中国禅宗史の流れの中で成立し、禅宗叢林における生活の規定を内容とするテキストとして禅宗清規がある。本論文ではまず、先行研究において規範的立場から意義付けされてきた清規というテキストについて、宗教学的観点から捉え直しを行った。その上で、中世日本の僧侶にとっては新たな規範であるこの禅宗清規が、十二~十三世紀の日本中世仏教において如何なる変容を以て受容されたのか、その位相を、具体的には栄西と道元の制定した生活規範を取り上げて、宗教学的観点から考察した。
本論文は、禅宗清規の成立とその背景について定説に従って概説した「序章:禅宗清規の成立とその背景」を導入とし、第I部・第II部という構成を取るが、以下では第I部・第II部の概要を記す。
第I部「清規とは何か?―宗教学的再規定―」では宗教学的観点からの清規の再規定を目ざした。
「第二章:先行研究の動向とその傾向」では、先行研究における清規定義と意義付けを確認し、①「叢林生活の規定・法規範としての定義」、②「大小乗の戒律との関連における定義」、③「『禅宗の独立』の象徴としての定義」、④「『時代と共に変容するもの』としての定義」という代表的な四つの定義を抽出した。さらに、これら四つの定義を、次章以降の議論の必要上から、⑴叢林生活の規定・法規範等としての清規観、⑵史的観点から意義付けられた清規観、の二つに大別した。
「第三章:先行研究における清規観の検討」では、上記の清規観をより詳細に確認し、その問題点を指摘した。具体的には、先行研究における清規観に大きな影響を与えている百丈懐海に関連する文献の概要を確認し、さらに近代的清規研究の嚆矢となった宇井伯寿の清規研究における言説を確認した上で、清規観⑴・⑵を示す言説を検討し、次のように問題点を指摘した。即ち、清規観⑴については、清規が「法規範」であるとする場合の「法」の定義が曖昧であること、禅僧からなる集団の規則であるにも関わらず清規と認められないケースがあること、また「法」が「仏法」と解釈されて「本質」としての教義が「現象」としての儀礼・規則よりも優位に置かれるケースがあることを指摘した。清規観⑵については、百丈独自とされる「博約折中」という戒律観を根拠として清規を戒律よりも優位に置く視点、「禅門規式」の記述に従って清規を「禅宗独立」の象徴と捉える視点、「禅門規式」から推定される「百丈古清規」を清規の絶対基準とすることにより下降的歴史観が形成されている点、を問題点として指摘した。さらに、清規を研究する際に付随的に議論される「普請」・「古清規の成文化問題」という論点についても検討した。その結果、「禅門規式」に記される「普請」という論点が、自給自足体制に基づいた民主主義的な理想社会・中国禅が成し遂げたとされる修行観の転換といった議論と絡み合いつつ、先行研究において高く評価されてきたことが確認できた。百丈懐海の手になる「百丈古清規」が発見されない中、「古清規」研究において焦点となってきた「古清規の成文化問題」の検討からは、成文化問題に対する賛否の立場が異なるにも関わらず、「普請」と「博約折中」とを根拠に、世界初の清規制定者としての百丈像が研究者の中に堅持されていることが確認できた。ここから、近代的清規研究が「禅門規式」を出発点とし、かつ「禅門規式」に帰着していることが分かった。
「第四章:宗教学的観点による清規の再規定」では、先行研究における二つの清規観の問題点に留意しつつ、宗教学的観点から清規を再規定する試みを記した。中国において成立した代表的清規を検討することにより、清規観⑴に対しては、清規を宗教的集団の規範と捉えるとともに、法人類学における「多元的法体制論」も援用しつつ、清規が宗教法としての特徴―宗教的集団における規則であること・先行するテキストへの依拠・「百丈神話」という権威の源泉の存在―を備え、「準自律的社会規範の自己規定」として、外的社会との関係性の中で存在してきた法規範であると捉えた。一方、清規観⑵に対しては、その問題点の源泉となる百丈懐海という禅僧のイメージの受容と継承について確認することにより、中国において成立した諸清規が「禅門規式」に端を発する「百丈神話」―「禅宗独立の祖」・「博約折中」という独自の戒律観・「禅叢林・禅清規の創始者」―に基づく百丈像を、一種の宗教的権威として受容していただけでなく、近代の清規研究者もこうした宗教的神話としての百丈像を研究の前提として受容するなど、研究上の転移―研究対象の中に働く作用が研究者側で反復される事を指す―が存在していることが確認された。但し、こうした「百丈神話」については、歴史的に証明できないという理由から放棄するよりも、記述的研究という観点から、中国において成立した諸清規にとっての宗教的権威・指標・アイデンティティであったと捉えられると論じた。
第II部「日本中世前期における清規受容」では、日本中世における清規の受容について論じた。中世期の日本仏教においては、日本独自の戒律解釈の展開に伴い、仏教者としての生活規範がないがしろにされるという傾向があったといわれる。こうした傾向に対して、平安末から改革運動が見られるが、禅宗の移入や清規の受容もこうした文脈に位置付けられる。こうした中で、中国禅の生活規範である清規が、文化的文脈の異なる日本において如何に受容されたかについて、栄西と道元の制定した生活規範を検討し、中国において成立した清規のアイデンティティである「百丈神話」受容の位相を軸に考察した。
「第五章:栄西における戒律観と清規受容」では、末法期の日本仏教の状況に危機感を覚え、仏教者としての生活規範を重視した栄西の『興禅護国論』における禅思想に留意しつつ、『出家大綱』・『興禅護国論』・『齋戒勸進文』等を中心に、栄西の制定した生活規範を確認した。栄西にとっての禅とは、天台の教判に基づいた経・律・論を包摂する「通仏教」・「約摠相」の姿であり、かつ日々の行動を重視する教えでもあった。そのため栄西は、入宋時代に経験した中国禅の叢林規範である清規を受容し、小乗戒律をも含めた戒律の護持と実践を唱えた。その生活規範には『禪苑清規』とともに、栄西がインド渡航を希望し、インド仏教における原初的な作法を理想とした側面がある点から、義淨に依拠した小乗戒律等も先行準拠として導入されているが、日本の状況に合わせた変更が加えられたものといえよう。
栄西は、天台教学に即する形で自らの禅について記し、比叡山において相承されてきた禅と、自らの宣揚する禅とが矛盾しないことを強く主張した。その際に最大の問題となる小乗戒律的規範については、「百丈神話」から「大小乗の博約折中」という戒律観を導入し、これが、自身の宣揚する禅と比叡山の戒律観の伝統との相克を乗り越える際の、理論的な鍵としての役割と機能とを担った。但し、「百丈神話」の内、「禅宗独立の祖」・「禅叢林の創始者」としての百丈像についての言及は確認できなかった。
「第六章:道元の生活規範と清規受容」では、道元の制定した生活規範に関し、その思想に留意しつつ、その清規受容について考察した。道元は清規の先行研究においては、日本で初の本格的清規を制定し、百丈懐海の精神を継承した僧侶として高く評価されてきた。確かに道元は入宋時代の経験と「修証一等」・「行持」の思想に基づいて、仏教者としての日々の生活規範や労働を修行として重視し、数多くの生活規範を制定している。道元の生活規範の最大の先行準拠は『禪苑清規』であり、小乗戒律からの規範の導入も確認された。道元にとっての禅とは、釈迦に遡る「正伝の仏法」であり、生活規範を守るべき理由や理念は、この「正伝の仏法」に求められた。ここから、仏教の始源であるインドの作法を理想とする記述も見られるが、実質的には『禪苑清規』と入宋時の経験とを土台に、日本の状況と自身の僧団の状況に合わせた規範を制定している。
中国成立の諸清規のアイデンティティとなってきた「百丈神話」については、『正法眼藏』やその他の関連文献から、道元が「百丈神話」から「禅宗独立の祖」・「禅叢林の創始者」としての百丈像を受容していることが確認できた。ところが、『永平廣録』の記述からは、道元が「大小乗の博約折中」という戒律観については受容を拒否していることが確認できる。『永平廣録』の記述の分析からは、仏教者としての自身の立場と方法とが「仏祖の弁道」であり、大乗も小乗も超える「正伝の仏法」であるが故に、「百丈神話」の一つであり、大乗と小乗との存在を前提とする「博約折中」という戒律観については受容し得なかったことを確認した。
本論文における考察は以下のようにまとめられる。
第I部では、従来の清規定義の規範性を批判的に検討した上で、宗教学的観点から、外的社会との関係性の中で存在する宗教法としての清規の特質を指摘するとともに、清規とは「禅門規式」に描き出された「百丈神話」をその権威の源泉・アイデンティティとするテキストであると規定した。続く第II部では、最澄を嚆矢とする日本独自の戒律観の展開の中で、仏教的な生活規範を再構築しようとした禅僧として栄西と道元を取り上げた。両者はともに、仏教の始原の作法を理想としつつも、『禅苑清規』・小乗戒律的規範を先行準拠として、日本の状況を考慮した生活規範を構築していた。但し、中国における諸清規のアイデンティティである「百丈神話」については、自身の思想的立場から受容の位相は異なっていた。栄西は、自身の禅と比叡の伝統とを接合するにあたって、「大小乗の博約折中」という戒律観を理論的基盤とした。一方道元は、「正伝の仏法」という立場から「大小乗の博約折中」という戒律観を受容し得なかったものの、逆説的にこの立場によって自身が「正伝の仏法」と認める仏教的生活規範を先行準拠として導入していると考えられる。