イタリアのラッファエーレ・ペッタッツォーニ(Raffaele Pettazzoni, 1883-1959)はイタリア宗教史学の創始者であり、エリアーデと双頭をなす、20世紀を代表する宗教史学者である。しかし我が国において、彼に関する研究はほとんど行われていない。ペッタッツォーニは、進化主義的な宗教理解と、カトリックと結びついた原始一神教説とを同時に批判し、固定的なモデルにとらわれない宗教史叙述の礎を据えた。

 そもそもイタリア半島はカトリックの総本山ヴァチカンを抱えており、1861年の統一まで大学教育においてもキリスト教学のヘゲモニーが圧倒的であった。そのような環境のなかで、他の西洋諸国に比べ遅れて成立したイタリアの宗教史学は当然、反カトリックという性格を有していた。なぜなら単数形の" religione "を複数形の" religioni "に変換する試みこそが宗教史学であったからである。もちろん、イタリアでも19世紀の時点で古代ギリシア・ローマ宗教、オリエントの諸宗教の研究者が、やや遅れてイスラームや仏教などについてもそれぞれの専門家が存在していたが、「諸宗教」という概念を掲げ宗教と人間の関わりをみるという学問を主張したのはペッタッツォーニだけであった。19世紀後半から続く「宗教」への無理解という状況のなかで、彼はイタリアにおける歴史研究の伝統と当時興りつつあった新しいディシプリンとを組み合わせた独自の学問を打ち立てた。1924年、ファシスト政権はペッタッツォーニに国内初の宗教史学講座を与え、宗教史学はアカデミズムのなかに居場所を得た。以後、1953年の退官まで彼はローマ大で宗教史学の研究・教育に携わることになる。

 ペッタッツォーニの仕事を大きく三期に分けることが可能であろう。考古学から出発し宗教史学講座を設立する1924年までが初期。この時期の著作では、サルデーニャ、イラン、ギリシア、ローマなどの東方古代が対象とされ、比較が組みこまれた宗教史の模索が行われた。理論的著作として1922年の『神:一神教の形成と展開』がある。次いで、ローマ大の教官時代と重なる、自身で宣言した宗教史学の実践を行う中期。各地の事例が地域別に提示される大部の著作がその特徴である(『神話と伝説』、『罪の告白』)。最後に、1953年以後の宗教現象学容認という「転換」期が後期となる。50年代の著作には『宗教的イタリア』、『神の全知』、『原始宗教における最高存在』がある。彼の死後、ペッタッツォーニをめぐる研究は主としてローマ大学の弟子筋による研究論文やアンソロジーの編集に限られたが、近年、神学の立場からも研究書が出版され、宗教史学が神学に与えた影響についても議論されている。

 本論文はペッタッツォーニの宗教思想をそのコンテクストと共に分析することで、宗教史学という学問のイタリアにおける意義、さらには宗教学・宗教史学というディシプリン自体の自己形成とその近代性を明らかにするものである。

 まず第1章では、ペッタッツォーニ以前のイタリアの状況を紹介する。ペッタッツォーニ宗教史学はどのような環境の中から生まれてきたのか、そこにどのような流れが注ぎ込んでいるのかを知るためにも、19世紀後半から20世紀前半にかけてのイタリアの社会情勢、アカデミズムと政治の関係、宗教についての眼差しについての分析は不可欠である。ここでは、イタリア宗教史学を導くものとして「モデルニズモ」と「ストリチズモ」という二つの概念を提出する。さらに、宗教史学誕生の要素として①宗教概念、②方法論、③世俗性、④講座を提示する。以後、これら四つの複合を解くことになる。

 第2章は、ペッタッツォーニの最初の著作『サルデーニャの原始宗教』の検討である。初期ペッタッツォーニにおける四要素の①、②を明らかにすることが本章の目的である。イタリアでは宗教史学が存在していなかったため、ペッタッツォーニは考古学から研究をスタートさせた。サルデーニャでの遺跡発掘は、やがてサルデーニャの最高存在「サルドゥス・パーテル」を中心とした先史・古代宗教の研究へと移行していく。その中でペッタッツォーニは海外で展開していた民族学とストリチズモを結びつけ、宗教史学を構想する。宗教史学の第一の研究対象とされたのは最高存在であった。

 したがって第3章では最高存在が扱われることになる。四要素でいうなら、引き続きペッタッツォーニにおける四要素の①、②が対象である。最高存在についてはペッタッツォーニ以前に、既にA・ラングやW・シュミットらによる研究が存在した。最高存在を一神教的神と同一視し、最高存在への信仰を宗教の原初の段階に置いたシュミットにペッタッツォーニは異議を唱え、論争が始まる(それは1950年代まで続くこととなる)。ペッタッツォーニは最高存在と一神教的神を区別したが、その最高存在理解の根底には、人間の想像力と思惟を峻別するG・ヴィーコの影響があった。最高存在の解釈が、多神教/一神教理解にも繋がっていることを示す。

 続く第4章では、最高存在についてのペッタッツォーニの事例研究を二点紹介する。一点はタキトゥスの『ゲルマーニア』における記述についてのもの、もう一点は旧ガリアから出土した壺やレリーフに描かれたガリアの三面神についての研究である。いずれも西洋古代についてのものであるが、彼以前の研究や彼以後の研究と比べても、ペッタッツォーニの手法は独創的である。四要素の②の分析となる。

 『サルデーニャの原始宗教』や最高存在研究の取りかかるとなる『神』を刊行したペッタッツォーニが容易に得られなかったのが大学での講座である。第5章は四要素の「④講座」に充てられる。宗教史学講座の開講講演の内容を紹介しながら(したがって「①宗教概念」「②方法論」も扱われる)、ペッタッツォーニにストリチズモを与えたB・クローチェ、講座を準備したG・ジェンティーレとの人物的・思想的関係について明らかにする。

 ペッタッツォーニに講座を与えたのはファシスト政権である。そのため、ファシズム期の宗教史学について検討する必要がある。第6章は、フォークロア、民族学との関係から1920年代から40年代のイタリア宗教史学の諸相を分析したものである。この時期には、イタリアを至上のものとするイタリア至上主義が存在したが、ペッタッツォーニの宗教史学もそれと無縁ではなかったことを分析したい。四要素の「①宗教概念」と「④講座」に関わるものとなる。

 第7章はファシスト政権崩壊後のペッタッツォーニにおける四要素の①、②に捧げられる。1950年代以降ペッタッツォーニは自らの宗教史学の方法と相反する、当時「宗教現象学」と呼ばれていた学問を評価し始める。宗教史学の欠点を補うものとして、宗教現象学を捉え、両者の複合を新たに「宗教史学」と呼ぼうとするのである。そうした動きに目を配りながら、エリアーデとの差異という観点から、ペッタッツォーニ宗教史学における「①宗教概念」「②方法」を最終的に提示する。

 第8章は、第7章で提示したペッタッツォーニ宗教史学の特徴が、いかに受け継がれ展開したかの例として、ペッタッツォーニ学派の一人であるエルネスト・デ・マルティーノ(Ernesto de Martino, 1908-1965)の宗教論を紹介する。デ・マルティーノは、ペッタッツォーニと比べ関心領域は狭いが、より根源的な宗教理解を行い、師とは異なり南イタリアというフィールドにも出た。彼が初期に行った「聖」概念についての研究と1950年代以後のフィールドワークが接続性を有していることを示したい。筆者は博士論文の先に、ペッタッツォーニ学派の研究と、イタリアでのフィールドワークを計画しているが、その布石となるのが本章である。

 最終章にあたる第9章で、ペッタッツォーニ宗教史学にはすべてを貫く通奏低音が存在することを明らかにする。ファシスト政権崩壊以後にペッタッツォーニはある運動を開始する。それは「イタリア宗教的自由擁護協会」と呼ばれる団体によるものであり、イタリアにおける宗教的自由を求める、マイノリティのための宗教運動である。本章ではこの宗教運動が彼の宗教史学の動機となっていたことを提示したい。四要素の「③世俗性」が他の「①宗教概念」、「②方法論」、「④講座」といかなる関係にあったが明らかになるであろう。同時に宗教学・宗教史学という学問がいかなる特徴を持つかについても述べるつもりである。ペッタッツォーニは、宗教史学を推し進めることがイタリアにおける宗教的自由を涵養することになると考えていた。さらには、自らが「宗教的マイノリティ」であるため、自分のような人々のイタリアにおける居場所を確保するといった動機が彼の宗教運動には存在するのである。逆に捉えるなら、社会改革の意志が宗教一般を扱う学の支柱であったと言うことができる。

 ペッタッツォーニの学問について以下のようにまとめることが可能である。宗教史学とは、ア・プリオリではないものをア・プリオリであるとみなす「①宗教」を、ストリチズモに基づいた比較により歴史的生成物として捉え(「②方法論」)、人間の営みを明らかにする学問である。宗教史学は「③世俗性」を掲げることで、神学やキリスト教史とは異質ものとして大学に「④講座」を得た。宗教史学は宗教的マイノリティのための社会運動(再び「②方法論」)と相互補完関係にある。つまり、宗教史学の普及は同時に宗教的自由の浸透である。しかしながら「③世俗性」は仮象であり、宗教史学は①から④の複合と同時に「宗教性」を有し始める。本質的にマイノリティのための学問である宗教史学は、宗教への志向を内在しているのである。