本稿は明末清初における太倉州太原王家に焦点を当て、王家と万暦年間の東林党、崇禎年間の復社、または清初の文社との関係を中心に考察し、さらにこれを切り口として、東林党・復社などの党社活動の展開経緯と、その人的結合の原理と性格を再検討しようとするものである。

結党・結社は、明末社会における水平的結合の代表であり、明末清初期の社会構造、秩序原理及び歴史的意味の研究とも緊密につながっている重要課題である。ところが、これまでの先行研究は、往々にして発展段階論的階級構造論、或いは「専制から民主へ」などの「先進―後進」の枠組みにおいて党社活動を議論し、党争の展開過程を具体的かつ内在的に追究した研究は乏しかった。また、研究対象は主に「先進」ないしは「正義」を代表する東林党や復社側に限定され、全体的な研究視野が欠けていた。本稿は研究方法において、以下の二点を重視している。一点目は、人物の行為と動機である。即ち、党社内外の人々の主観的意識や行動パターンに注目して党争の展開過程を明らかにすることである。二点目は、全体的な視角である。即ち研究視野を東林党や復社側に限定するのではなく、多様な議論と主張、さらには当時の人々の行動に影響を与えた政治制度、理念、社会的雰囲気などをも、総合的に考えていくことである。内面的かつ総合的な視角から出発し、党社内外の人々の眼に映っている党社活動の形態を解明し、明末党争の展開過程そのものから、新しい党争史を再構成するのが、本稿の主な趣旨である。

本稿全体は万暦年間、崇禎年間、及び清初の三時期を扱う全七章によって構成されている。第一章では万暦十六(1588)年に王錫爵・王衡親子が巻き込まれた科挙事件を中心として、当時の言路状況と対策主張をめぐる論争を考察した。言路問題は、万暦年間の党争においても重要な位置を占めている。従来の研究は、おおむね「東林派人士」の主張に基づいて、万暦年間の「出位の禁」などの言路政策を、皇帝と内閣が、「官守言責」を口実にして言路を弾圧しようとした政策と見なしてきた。しかし、万暦年間の言路は、「東林派人士」が指摘していたように抑制されていたわけではなく、建言者が根拠のない批判の為の批判を繰り返し過熱・混乱していた状況にあった。そのため、問題を解決するための議論そのものが成立しない場合もあった。「出位の禁」などの政策は、言路を弾圧しようとするのではなく、建言者問題への対策であったとも考えられる。即ち、官僚の発言の範囲を限定し、さらに発言の責任を強調することで、むしろ彼らの発言を有益なものにしようとしたのである。

さらに、王錫爵内閣時期には、「出位の禁」のような言論を制限する政策を根本的な解決策とはせず、自由な発言を容認する姿勢をとっている。問題解決のために王錫爵が求めたのは、根拠のある発言を行うことであった。彼は、論じられる者の虚実が定まれば、建言者の是非も自明になるであろうと主張した。こうすることで、根拠のない中傷を抑えようと考えたのであろう。万暦年間における言路政策をめぐる論争は、従来の研究においては、「東林派士大夫」の主張に基づいて、「言路の弾圧」と「言路の開放」との対立、ないしは、「分権と専権との交錯」であると見なされてきた。しかし、当時の言路問題の現状と王錫爵をはじめとする内閣側の対応を踏まえると、実際はそれほど単純なものではなかったことがわかる。

第二章では、万暦二十一(1593)年の「三王並封」、「癸巳大計」などの事件を考察した。東林党の重要人物である趙南星、高攀龍や顧憲成などは、この時に前後して北京から追放されるか、免職された。それゆえ、首輔王錫爵は相当の非難を浴び、しかもその後ずっと、東林党の中心人物から大敵として扱われた。これまでの研究の中で、これらの事件は、吏部と内閣との人事決定権をめぐる衝突、或いは東林派と内閣との政治理念の相違、即ち「天下の公」を追求しようとする「東林派」側の、専権営私を図る内閣側に対する抗争に起因すると見なされてきた。

しかし実際は、先行研究の理解とは異なっている。当時の政治の運営方式によって外廷官員と内閣との間に情報の隔たりが生まれ、顧憲成・高攀龍などの東林派人士は、内閣と同様の見解をもっていたにもかかわらず、相手の主張を理解できなかった。特に「癸巳大計」事件において、「親吏部派」官員が王錫爵内閣を誤解したまま、猛烈な攻撃を行った結果、万暦帝を怒らせ次々と処罰された。これによって誤解と対立がさらに深まり、内閣はさらに恨まれるようになった。こうして処罰された大勢の官員たちはその後、顧憲成・趙南星の周辺に集まり、「東林党」を形成したと思われる。

第三章では、王時敏一家と張溥をはじめとする太倉州の復社重要メンバーとの関係を考察し、復社と東林との関係、復社をめぐる人的結合形成の動機という二つの面から、復社の性格を再検討した。復社は明末最大の結社であり、大部分の研究者は、東林派の理想と政治運動を意識的に継承し、政治革新という目的のために組織された「進歩的」な政治結社であると指摘してきた。しかし、復社の一般成員が加入を願ったのは、学問の進歩や政治理念を実現するためでは必ずしもなく、大部分は単なる功名心に駆られて、科挙合格や官界での成功の近道と判断したからである。

そのため、かつて東林派と激しく対立していた官僚たちの子孫も大勢復社に参加している。そして復社指導者たちも、何らかの政治理念に基づいて彼らを受け入れたのではなく、彼らを迎え入れることで、復社の規模を急激に拡大させようとしたのである。功名心に駆られた参加者の増加は、復社の二つの特徴を規定した。一つは、内部の結びつきが脆弱で、結集するのも早ければ、離散するのも同じように早かった点にある。もう一つの特徴は、学問を問わず、虚名ばかりを重んじたことである。「東林の絶学を復興する」というスローガンを掲げ、一度は名士の象徴と見なされた復社は、ほどなく名利を好み、正業に就かない結社の代名詞となっていったのである。

第四章では明末太倉州の著名な理学者である陸世儀の復社に対する見方を分析し、復社の特質と性格を再検討した。復社の性格を理解しようとするならば、復社指導者が標榜していた学問理念や政治理念よりも、同時代の人々の復社に対する評価の方を、より参考にすべきと考えられる。また、同時代の者の復社評価をより正確に理解するためには、その評価を下した者の立場や動機を見極めなくてはならない。そのために、第四章では、復社に反感を持ち、復社参加の要請を拒否した陸世儀や陳瑚らの文社ないし、科挙や学問に対する態度を考察した。

明末太倉州およびその周辺の士人たちが、復社を巡って奔走していた時、陸世儀・陳瑚などの数人の士人は、復社の入社要請を拒絶し、ひたすら理学(道学)に没頭していた。さらに多年にわたって、毎日理学の教義を準則として厳格に修身に励んでいた。陸世儀にとっては、人生の最終目的は聖賢になることである。これこそ、彼が道学が理解されず、人に嘲笑されても気にとめず、周囲が虚名のために社事に奔走する中で、内在的な修養に没頭し、「独立不懼、遯世無悶」の精神を貫こうとした理由であった。勿論、陸世儀らにとっても文社は必要であった。ただし彼らが積極的に参加したのは、名声の拡大や科挙の合格を目標とする文社ではなく、学問の研鑽に役立つ文社である。

それゆえ、陸世儀や陳瑚らは、明末清初における学術文化をより質実・素朴な新しい方向に導こうとした厳格な「文化修正派」とも称されている。彼らに終始批判されていた復社を、清代の「樸学」の先駆として見なす見解には、容易に賛成できないだろう。

第五章では、崇禎年間後期の太倉州の地域社会、特に常平倉・同善会の「積米」管理を巡る事件に密着し、復社成員を含む紳士たちが抱いていた地域社会の運営理念、及びそれが果たしていた役割を考察した。東林派と復社の人々は、しばしば「経世済民型」の士大夫の代表であると見なされてきた。しかし、地域社会をより良く運営するという「経世済民理念」は、復社人物だけの主張ではなく、復社内外の幅広い紳士たちに共有されている理念であった。また、数多くの地方紳士が、この理念に基づいて、官の命令を待たずに自発的に地方当事者に協力し、常平倉や同善会を組織し、運営しようとした。

同善会や常平倉の運営に示されているように、政府の代表者たる知州が、地元紳士と同じ地域社会運営の理念を共有する時、地元の紳士らはむしろ地方官府主導の下で、積極的に協力しようとしている。ただし、知州や政府関係者がその理念に違背する時、彼らは往々にして「公論」を拠り所にして、請願や抗議に乗り出した。こうした行動も、自治を目指したのではなく、地域社会のより良い運営の理念から逸脱した当局者を、再び引き戻そうとしたものであった。

同善会・常平倉などの社会事業においては、張采らの復社の人物たちがかなり活躍しているものの、復社が集団として果たした役割は殆ど確認できなかった。復社という集団は、明末の地域社会において人々が結集した華やかな核であったが、地方の社会事業における協力と対立の構図は、そうした団体の枠と、必ずしも重なりあうものではなかった。地域社会のより良い運営という理念、及び具体的状況に応じた柔軟な判断こそが、地域の人々の行動指針であり、社会事業における協力と対立の要因となっていたことを確認した。

第六章では、清初になって文社活動に変化が生じた原因を検討するため、その前提として、この時期の王時敏一族を中心にして、太倉州の郷紳たちの生活状況の変化を考察した。江南の人々にとって、明清交替期は苦難の時期であった。崇禎年間(1627-1644)後期の戦乱と不況のせいで、江南の人々の生活を支えていた商業活動は停滞してしまった。さらに農業経営も連年のイナゴ災害や旱魃のせいで収穫が上がらず、その上、官府が賦税と徭役を納めるように強く迫ったため、人々の生活は逼迫していった。

順治初年には、棉花栽培や米作が好調で、取引価格が高値で推移していたため、状況はやや改善した。しかし、順治十二・三(1655・56)年から康煕年間初期にかけて、物価の下落としばしばの災害、さらには厳格な賦役徴収のため、経済状況はまた急激に悪化した。そのため、大部分の郷紳は貯蓄を使い果たし、家産を処分して徴税に応じざるを得なかったのである。順治後期から康煕初期までの間は、大部分の江南人の経済にとって、最も厳しい時期であり、この時期における文社活動にも影響を及ぼしたと考えられる。

第七章では、清初における文社活動の展開とその特徴、及び政局との関係を考察した。清初になって文社が衰微したということはこれまでの通説である。しかし、それは事実とは思えない。清初において文社活動は二回の沈静期があった。即ち明清交替直後の順治五年までの間と、順治後期から康煕十二年までの間である。第二回目の沈静期は、順治後期の科場案、奏銷案、結社禁止令に関連しているため、従来研究者たちに注目されてきた。しかし、この時期において文社活動が沈静した原因として、以上の事件のような政治的理由だけでなく、順治後期から康煕初期までの間における過酷な経済状況や科挙試験における八股文禁廃止の影響も重視すべき要素であると思われる。また、これらの二回の沈静期を除いては、文社は衰えたのではなく、むしろかなり活発であったことも注目に値する。清初に文社活動が衰微したというこれまでの見解は、妥当ではないと言えよう。

なお、清初における文社活動の特色としては、一つには、清初の文社は明末に比して分散化したことが挙げられる。もう一つは、文社間における勢力争いがより激しくなり、明末の復社以上に学問を顧みなかったことが注目に値する。分散化と対立の理由は、明末のように様々な文社をまとめられる存在がいなかったことに求められる。当時、飛び抜けた力を持っていて文社の統合が可能であった人物として、徐乾学などの高官が挙げられた。ところが清の政治環境は明末と異なっていた。王掞が関与した立太子事件からもわかるように、康煕帝は官僚等の間における情報交換さえ警戒し、訓戒していた。そして、御史連名のような水平的結合があった場合、康煕帝は常にそれを「朋党問題」と見なし、迅速に厳しい態度を取った。徐乾学のような高官にとって、文社の指導者としての名声は、むしろ回避すべきものとなった。文社を統一できるだけの十分な影響力を持つ人物がいなかったため、清初の文社は明末より細分化し、争いが繰り返されたのである。

以上のように、本稿は明末清初における太倉州太原王家を切り口として、東林党・復社などの党社活動の展開経緯、及びその人的結合の性格を再検討した。本稿では、先行研究の主流と異なり、東林党や復社側に限定することなく、また先進―後進の構図に基づいて「党社運動」の意義を議論するのではなく、明末清初の党社活動のもつ「行動様式」上の問題点に関心を集中させたと言える。しかし、それは必ずしも、東林・復社「運動」の否定的側面を強調してその限界を指摘するとか、従来反動視されてきた王錫爵などの人物の復権を図るとかいったことを目的とするものではない。むしろ、太倉太原王氏という限られた視点からではあるが、中国における党社とは何か、秩序とは何かという大きな問題に対し、内面的社会史的な見地から接近しようとしたのである。