本論文は二十世紀の大半にわたって執筆活動を続けたミシェル・レリス(1901-1989)の作品、とくに『ゲームの規則』を対象として、レリスのエクリチュールを「編集」という切り口から分析したものである。著者は、レリスの作品が見せる多様性・多面性に、この概念を通して一貫性が与えられると考えた。論文は二部構成で、第一部ではレリスの紹介や先行研究の紹介とともに、「編集」という概念を、おもにレリスの発言や実作に基づいて再構成した。続く第二部ではこの「編集的」書法の実践の様態を、レリスの作品を対象に具体的に分析した。

 まず第一部の概略を示す。ここで言う「編集」とは、表現内容以上に表現方法に関心をもつことである。あるいは、意味と形式で構成される意味作用において、主に形式に比重を置く態度と言い換えてもよい。形式を操作することによって意味をも支配できると考えるレリスの傾向を、単語・文・段落などテクストにまつわる様々なレベルにおいて検討した。たとえば、単語のレベルにおける「形式の操作」に関して、フランス語の単語のアルファベを入れ替えることで単語の意味を変化させたり、音節を入れ替えることで全く別の単語を出現させたりする、主に言語遊戯的要素がクローズアップされる。また、文や段落のレベルでの操作としては、過去の自作の一節を別のテクストのまったく異なる文脈にはめ込んで新たな意味作用を生み出す類の試みが頻繁である。

 このような意味での「編集」が、内容をより適切に表現するための方法として駆使されるのであれば、この方法は方法としてとどまる。方法が内容に従属していることには変わりはない。しかしそうではなくて方法自体が関心の対象となる場合があり、その場合、方法の可能性を踏破するために、ときに内容はなおざりにされる。この内容と方法の優劣関係の転倒は、モデルニテ(現代性)のひとつの特徴である。方法への関心は、芸術の自己批評という問題そのものであるからだ。さて、そのような意味での現代性のなかでも、とりわけトリスタン・ツァラと彼の唱導したダダイスムが、言葉の意味作用をラディカルに問う点で「編集」という概念へと我々を導いた。「ダダの詩を作るために」と題された作詩法では、概念から出発するのでなく編集行為(「新聞記事」を「ハサミ」で「切りとり」、それをシャッフルし、また「貼る」という物理的行為)による作詩の可能性を主張している。このような方法そのもの――この場合は言語行為自体――を問いただす態度を、我々は「編集」的な思考として定義した。本論文における「編集」の意味は、言葉の一般的な意味から想像されるほど普遍的なものではなく、現代性の問題系の一つを構成する歴史的な概念である。しかし、そのような方法の突出においても、最終的には、言説の内容は存在し保たれているのだという含みが「編集」という概念にはある。

 したがって「編集」とは現代的とみなされる芸術家に遍く観察される態度といえる。アントワーヌ・コンパニョンが芸術の現代性として挙げる、未完性、断片化、全体性ないし意味の不在、自己批評性などの諸特徴は、どれも意味作用(とその価値の瓦解)の問題と密接な関係を持ち、したがって「編集」の問題もその問題系に属する。そこで本論文ではまず、レリスの「編集」がいかなる先達を模範とし、具体的にどのようなやり方で展開されたかその基本的態度を分析することで、この概念の輪郭付けを図るための理論的準備を行った。具体的には、素材の再利用、素材の解体、並置、組み合わせ、構成、意味という点からレリスの「編集」が肉付けされることを確認した。

 さて最初に述べたように、レリスの「編集」に関して一貫性を探ることがなぜ必要なのか? 一貫性を必要とする多様性とは何か? この二つがレリス研究において誰もが直面する問いであり、すべての考察をなす問いである

 長期に渡って様々な文化現象から影響を受けつつ、多様なテクストを多量に残したのがレリスという作家である。したがってレリス研究においては、この多様性を包括的に捉える視点をもちうるかどうかにその成否がかかっているといってもよい。独特で統合の難しいもろもろの関心(言葉遊び、民族誌、闘牛、オペラ、現代美術、自伝)を持ち合わせていた類まれな作家・文化人の側面ばかりに焦点があたる傾向がある。しかしレリスは状況の人であり、文学的・知的・パリ的・美術的諸環境の中で、中心とはならないまでも、常に環境への目配せを怠らなかった。このようなパースペクティヴのなかでレリスの多様性を、時代的背景を貫く一つの知的系譜の中で捉えることを試みた。

 

 第二部は、「編集」が技術・現象としてどのように現れているか、テクストに密着して具体的に分析することに割かれている。いわば、第一部で抽出したレリスの「編集」的な思考および技術の具体的な適用を実作に見るという作業である。第一章では、『ゲームの規則』の第二巻『フルビ』における主題の登場と、カードの突き合わせから生まれるテクストとの関係を考察した。最初の章「馬銜Mors」において、死の主題が徐々に語られていくが、テクスト自体は死について意識的に語っているのではない。これまでカードに書きためてきたことを「突き合わせて」作家自身理解できるようテクストで手探りに書いているうちに、語られたエピソードが死となんらかの関係があることを気づかされたという書き方がされている。つまり、『フルビ』でまずレリスが行っているのは、カードの「突き合わせ」と、その結果配置されるテクストの関係づけである。主題はその解釈の末に発見され、テクストが書き始められる顕在的なきっかけではないのである。この分析で、レリスにあっては、書く行為が、書く内容に先行していることが示された。

 第二章では、『ゲームの規則』の最終巻『微かな音』のテクストが、やはりカードの突き合わせから、修正・加筆などの「書き換え」を経てできあがっていくプロセスを、あるひとつの間違いの修正に着目して跡づけた。

 第三章では、同じく『微かな音』を題材に扱ったが、今度は本文として使われるテクストの配置、すなわち構成について考察した。『微かな音』では前作とは異なり様々な小文が一見脈絡なく並置される構成となっている。これは多くの研究者が指摘するように、全体性が破裂して断片化した結果ではなく、むしろ先行作品の場合と同じく、配置したカードの関係性を読み取るようにシークエンスが並べられていることを論証した。その根拠は、各シークエンスはその前後のシークエンスと、共通する話題や、あるいはレリスらしい言葉遊びに基づく、なんらかの関係性が見出される事実にある。こうしたレトリックはアナディプローズ(前辞反復)と呼ばれるが、実際レリスは、テーマや言葉遊びを引き継ぎつつ、前後の関係性に配慮を示している。かくして、この章では既存のレリス理解に重要な変更を迫る仮説を提示した。

 第四章では、レリスと雑誌の関係について焦点を合わせた。語が新しい文脈で新しい意味を帯びるとすれば(あるいは語が文脈から切り離されれば、意味を失い、音と文字という物理的存在に還元されてしまうとすれば)、テクストも同様である、というのがレリスの「編集」の考え方である。こうした文脈の変化を観察するのに雑誌は最適な題材である。なぜなら雑誌には固有の文脈があり、作家はその文脈に沿って文章を発表し、他方単行本は、雑誌で発表された文脈とは違う固有の文脈を持つからだ。こうした比較研究への準備として第四章では、レリスが関わった雑誌とその理念と、レリスのテクストとの関係、およびそれらテクストが後にどう使われたかを網羅的に調査した。それと並行して、作家の認知度向上に果たす雑誌の役割を社会学的観点から考察した。

 以上が、本論文「ミシェル・レリスの作品にみられる「編集」的技術について――『ゲームの規則』を中心に」の論旨である。