霊異記』のあり方に焦点を絞り、その思想内容をテキスト内在的にあきらかにしようとする試みである。
そこで本稿では、第一、二章において、仏の教えと「日本国」のひとびととを媒介するものとして「聖」・「聖人」あるいは仏像といった存在を取りあげ、それがどのようにひとびとを仏の教えへと導くのかを検討した。
第一章「聖」では、景戒が当代の天皇である嵯峨天皇を、高僧の生まれ変わりであることをもって「聖皇」としていることから、「聖」・「聖人」といった存在の「聖」性の内実を問題として提出した(第一節)。第二節では、行基がその「天眼」・「明眼」で、女が髪に猪の油を塗っていることや、ある親子の前世を見抜いたことが描かれる中・二十九と中・三十を検討し、そのような行基は、普段は日常の背後にあるものをひとびとの意識にもたらす、いわば媒介者とも言うべき存在であり、特に中・二十九においては、「日本の国に於いては、是(こ)れ化身(けしん)の聖なり。隠身の聖なり」と、行基のその「聖」としての存在自体が、ひとびとが共有するべき話の主題となっていることを指摘した。第三節では、聖徳太子がその「聖人の通眼(つうげん)」によって道端の乞食を「聖」と見抜き、そのことで「聖人(ひじり)」とされていた上・四を、『日本書紀』の該当箇所と比較検討することで、『霊異記』では「聖」・「聖人」が語られると同時に「凡人」・「凡夫」への言及があること、つまり景戒が、明らかに見通す「通眼」・「明眼」を持つ「聖」・「聖人」に対するものとして、「肉眼」しか持たず、“今・ここ”に限定されている「凡人」・「凡夫」という存在を強く意識していることを確認し、「聖」・「聖人」とは、その存在・あり方そのものを通して、ひとびとに日常を超えたものを示し、それを知ることができない「凡人」・「凡夫」というあり方を自覚させる存在であることを考察した。
第二章では仏像という存在について、盗人にたたき延ばされた仏像が「痛きかな」と声をあげる不可思議な出来事の後、それを知ったひとびとが「我が大師、聊(いささ)かに何の過失(あやまち)有りて、此の賊難を蒙(かがふ)りたまふ」とその「過失」を仏像に求めていること(中・二十二)から検討を始め(第一節)、第二節では、海難事故にあった男が、妙見菩薩に「我が命を済(すく)ひ助けたまはば、我が身を量(くら)べて、妙見の像を作らむ」と願ったことで助かり、その後「己(おのれ)が身を量(くら)べ」て仏像を作ったという話(下・三十二)や、吉祥天女像に恋をした優婆塞(私度僧)が夢のなかで天女像と交接した翌朝、天女像に「不浄」の染みがついていた(中・十三)等の説話から、それに対したひとびとのあり方をそこにうつしだすという仏像のはたらきを検討した。そして、そもそも仏像とは仏のどのようなあり方をかたちにしたものであるのかをうかがうため、第三節では、『霊異記』で唯一、生前の仏そのひとに関する記事がある中・四十一を検討した。生前の仏は、ある女が「哭く」のを聞くことで女の因果を知ることができる存在であるが、自身も「音(こゑ)を出して嘆」き、「哭」き、「本末のことを知る」、つまり女の因果を知ることができる存在であり、ひとびとと同じ肉体(「肉身」)を持ちつつも、すでにして「肉身」の限定から自由で、さまざまなものの因果を知るという「法身」としてのあり方を獲得していた。また仏は自身も「肉身」として「音(こゑ)を出して嘆」き、「哭」くことで、女の因果を周りに対して表現していたことも指摘し、「聖霊」という表現にも注目した(第四節)。
第三章では、中・十三の優婆塞が自分の愛欲を「慚愧」し「媿ぢ」たにもかかわらず、それが里人たちの広く知ることになることをいかに理解すべきかということから、あるひとにかかわることが、他のひとに知られ、伝えられていく伝播の問題を考えていった(第一節)。上・三十三や中・二を見ていくと、その話の核には、ひとびとが、他のひとや生き物を「慈(あはれ)」ぶ・「愍(あはれ)」ぶ・「矜(メグ)」むということの連鎖があった。そしてひとびとは、対象を「慈(あはれ)」ぶ・「愍(あはれ)」ぶ・「矜(メグ)」むといったことにおいて、「凡人」・「凡夫」あるいは「欲界雑類」といった、ほかならぬ自身のあり方をその対象に見ていたのであり、また、それと同時に、その「慈(あはれ)」ぶ・「愍(あはれ)」ぶ・「矜(メグ)」むということで、その対象のなんたるかをその身において表現してもいた。それは、その「肉身」をもって妻のあり方をうつしだしていた仏のはたらきに通じるものであり、つまり、「理智の法身」がおこなっていることを、「凡人」・「凡夫」、「欲界雑類」であるひとびとも結果としておこなっているということであった(第二、三節)。
また、「慈(あはれ)」び・「愍(あはれ)」ぶべき「凡人」・「凡夫」あるいは「欲界雑類」といったひとびとのあり方とは、その本人からすれば「恥ぢ」るべきあり方であり、「慈(あはれ)」び・「愍(あはれ)」ぶことと、「慚愧」する・「媿(は)ぢ」るということは基本において重なる事態であった。つまり、「慈(あはれ)」び・「愍(あはれ)」ぶ、あるいは「慚愧」し・「媿(は)ぢ」るということにおいて、ひとびとは「凡人」・「凡夫」、「欲界雑類」としての、自身の、あるいは他の存在のあり方に気づき、そして「理智」をそなえた存在のはたらきの一端を担い始めているとも言えるのである(第四節)。
ところで、上・一には、雄略天皇と后が「婚合(クナガヒ)」しているところに従者栖軽が入ってくると天皇が「恥ぢ」たという話が記されている。『日本書紀』や『古事記』における「恥」・「羞」・「辱」という語を検討してみると、それらは自身のあり方、自身がある場をあきらかにし、世界が新たなかたちで再構成される契機となるものである(第五節)。この上・一では、天皇が「恥ぢ」、自身が今までに天皇として「日本国」においてなしてきたはたらきを、因果を知り、日常の背後にあるものをひとびとに示すという「聖」のそれとして受けとめなおしたことで、「日本国」のあり方も捉えなおされ、「日本国」は「聖」としての天皇を頂く国家として再編成されたことを考察した(第六節)。
第四章では、景戒が自身について言及した唯一の話である下・三十八と、景戒にとっての今上天皇である嵯峨天皇が話題になっている下・三十九という、『霊異記』を締めくくる二話をあわせて検討した。
下・三十八に関しては、従来、「表相」・「答」、あるいは「表」・「相」・「表答」等の概念が、〈前兆〉とその答えというように理解され、『霊異記』の主題である因果応報と矛盾するものであるとして問題とされてきた。しかし、景戒は「吉凶」、「災」等の背後には、それとして見えずとも因果応報が控えていると見ており、この「表相」等も、因果応報の一端がひとびとの前にあらわれたものとして捉えている(第一、二、三節)。
そして景戒はその理解をもって、あるひとの現在のあり方も、そのひとに関する因果の一端があらわれたものだと考える。景戒が自身のあり方を「慚愧」したとき、その自身のあり方を照らすものとして捉えられていたのが、天皇という存在であった。最後に、景戒は天皇のいる「日本国」においてみずからを「慚愧」し、そこから『霊異記』を執筆したことを考察した(第四、五節)。
なお、その『霊異記』執筆意図にかかわり、従来しばしば問題にされてきた『霊異記』に見られる類話の意義について、長い註で補った。