辻が花と称される古裂は、室町時代後期から江戸時代初期にかけて製作された縫い締め絞りで模様を染めた裂を言う。これは、戦後の美術史の一分野として位置づけられる染織史研究における定義であるが、「辻が花(染)」が実際に用いられていた中世の史料には縫い締め絞りという言説はない。ところが現在では、中世の史料において「辻が花」が縫い締め絞りではないことを暗黙の了解とし、豊臣秀吉や徳川家康といった戦国武将が着用していたと伝えられる衣服の内、縫い締め絞りで模様が施された小袖や胴服の多くが「辻が花」の名称で重要文化財に指定されている。その一方で、辻が花は本来の形態がわからないことから「幻の染」とも称されるようになり、小さな古裂であっても古美術市場で高額で売買される。さらに、一般に認識されている「辻が花」は中世の古裂ではなく現代作家が制作する「縫い締め絞り風」のキモノである。中世に生まれて以来500年あまりの間に伝えられてきた「辻が花」が「神話化」され、その技法をめぐって語義が変遷していく軌跡を追究することによって、多義的な意味を持つことになった「辻が花」の実像を問い直すことが本論の目的である。
「辻が花」が実際に用いられていた室町時代~江戸時代初期に記録された史料をその文脈に配慮しながら解読していくと、「辻が花(染)」が縫い締め絞りであるという記述はなく、縫い締め絞りは「くくし(括し)」という別の呼び方がなされている。さらに、中世の史料に当たっていくと「辻が花(染)」とは、主として、武家あるいは公家の女性か、元服前の少年が着用する「帷子」、つまり生絹か麻でできた夏の単仕立のキモノで、赤色がその特色であることがあきらかである。さらに慶長8年(1603)に刊行されたポルトガル人宣教師による『日葡辞書』の訳語を改めて検討すると「幾種類かの木の葉によって彩色された帷子、赤やその他の色による〔型紙あるいは防染糊を用いた摺り染〕細工、また、そのような〔型紙あるいは防染糊を用いた摺り染〕細工や彩色そのものも同様に〔つじがはなと称する〕」という意味になり、これまで明らかにされてこなかった新しい「辻が花」のイメージが浮かび上がる。江戸時代にも「辻が花(染)」という言葉は俳諧の季語や考証文学の中で伝えられていくが、「辻」という言葉の中に「染め帷子」という意味が付加されていく過程はみられるものの、「辻が花(染)」と称される衣類はもはや実際には用いられなくなってしまい、本来の形態が分からなくなっている状況が窺える。しかし、江戸時代には現代の定義のように縫い締め絞りという技法上の意味は含まれていなかった。
一方、現在辻が花と称される裂は本来どのような形態であったのかを伝存品と画中資料を比較しながら検討していくと、もともとは、天正~文禄年間に着用された武家女性や元服前の少年が着用した小袖、慶長年間前半に用いられた武家女性用の小袖のデザイン様式、慶長年間後半に武家女性が用いた縫箔小袖、桃山~江戸時代初期における武将が用いた小袖や胴服、主として武家階級において老若男女を問わず用いられた下着の小袖、などに分類される。それらのほとんどの裂が練緯あるいは紬で製作されており、もともとは袷仕立の小袖であったことが窺える。中世の史料においては「辻が花」は生絹か麻でできた単仕立の「帷子」であることが明らかであるが、伝存する辻が花裂の中には「帷子」と考えられるものは一例も見られないのである。これらの裂が現代に伝えられて行く形状の変化とその履歴を概観すると、それぞれの時代の様式に仕立替えがなされながら能装束として活用され遺されたもの、有名武将からの拝領品、あるいは遺業を成した先祖の遺品として衣服の形で伝えられていくものなどが見られる。また、故人の遺品として、表具の裂に用いられたり、寺院に奉納されて幡や打敷、袈裟といった形態に仕立て替えられて活用されたりした古裂が、近代のある時期に解体されて、古美術品の対象となった様相も窺える。小さい裂が分断され、さらに小さくなって古裂愛好家に蒐集される点は、近世の茶の湯における名物裂や近代における古筆切の傾向に通じる。しかし「辻が花」は茶の湯とは全く異なる近代的な価値観によって「古美術品」に転生した古裂であった。これらの裂の所蔵者や共裂の軌跡を追っていくと、古裂に対する価値観を共有する日本画家や一部のごく限られた古美術コレクターによって蒐集されている。1つのモノから分かれた共裂を複数の所有者が所持している事実によって、古裂を通したコレクターたちの交遊が窺えるのである。
文献で遡りうる限り「辻が花」を「縫い締め絞り」であると主張しはじめたのは、京都の古美術商であり、染織コレクターでもあった野村正治郎であった。また、野村と親交の深かった江馬務、吉川観方といった京都の風俗史研究家が主導となった扮装写生会や「時代裂」を掲載した美術本の出版といった活動の中で「辻が花」=「縫い締め絞り」という概念が普及していることが窺える。さらに当時蒐集の対象となった辻が花裂や昭和8年に京都で開催された染織祭において復元された辻が花を通観すると、縫い締め絞りだけではなく「描絵」が入っている作品を「辻が花」とし、『三十二番職人歌合』に描かれるような庶民層の女性の服飾としてのイメージが強調されている。近代における辻が花の通説には、現代において重要文化財に指定される有名武将が用いた衣服や、慶長期の武家女性が用いた縫箔はまったく含まれていないのである。
ところが、戦後になると染織史研究者の間では中世に製作された縫い締め絞りであれば、いずれも辻が花であると定義されるように拡大解釈がなされた。その結果、戦前までは辻が花と称されていなかった武将の小袖や胴服が「辻が花」とされ、中世における縫い締め絞りの稀少な作例として、辻が花の名称で国の重要文化財に指定されることとなる。さらに、桂女が所持していた慶長期の縫箔が発見されたことにより、もともと武家女性の小袖や打掛に用いられていた縫箔までもが「辻が花」と称されるようになる。そのような新しい視点を広めるのに大きく貢献したのが、奈良・大和文華館における展覧会や山辺知行、伊藤敏子といった染織史研究者たちが編集した大型美術本の刊行であった。興味深い点は、戦前から古染織を蒐集していた日本画家たちが自分の絵に辻が花裂を描くのもまた、昭和40年代のことである。昭和45年に刊行された田畑喜八編『日本の文様 辻が花編』では掲載された全100点の辻が花裂の内、前田青邨の裂が19点、安田靫彦の裂が14点掲載されており、両者が辻が花裂の蒐集家としても著名であったことが窺える。昭和40年代における文化人の間に辻が花に関する知識の広がりと関心が窺えるのである。
ところが、昭和50年代になると「辻が花ブーム」と称される動向が呉服業界に見られるようになり、それと共に、染織史研究者の見解にも見直しが図られるようになった。伊藤敏子は江戸時代後期の考証で知られる柳亭種彦の「辻=十字街」説が現代において定義される辻が花裂の模様の一部に該当するとし、切畑健は縫い締め絞りで絞られたぼうし状の突き出た旋毛状の形が「旋毛=辻」であるとした。以上のような見解は、現代において辻が花と称される縫い締め絞り裂に「辻が花」の語義を当てはめていく作業であったといえる。研究者の間でそのような動向が見られるようになった要因は「辻が花ブーム」という現象によって広く一般に「辻が花」が縫い締め絞りであるという定義が普及したことに関連する。その「辻が花ブーム」を引き起こしたのが、久保田一竹をはじめとする「辻が花」作家と称される染色作家たちであった。「辻が花」作家が中世の「辻が花(染)」に関心を持ち制作を試みた時期は、染織史研究者たちが展覧会や大形美術本で採り上げた昭和40年代と重なっており、染織史研究における動向が実は呉服業界にも多大な影響を与えていたことが窺えるのである。
近代以降、中世の縫い締め絞り模様裂が「辻が花」と称され「幻の染」として神話化されていった文化の構造には、実は、明治期以降に誕生した美術史学とは異なる流れの中で形成されていった、風俗史研究を下地とする染織史研究があった。「縫い締め絞り」=「辻が花」という概念は、近代以降、風俗史研究家や古裂のコレクターたちの中で定着するが、その前代的な染織史研究を無批判に受け入れた戦後の染織史研究の姿勢によってさらに拡大解釈されて、中世の縫い締め絞りであればいずれも辻が花であると定義された。その定義は国の文化財保護事業に受け入れられ、染織史研究者による展覧会や出版といった活動を通して、呉服業界や現代染色作家にまで波及し、一般の人々の関心をも捉えたのである。「辻が花」の「神話化」は、まさに、同時代の文化活動や呉服産業と関わりながらその存在意義を維持してきた染織史研究の中でなされたといえるだろう。しかし、中世には全く別の意味を持つ帷子として存在していた「辻が花」の本来の姿に目を背け、近代以降の通説を踏襲し続けることは、染織史研究の進展を阻む大きな後退ともいえよう。中世から現代における「辻が花」の語義の変遷を踏まえた上で、改めて中世の縫い締め絞りの価値を問い直す。その一方で、中世の帷子として機能していた本来の「辻が花(染)」の姿と向き合った時に、呉服業界とは一線を画した染織史研究の新たな方向性が示されるのである。