本論では、サミュエル・ベケット(1906-1989)の、1940年代における創作を総括的に論じることを目標とする。1940年代は、戯曲『ゴドーを待ちながら』、小説『モロイ』、『名づけえぬもの』といった、演劇史や小説史に名を残す傑作群が書かれた時期であるが、これらの作品は、従来、個別的に、あるいはジャンルの枠組の中で研究され、これらの相互関係が検討されることは稀であった。本論は、この点に注目し、ジャンルの区分を相対化した上で、これらの作品の相互関係を見出せるような視点の設定を目指した。加えて、40年代後半に書かれたこれらの傑作群の成立事情を明らかにするために、40年代前半の時期を試行錯誤の時期として、40年代後半とともに、詳細に分析することを目指した。また、40年代の特徴を浮き彫りにするために、30年代と50年代の制作方法も、同時に明らかにすることを目指した。

 40年代のベケットにおいては、表現媒体への鋭い意識としての<メディア的思考>が根底にあり、それがもたらす<切断>という制作の原理が、具体的にはさまざまな形で展開され、一貫した探究を形成することになるのである。

 ベケットが創作を開始した1929年以来、30年代のベケットは、1936年まで、短編「被昇天」に始まり『並みには勝る女たちの夢』『蹴り損の棘もうけ』『マーフィ』と、われわれが<肖像小説>と呼ぶ小説群を書く。これらの小説では、物語(筋)を語ることよりも、自らの内部や、自己とその周囲との間に分裂を抱えた主人公の姿が描かれることが目指される。作家の関心は、もっぱら主人公の人物像に注がれている。

 1930年代後半、より正確には1937年頃になると、ベケットは、言語で表現しようとすると言語がかえって覆い隠してしまう事象(「無」あるいは「真実」)をいかに言語で表現するかという難問を<発見>し、また、母語である英語で書くことの困難と、創作言語としての外国語の希求を表明するようになる。これらは、「ドイツ語の手紙」やフランス語による評論「二つの欲求」に直接あらわれる。また、フランス語による詩作や、自作『マーフィ』を自ら英語からフランス語へと訳すといった実践的な活動が見られるようになるのもこの時期である。

 1930年代のこのような流れを受けて、1940年代に入ると、ベケットは、いよいよ「真実」を表現しうる言語形式の探究を本格化させる。1946年以降のフランス語による執筆期以前、1940年代前半は、『ワット』という小説に捧げられる。これは英語で書かれてはいるが、主人公ワットが、彼が今まさに操る言語に不満を持ち、まだ見ぬ新たな言語を夢見ていること、そして実際に次第に英語を転倒させ、「新しい」言語を作るといったあたりに、英語ではない外国語(フランス語)への移行が暗示され、また、フランス語の言い回しをそのまま英語に直訳するなど、英語表現の裏にフランス語の影が潜む作品となっており、英語からフランス語への移行期をよく示している作品であると言える。

 1946年以降、『名づけえぬもの』が書かれる1950年まで、ベケットはフランス語で作品を書き続ける。これは、母語の持つ豊かな記憶や表現の世界(認知言語学的に言えば「百科事典的情報と語法的情報」)を<切断>することになる。最初期の短編「終わり」では、自らが庇護されていた施設から追い出され、道もわからぬまま彷徨する「私」が語り手となる。これはいわば、英語の安定的な世界から(自らの意志ではあるが)追放され、不安を抱えながら外国語で書くというベケットの心象風景でもある。この直後に書かれた長編『メルシエとカミエ』では、われわれが日常会話で暗黙のうちに使っているとされる「関連性」の原則そのものが意図的に<切断>され、「ばかげた」やりとりが、二人の主人公の間で行われる。こうして、外国語で書くという方法の選択が、母語の「百科事典的情報と語学的情報」と「関連性」という、われわれの言語使用にとって不可欠であるはずの要素を<切断>するという結果をもたらす。そしてこの<切断>が、言語表現のメディア(媒体)への鋭敏な意識を生み、その後の40年代のベケットの制作の原理、すなわち詩学となっていく。この意識のことを、われわれは<メディア的思考>と呼ぶのである。さらに、外国語への移行は、発話行為への徹底した反省意識と、コミュニケーションに関する不安という面をクローズアップする。この二つが、「真実」の探究とともに、以後のベケットの試みを動機づけることになる。

 ベケットが最初に書いた「傑作」である長編小説である『モロイ』は、1947年に書かれるが、外国語がもたらした<メディア的思考>と「発話行為への徹底した反省意識」から、彼は、この小説を<書き言葉>というメディアを前面に押し出すという方法を採っている。ここには、言語で表現することがそれを歪めることになってしまうという「真実」をとらえる言語形式、さらに「発話行為への意識の先鋭化」「コミュニケーションにまつわる不安」といった問題をも同時に乗り越える言語形式として、<曖昧構造>が採用される。一つに決定可能であるはずの事実に対し、全面的にあるいは部分的に矛盾する言葉を連続して配置する形式であるこの構造は、活字として「残る」書き言葉によってよりよく表現されるが、相矛盾する言葉同士が「切りつけ合い」、また、言語と言語外事象との一対一の対応を<曖昧>にすることで<切断>するという意味において、外国語とは異なる<切断>を見せることになる。また次作『マローヌは死ぬ』では、この<曖昧構造>が二作にまたがって展開され、この二作全体で様々なレベルにおける<曖昧構造>が繰り広げられることになる。<曖昧構造>は、その非決定性によって、読者はテクストに対する視点を固定することができず、絶えず視線を動かしながら、自ら解釈を通じてテクストの創造に「参加する」という結果をもたらす。こうした「新しいコミュニケーションの形式」への一つの回答を可能とした<曖昧構造>は、ベケットの探究において明らかに一つの達成段階と言えるだろう。

 『マローヌは死ぬ』は、「作家」である主人公と彼が創造した人物の死が暗示されるところでテクスト終わりを迎えるが、これは、「死」を境に、その先には言葉が届かないということを露呈してしまうことになる。こうして、「死」と「生」、あるいは<書き言葉>が、ペンやコンピュータによって発話主体とテクストを固定的に結びつけるということ、すなわち主体と客体との峻別が、<曖昧構造>の限界となる。ベケットは、これを越えて、こうした分節そのものを<切断>する言語を求め、<書き言葉>に代えて、<声>のメディアを用いて作品制作に臨む。

 こうして、『ゴドーを待ちながら』が執筆される。われわれにとってこの作品は、何より<声>のメディアが初めて十全に用いられたものとして記憶される。ここでは<声>は、その「中間性」や「瞬間性」といった性質を生かしつつ、生と死の境界、主体と客体の境界、意味と無意味の境界を越え、分節性を<切断>し、境界の彼岸と此岸を「行き来」する言語を可能にするのである。続く『名づけえぬもの』ではこの<声>が保たれたまま、発話主体、「私」のいる場所、「私」の身体といった、<曖昧構造>の中では固定的に提示され土台となっていた要素までもが、「ベケット的」修正法の対象の対象となり、テクストは絶えざる「修正法」の運動そのものへと変貌する。こうして、ベケットは40年代、<メディア的思考>によって、<外国語><書き言葉><声>と、メディアを変えながら、「真実」をとらえる言語形式を目指したが、その到達点の位置を『名づけえぬもの』が占めることになるのである。

 1950年代になると、しばらくは『名づけえぬもの』がもたらした、それ以上は探究を深められないという意識にとらわれ、袋小路に陥っていたが、1950年代半ばから50年代末にかけて、<切断>の詩学に代わる、<織り合わせ>の詩学を確立していく。この詩学は、断片的な言葉を並置し、そこに相互依存的な関係を構築する。『名づけえぬもの』での徹底した修正法の運動の結果、それ以上「修正」することができなくなった。修正法が前提とする「文」ではなく、名詞句や形容詞句などの「句」による創造が、この新しい制作原理を特徴づける。散文形式では『イメージ』や『びーん』『なく』といった作品において、「句」をテクスト単位とした<織り合わせ>の詩学が見られる。劇作品としては、『クラップの最後のテープ』『芝居』『あのとき』において、異なる人物による台詞同士の関係、人物と機械の関係が、<織り合わせ>の詩学によって書かれている。また、50年代以降、ベケットはラジオドラマ、映画、テレビ作品といった、いわゆる通常の意味でのメディア作品に手をつけ、これらを多く制作するが、これらメディア作品同士も、<織り合わせ>の関係を見せることになる。

 こうして、1940年代は、ベケットにとって、いわば<移行期>であった。すなわち、1930年代においては、「伝統的な」ジャンル(詩、評論、小説、演劇)に従って制作を行っていたのに対し、ベケットは、50年代以降は、メディア・テクノロジーによって規定される作品(散文、舞台作品、ラジオドラマ、映画、テレビ作品)を制作する。このような中で、40年代は、30年代の「ジャンル」から50年代のメディアへの移行期として位置づけられ、そこでは、「ジャンル」に基づいた制作が、表現媒体への鋭敏な意識、すなわち<メディア的思考>によって行われる。『モロイ』『マローヌは死ぬ』『ゴドーを待ちながら』『名づけえぬもの』といった傑作が次々と生み出された背景には、このような事情があるのであり、この<メディア的思考>に基づく<切断>の詩学が、そこに一貫した制作原理として認められるのである。