Ⅰ部では、問題の所在(1章)と目的及び研究方法(2章)について述べる。

近年、日本列島の各地において縄文/弥生移行期論に基づく研究が盛んである。ここでいう縄文/弥生移行期論とは、水稲稲作の伝播とその受容を一定の基準として認めるものの、時代の変わり目を「一元化できない地域差をふくむ移行期」とみなし、縄文時代から弥生時代への移行形態を多角的に明らかにしようとする研究戦略のことである。東北地方北部を対象としてこの研究を行う場合、縄文晩期後半段階に生業面での行き詰まりがあったことを前提とする「晩期停滞論」を、何らかの形で克服する必要があるといえる。かような停滞が当該期にあったことを示す資料は、現在のところ知られていないからである。

他方、本州北端に位置する本地域にも弥生時代前期に稲作農耕が伝播し、同中期には本格的な水田経営が行われたことが明らかにされている。しかしながら、水田遺構など稲作農耕の痕跡はごく一部の地域および時期に確認されているに過ぎず、生業形態の転換がどの程度の規模で行われたのかは明らかにされていない。少なくとも先行研究で議論されたような、発展段階論的図式が当てはまらない事は確かである

このような背景のもとで、高瀬による著作(高瀬克範2004『本州島東北部の弥生社会誌』六一書房)は、先行研究とは異なる視点から弥生時代への「移行」を説明したという意味で、新たな方向性を示した研究と言える。高瀬は日本列島南西部との同一性を強調する先行研究を「同一化アプローチ」だと批判し、東北地方独自の弥生文化論を志向する「差異化アプローチ」を採るべきだとした。高瀬の主張には筆者も基本的に賛成であるものの、縄文晩期末から弥生時代へ系統的に繋がる幾つかの要素に関して、単に物質文化が継続したものとみなす見方には同意できない。これらの変化には、亀ヶ岡文化が「東北型の弥生文化」に移行するための内在的要因が反映されていると考えられるからである。

本論文はこのような問題意識から、東北地方北部の縄文/弥生移行期におけるいくつかの要素について多角的な検討を行い、既存の時代区分論とは異なる画期を設定し、他の地域とは異なる移行プロセスを提示することを目的とする。研究方法として、研究者間での齟齬が多い土器編年の組み直しを基軸に据え、更に別材料の検討から、土器編年の背後にある集団および物資の動きの細かな復元を行うこととする。

Ⅱ部では、縄文晩期末(大洞A’式期)から弥生Ⅰ期への土器文化の移行を扱った。

まず、弥生Ⅰ期に相当する砂沢式の細別を行った結果、同新段階には弥生Ⅱ期に移行するだけの地域差が顕在化し、同時に東北地方中部の異系統土器が、搬入・模倣されたと指摘した(3章)。筆者の土器編年から遺跡群の動態を復元すると、砂沢式古段階と新段階の間に変化の画期を想定することができた。

次いで、遠賀川系土器の東北地方への伝播現象について検討を行い、土器編年および学史の検討から、「遠賀川系土器を模倣するスタイルが機能したこと」と捉えるモデルを提示した(4・5章)。つまり東北地方北部においては、より西日本に近い形態の資料が二次的に伝播しただけでなく、土器棺としての受容など様々な形での伝播があったという事になる。また技術の変容という観点から本現象を検討すると、はじめに精製土器として作られた遠賀川系土器が、弥生Ⅱ期にいたって粗製土器として扱われるために、製作に関わるいくつかの技術的要素が失われたという解釈を導くことができる。例えば、一部の地域に限定的に導入されたと考えられる覆い型野焼き技術は、少なくとも弥生Ⅱ期には失われていることを示した。

Ⅲ部では、弥生Ⅱ期・Ⅲ期(弥生時代中期)にかけての土器文化の移行について扱った。

まず、田舎館式成立以前の土器型式(7章)・田舎館式と類似諸型式(8章)について土器編年の再構築を行った。とりわけ東北地方北部と同南部および北陸地方北部との併行関係や、放射性炭素年代測定値にも留意して、弥生時代中期のタイムスケールを示した。結果として、稲作農耕を受容した集団であるか否かが土器の系統に表れるとした先行研究を批判することができた。

次に、二枚橋型文様帯配置の成立と展開(9章)について論じた。「二枚橋型文様帯配置」とは、弥生Ⅱ期の二枚橋式以前には見られず、かつこれ以後にも継続して用いられる土器の作り方であり、下北半島および渡島半島を起点として他の地域へと伝わるものであるから、土器型式間の影響関係を示す良い指標になると考えられる。東日本全体の弥生文化の側から見ると、続縄文文化との類似を生みだす「北方系要素」とみなされているこの文様帯配置が、東北地方北部にどのように導入され定着したのかを明らかにする作業を行った。結果として、二枚橋式型文様帯配置は以下に示す4つの段階を通して東北地方北部に定着したと考えた。

①  二枚橋式土器の搬入・模倣の段階(二枚橋式古段階)

②  文様帯配置が各地に影響を及ぼし、土器系統を成立させる段階(宇鉄Ⅱ式新段階)

③  文様帯配置が地域差をもって変容する段階(田舎館式古段階)

④  文様帯の転移が起こり、型式間交渉が強まる段階(家の前A段階)

特に家の前A段階には、日本海側を中心に地域間交渉がかなり強まったと考えられ、北からの流れだけでなく南から北上する動きも復元することができた。このような現象は、弥生Ⅰ期(砂沢式期)及び同Ⅱ期(二枚橋式期)には見られなかったものであり、弥生Ⅲ期末を、東北地方北部と他地域が相互関係を深めた時期と位置付けることができた。

集落形態の移行をテーマとするⅣ部では、集落研究にかかわる研究史(10章)、遺跡群(11章)および居住規模と集落配置(12章)のそれぞれについて論じた。

主たる分析対象とした、秋田平野および男鹿半島に位置する遺跡群全体の通時的変化を振り返ると、縄文/弥生移行期において根本的な変化が起こったと考えられるのは、大洞C2式期であった(11章)。また、大洞A式・同A’式期にとられた居住形態が、弥生Ⅰ期から新たに営まれる遺跡数の増加と、居住規模の高まりをうむ契機となった可能性が高いことを指摘した(12章)。同じような現象は、竪穴住居跡が多く確認されている馬淵川・新井田川流域でも確認することができる。これらの分析結果から、「縄文晩期末から弥生Ⅰ期にかけて、近接する居住集団が段階的に統合された」というモデルを提案した。弥生Ⅰ期には「進出型」・「継続型」の遺跡群の二者がみられ、それぞれちがった集落の移行形態を示している。そして弥生Ⅱ期には、Ⅰ期の居住形態が変化し、低地環境への集落遺跡の進出という新たな傾向をみせるようになる。このような居住戦略こそ、東北地方北部における初期農耕民にふさわしいものだと考えられる。

 赤色顔料利用形態の移行について論じたⅤ部では、原材料(13章)および「加工スペース」(14章)について検討した。弥生時代に加工スペースが変化するのは、赤鉄鉱ベンガラの搬出遺跡の廃絶に加えて、居住形態の変化が影響しているからだと考えられる。また「交易物資の搬出」という側面からすれば、搬出遺跡から運ばれた赤鉄鉱ベンガラから、別の産出地が想定されるパイプ状ベンガラ、および江豚沢遺跡例で分析したような質の劣る赤鉄鉱ベンガラへの変化が想定される。

 以上のような複数の視点から東北地方北部の「縄文/弥生移行期」を考えると、以下3つの画期を設定する事ができた(Ⅵ部)。これらの画期は、継続的な水田開発が行われた東北地方中部や、再葬墓を中心とする集団編成が行われた東北地方南部とは異なっている。また、発展段階論に基づく歴史観や、生業形態の変化と集団の再編成を基軸とする高瀬の議論とは異なる成果を導いており、新たな移行期像を提示することができたと考えられる。

(ア)  大洞A’式期~弥生Ⅰ期(砂沢式期)

土器型式にみる地域性が一定し、居住集団規模の拡大も蓄積されており、縄文晩期末の特徴が受け継がれた段階ということができる。ただし砂沢式新段階には、土器型式の分布圏、遺跡群の動態および赤鉄鉱ベンガラの保有単位等に変化が現れる。

(イ)  弥生Ⅱ期(特に前半)

   土器型式にみる地域差が顕在化する段階であり、遠賀川系土器の組製土器化が起こる一方、下北半島では二枚橋式が成立し、東北地方北部の各地域へと搬出される。居住規模が一定のサイズで安定し、稲作農耕を目的とした低地環境への進出が行われる。

(ウ)弥生Ⅲ期後半の新しい段階

北陸地方北部から北海道南部に至る広い地域において、地域間交渉が強まる段階である。二枚橋型文様帯配置は完全に定着し、弥生Ⅳ期へ移行する準備が整うと考えられる。一方で居住痕跡は著しく少なくなり、居住規模の縮小が予想される段階でもある。