清代(1636-1912)中国において、人口は爆発的に増え、耕地も大規模に増加したため、人類と森林との関係も大きく変化した。その変化に直面した時の為政者および民は様々な対応をとった。本稿は、清代中国におけるそうした対応の特質を解明するため、二つの側面に焦点をあてて、具体的に検討し論述するものである。
一つ目の側面は、当時中国南部の一部地域で盛行していたコウヨウザン(Cunninghamialanceolata)という針葉樹の植林再生産と、その木材の商品化である。商品化された木材は、北京の宮殿建築用材として利用されたこともあり、とくに大径材(径の太い木材)に高い値がつき取引された。当時の自然環境の変化を受けて大径材を生産できる地域はますます減少したため、一部の林木生産者は大径材生産を指向した生産活動を行い、またその稀少性を取引に利用した。一方、木材商人や宮殿建築用材の調達官は、大径材を安価に安定して購入しようと目論んだため、双方の間や、他の交易主体との間で、様々な駆け引きが生まれていた。以上の側面を、木材調達者たる清朝権力と林木生産者の両面から検討を加えたのが、第一部(第一章~第三章)である。
第二の側面は、資源としての土地にかかわる問題、具体的には誰もその土地から独占的に収益を得る権利を得ていない、無主の土地の取り扱いという問題である。当時の人口増加を受けて、無主の土地およびその土地にかかわる資源は減少傾向にあった。次第に稀少化する無主の土地の価値をどう評価するかは、そこにかかわる人が置かれた立場や地域によって異なり、当然その土地の取り扱いをめぐり様々な見解があった。たとえば土地上の薪炭材を利用するために無主の状態のままにしておくことに価値を認める立場、あるいは短期的な収入を上げるために誰かの土地にして経営する立場などである。以上の側面を、無主の土地に樹木を植える政策の提議とその議論の過程を素材に論じたのが、第二部(第四章・第五章)である。
以下、一章ごとの内容を記す。
第一章では、清朝が行った木材調達制度である「例木制度」の制度改変とその調達実行状況につき検討した。例木制度が整えられた目的は、北京における宮殿建築に必要なコウヨウザンの丸太を毎年安定的に調達し備蓄を確保することにあった。コウヨウザンは北京のある中国北部では生育できず、中国南部で人工育林業により生産されていた。それゆえ、例木制度による木材調達の実施状況には、育林業の状況が反映された。例木制度の実行上における最大の問題は、「桅木」と称される大径材の確保であった。桅木の調達本数は毎年合計60本と少ないものの、宮殿建築に不可欠の材でありかつ小径材では代替できないため、その調達の成否が例木制度全体の成否を左右した。大径材の育成には長い時間が必要なため、清朝はこの問題を一朝一夕には解決できず、輸送ルートの整備など林木の育成に直接かかわらない部分の制度運用を整えることで対応したが、対応不能な部分は現実に妥協した。すなわち大径材が不足していた江蘇・江西の二省から調達する木材の規定寸法を小さくし、また寸法のやや足りない木材を余分に輸送して埋め合わせることを認めた。一方、大径材を安定して供給し続けた湖南省からの調達分については、こうした改変は行われなかった。この違いの背景をなすのは、二地域の造林方法の違いであり、湖南省調達分の木材の実際の産地である貴州省東南部清水江流域では大径材生産に対応した実生造林を行っていたのに対し、江西省の調達地域である江西省南部山間地域では、小径木の促成栽培を目的とした萌芽更新による造林が行われていた。
第二章では、乾隆42(1777)、46(1781)年に湖南省で例木調達を担当した「採木委員」(木材調達官)が残した『採運皇木案牘』という史料を素材に、貴州省東南部と湖南省西部におけるコウヨウザン木材の流通構造を検討した。規定寸法どおりの木材を規定本数かつ期限内に調達する責務を負っていた採木委員とその手下にとって常に問題になっていたのは、良質の大径材が稀少化し値段も高騰していたことと、制度上支給される法定の額が実際にかかる費用をはるかに下回っていたことであった。採木委員はこの条件のもとでも円滑に調達を行うべく、調達にかかる経費を極力抑える一方、個人として木材を購入販売し私的な利益の獲得を目論んだ。この両者は双方とも、例木の調達費用と規定本数が固定され、実際の運用は採木委員らの裁量に任されているという構造に起因したものであった。その裁量の中で、採木委員は清水江沿いの三寨で仲介を行う主家と様々な駆け引きをし、長江下流への運送時には徽州商人など遠隔地商人と協力して運送して円滑な調達を試みた。一方、木材生産者や苗族の商人は大径材の稀少性を熟知し、木材価格の高い時期を見極めて木材を売ることで、森林の再生産資金を得、育林業を長期間維持することができた。
第三章では、例木制度における湖南省分の木材の実際の調達地の一つである貴州省東南部清水江流域の村寨で行われた林業経営の具体像について、当地に残された林業契約文書を利用して検討した。当地の林業経営者は一般に、一斉造林された土地や立ち木の権利を「股」という形で分割所有した。「股」は基本的に親族関係により継承されるが、権利として単独で売買もできるため、所有者間での短期的な資金融通にも供されていた。また林木の育成にかかる一サイクルは従来言われてきた20-25年よりもやや長く、30-40年の事例が多かった。林木の中にはさらに長期間育成される場合もあり、その場合は立ち木そのものに権利が設定され売買された。こうした立ち木は一斉に造林・伐採されるものではなく、田や油山の旁らなどで大径木として長期間育成され、木材市況などを見ながら時期を見極めて伐採販売された。また村寨には公有林も存在し、訴訟など村落としての出費が必要な場合などにも売却されると推測できた。当地の村寨では、「股」として管理される一斉造林木、個別の木として管理経営される大径木、そして公有林という三類型の林木育成を組み合わせ、短期・長期の状況変化に対応しながら林業経営を持続できる仕組みを有していた。
第四章では、乾隆年間(1736~1795)前期に見られた「植樹キャンペーン」ともいうべき一連の植樹関係の上奏と、御史呉鵬南が発議した、地方官や紳士らに植樹を勧奨する提案を検討した。「植樹キャンペーン」で地方官から提出された上奏には、二つの異なる背景と方針があった。一つは、人口増加と未利用の土地の不足を背景とし、民生の安定を目的とする勧農策としての植樹であり、もう一つは、造船用木材の不足を背景とし、造船用に特化した樹種の栽培を目的とする官営育成林業としての植樹であった。後者は提案後すぐに否定され、前者に基づいた植樹が継続した。前者が選ばれたのは、長期間にわたる育林経営を官が直接経営した場合に管理が疎かになる可能性について、地方官がよく認識していたからである。乾隆22年(1757)の呉鵬南による植樹勧奨提案の背景には、「官山」と称される所有権未確定の土地がオープンアクセスの状態にあるため、過度な採取により「官山」内の資源が減少しているという認識があった。呉は樹木を植えた地方官や紳士に対する褒賞基準を定めて動機付けを与えることで、「官山」内の資源の増加維持を図るよう提案した。しかし、呉の提案と地方官からの答申を受けて最終的に工部が決めた植樹管理方針は、樹木を植え付けた「官山」への課税が規定されたこと、植樹の褒賞基準が簡略化したこと、「官山」以外の民業に対する管理規定を有していなかったことから、森林資源環境の根本的な改善には結びつきにくいものに止まった。
第五章では、呉鵬南の植樹提案をめぐり工部が各地方に対して行った諮問に対する、各地方からの答申内容を分析した。答申は各省の総督や巡撫の名前で出されたが、もとになった情報は下級の行政単位である州県において行われた実情調査であった。州県単位で見ると、呉鵬南が提議した植樹方法を原案どおりに実行できる場所は少なく、「官山」が植樹可能な形で残っている地方も多くなかった。しかし一方、州県からの回答には、「官山」以外の土地においても植樹を実践する回答や、地域の状況に合わせて植樹後における詳細な保護管理方法を提案するものも多かった。最終的に決められた政府方針は地域ごとの対応にまかせるという消極的なものであったが、「官がどの程度無主の土地に対して働きかけるか」という問題をめぐり、18世紀半ばというこの時期に全土の地方官から報告があげられたということ自体は、この時代に無主の土地にかかわる問題と資源問題がとくに尖鋭化していたという事実を示している。
以上の五章にわたる分析を通じ、本研究で得られた結論は以下の如くである。第一に、清朝が必要とする木材は、主としてそれに対応した民間育林業により供給されており、またその調達も官が民間の木材流通構造を利用しつつ維持されていたことが解明された。第二に、清代中国において木材の枯渇化や森林の過剰利用は認識され、その対処法としての知識も蓄積されていたものの、清朝は樹木の植え付けから育成までの全過程に官が直接的なかかわりを強めることには積極的ではなく、地域ごとに対応の多様性を残しながら、民を通じて働きかけを行う方針をとったことが結論できた。そして、ここに見られた清朝の森林政策は、同時期の他地域の事例と比べても、官の森林へのかかわり方が比較的弱いという特徴を持つものであったと見通すことができた。