本論文では、地方社会におけるローマ帝国行政、とりわけ帝政後期の都市政治とそこへの州総督の介入がどのようなメカニズムによって行われたかを解明することを試みる。方法としては、4世紀後半の東地中海世界を統治したことが知られる州総督たちの中から、都市との接触とその歴史的背景が十分に推測可能なものを取り上げ、当時の総督と都市の交渉、都市政治の展開過程を具体的に眺めていくが、とりわけ、後期帝国社会におけるメディアとしての弁論および書簡の社会的役割を重視する。その結果、このような文学作品を著わしうる立場にあったソフィストおよび司教の都市内での役回りに注目した。
序論で本論文の研究史上の位置付けを明らかにした後、第1章から第4章までは、とくにソフィストが地方社会で果たした役割に焦点を当てながら、4世紀後半のローマ帝国都市において州総督たちがいかなる形で州民と政治的交渉を行ったかを検討した。
まず第1章「州民と総督の関係――歓呼賛同、彫像献呈のメカニズム」では、後期帝国に至って、都市行政において重要な位置づけをますます帯びるようになった歓呼賛同を中心に州政治の展開過程を分析する。第1節では、4世紀の歓呼賛同の主たる史料として使われてきたリバニオス弁論の文脈を批判的に検討した。その分析からは、劇場が重要な政治的舞台として機能していたことが改めて確認されるとともに、劇場に現れる「大衆」「喝采団」といった集団が、参事会員らと対置されるような社会集団ではなく、むしろ参事会員らを含めた都市の諸集団を包含する、都市全体を代表する場を形成する人びとであったことを示した。続く第2節では、都市側の主導で行われる、州総督に対する彫像の献呈行為のメカニズムを解析し、州総督顕彰に際して都市有力者らが擁していた主導権を確認した。最後に第3節で歓呼賛同と彫像献呈行為とを相互に比較しつつ、劇場に臨席した都市内の諸集団が、都市有力者たちの指揮の下、活発な討議を行い、総督の支持を勝ち取ろうとした構図を明るみに出した。
第2章「ソフィストの選択」では、州総督と都市住民とのやり取りの間でソフィストが発揮できた役割をさらに踏み込んで分析する。第1節では、後期ローマ帝国東部におけるソフィストの分布状況を概観し、彼らの活動が、中規模以上の都市であれば帝国東部全土にわたって確かめられることを確認した。次いで第2節では、都市内外でソフィストたちが持ちえた情報発信力の実態について検討する。具体的には、都市内においては授業における教育活動が情報発信の場として機能しえたことを、また、都市外との関係では、生徒の親たちとの交信、あるいは遠隔地のソフィスト同士での生徒の手配や文芸批評を通じて、幅広い情報網を有していたことを確認した。第3節では、ソフィストたちが自らの属する都市でその地位を保つ上で、参事会員を筆頭とする都市有力者たちとの支持関係が重要な役割を果たしていたこと、ならびに都市有力者たちの側も自らの利害の代弁者として能力のあるソフィストを必要としていたことを明らかにした。そして第4節では、行政運営を円滑にしようとする総督によってもこの情報網が利用されたこと、ソフィストの選抜・採用はその背後にある都市有力者たちの党派争い、ならびに儀式や歓呼賛同の円滑化も踏まえた多分に政治的なものとなっていたことを示した。
第3章、第4章では地元有力者たちが都市外の帝国高官たちに対してどのような働きかけをしていたのかを確認するために、ソフィストと司教の書簡とを分析の対象に置く。
第3章「リバニオス書簡集から見るソフィストのネットワーク」はソフィストの都市外の役割を裏付けるとともに、帝国規模での人・物の移動が起こり、複雑な利害関係が発達している帝国東部においてソフィストが果した役回りを具体的に把握することを目的に、シリアのアンティオキアのソフィストであったリバニオスの書簡集を扱う。まず第1節で書簡集の写本伝承状況、史料としての特質を確認した後、第2節では庇護関係の中で専ら理解されてきたリバニオスと中央政府との接触を検討の俎上に置く。参事会内の派閥対立と、都市の公的教師というリバニオスの立場に目配りしながら、彼の被護民とされてきた人物に関わる書簡を再検討することで、個々人の庇護関係ではなく、ソフィストが帝国政府との間で築いていた持続的な接触が、都市内での係争を帝国政府へと仲介する上で重視されていたことが指摘される。第3節では、前節の裏付けとして、テオドシウス朝期のリバニオス書簡を量的に分析する。そこからは、ソフィストが多数の都市住民の利害を帝国政府に回付する役割を果たしていたこと、政府中枢における政権変動にも柔軟に対応し持続的な接触を保っていたこと、さらに帝国政府のみならず、その他の帝国東部の有力者への仲介を行っていたことという3点が導き出された。
第4章「『書簡集』に見る司教と政府の結びつき」では司教の帝国官僚宛の書簡を検討することで、司教が地方社会で果たしていた役割を垣間見るとともに、前章で得たソフィスト・リバニオスの書簡の分析結果を相対化することを目的とする。まず第1節で分析対象となる史料について論じた後、第2節では、カイサリアのバシレイオスの「書簡」を取り上げる。帝国官僚に宛てられた書簡をその名宛人表記をもとに類別していった結果、バシレイオスの書簡集からは州総督よりも、帝国高官たち当人、もしくは総督の下僚団との接触が密であることが浮かび上がった。加えて、この結果を、教会史や弁論などの史料から再構成されるバシレイオスの政治的立場の中に置くことで、バシレイオスと帝国高官との接触は時の政治動向に対応した偶然性の強いものであること、実務的な仲介者としての役割はむしろ下僚団との接触に大きく依存していたことを導き出した。第3節でのグレゴリオスの「書簡」の検討では、史料の性格の差から、まず名宛人の役職に関する分析をプロソポグラフィー的手法を用いて行った。その類別結果と当時のグレゴリオスの置かれた政治状況から、帝国政府の宗教政策が激動する4世紀末にあっては、司教の成功が時の政府の宗教政策に著しく依存するというバシレイオスの事例と同様の結論を導き出した。
第5章・第6章ではこれまでに扱ってきたソフィストおよび司教が、社会内で起きた係争・騒擾に際して、州民にとっていかなる存在であったかを具体的に検討する。それぞれの章で、帝政後期の著名な2つの事件を題材とし、その経緯を再解釈する。
第5章「リバニオス『神殿擁護論』に見るソフィストと司教」では、修道士による田園部の神殿破壊をめぐって発表されたリバニオスの弁論『神殿擁護論』を取り上げる。本論文では先行研究が十分検討してこなかった弁論の論理性と発表の背景を考察した。第1節で法文史料に収録されている帝国政府の宗教施策を概観した後、第2節では、4世紀末になって帝国各地で確認されるようになったキリスト教徒による異教神殿やシナゴーグ破壊を比較検討のために分析した。そこからは、帝国官僚の態度に応じて皇帝法をしたたかに利用する地方住民たちの姿が浮き彫りになり、リバニオスの『神殿擁護論』における修道士批判の論理との類似性が指摘される。最後に第3節では、『神殿擁護論』の論旨・発表目的を皇帝法をきっかけとして生じた土地係争の文脈の中で理解できることを指摘し、係争当事者たちが司教とソフィストとをどのように利用したかを検討した。そこからは、仲裁・和解手続きに関する依頼を求められた司教に対し、州総督も絡めた法廷係争の文脈でソフィストの手腕が頼られたことが汲みとれた。
これに対し、第6章「帝国政府と都市間折衝におけるソフィストと司教――アンティオキア暴動の事例をもとに」では、387年に起きたアンティオキアでの暴動を扱う。第1節では、儀式の視点を中心にして事件の経緯を再構成し、都市と帝国政府間の正常な意思疎通手段・連絡経路が遮断された異常事態に暴動直後の都市が置かれていたことを示した。第2節ではこの異常事態におけるソフィストの活躍としてリバニオスの果たした役割に着目する。彼の役割を過小評価する先行研究に対し、史料の再解釈からは政府との和解の獲得、あるいは事後の使節派遣、恩恵付与をはじめとする諸々の関係修復措置に際して、リバニオスが中心的役回りを果たしていたことが読み取れた。これに対し、政府との関係修復に大きな役割があったと先行研究が評価してきた司教の役割が第3節では検討される。史料の批判的な読解からは、キリスト教会の側が果しえた役割は極めて限定的であったことが明らかにされる。この2つの事件からは、4世紀末の時点においても、とりわけソフィストが都市外との交渉において主体的な役割を果たしていたことが確認できる。
結論では上記6章で得られた検討結果をまとめ、新たな行政構造が敷かれた後期帝国下の東地中海都市において州総督と地元民との間での政治交渉がソフィストを介して活発に行われていたこと、そして、その射程は単に都市内部にとどまらず周辺都市や帝国政府も含め広範囲に展開するものであったことが改めて述べられる。最後に、このような政治文化が中世社会にどのように引き継がれる余地があったかも展望し、そのような点も踏まえて、本論文は、ソフィストに担われた弁論の文化が後期帝国行政の中で、帝国官僚の働きに歯止めをかけ、地方利害を代弁するという枢要な働きを果たしていたと結論づける。