朝鮮半島に興亡した諸王朝は、中国との外交関係を継続し、官僚制や法制、礼制といった王朝支配の根幹をなす制度において中国制の影響を受けつつ、国家体制の枠組みを形づくってきた。そうした中、中国的儀礼の挙行は、古代以来、中国文化を受け容れた文明国としての立場を示す重要な指標の一つであった。諸制度とともに導入された中国儀礼は、外交上の役割のみならず王権を顕示し補強するものとして次第にその位置が確立されていったと考えられる。高麗時代には、儀礼整備において前代に比べ顕著な進展がみられ、王権あるいは支配層によってその整備が希求されたことが想定される。
高麗儀礼をその土台となった中国儀礼と比較してみると、高麗では、国際秩序や国内の社会背景によって、もとの中国制を変更している場合がみられる。ゆえに高麗社会や当時の国際環境を考察する際に、高麗儀礼を中国制と比較しながら検討していくという方法が有効なのであるが、これまでのところ高麗時代の儀礼を扱った研究自体が少なく、十分に儀礼史料が活用されているとは言えない。なお周知のように、統一新羅時代に冊封を受けていた唐との関係の中で礼制を受容していった状況とは異なり、高麗時代は後唐・後晋・後周・宋・遼・金・元・明の冊封を次々に受け、礼制の導入、整備も冊封を受けた宗主国との関係の中だけで考えることはできない。こうした状況に配慮しながら、高麗王朝の文化形成の様相を、儀礼という側面を中心に描き出していくことが本稿の主な課題である。
上記の課題認識と研究状況から、以下の5章に分けて考察を行った。まず1章では、高麗后妃の称号体系と、王の婚姻形態を検討した。これは、2章で高麗后妃の冊立儀礼を取り上げて后妃の存在について考察するため、その準備作業として行ったものである。后妃称号に関しては、新羅下代~高麗前期および唐・宋の史料を検討し、高麗初期の称号体系はほぼ新羅のそれを継承したものであったが、11世紀初には部分的に改編され、中国の后妃称号が導入されたことを示した。また、中国の后妃制度では皇帝の嫡妻は皇后一人、その他は妾とする一夫一妻多妾制であり、このことは儒教の諸経典で夫婦を一体とみなしていることと対応し、儀礼にも反映されている。これについて高麗王の婚姻形態を調べた結果、歴代王の婚姻において多妻婚姻は多数派とはいえず累世的ではなかったが、多妻が許容されているという点で中国と大きく異なり、死後には各王に嫡妃一人が定められるという一夫一妻の志向が見られるものの、儒教的夫婦観念が完全に受容されてはいなかったことを明らかにした。
2章では、『高麗史』礼志にみえる王太后と王妃を冊立する儀礼を題材として取り上げ、高麗における中国儀礼の導入様相、および儀礼に表れた后妃の地位を考察した。結果、『高麗史』礼志の冊太后儀が、外戚勢力隆盛期のさなかである宣宗朝1086年に、光宗以来はじめてとなる貴族出身王太后の就位に際し、その権威を確固たるものにすべく宋の皇太后冊礼を導入して作成されたものであり、政治社会と連関して整備されたことが明らかとなった。また中国の該当儀礼との比較を通じて、『高麗史』礼志の反映する高麗前期の王妃には、中国のように王の対偶として女性を統御する理念的役割が付されていなかったと見られることを論じた。このことは、1章でみたように高麗王の婚姻では多妻婚姻が許容されており、儒教的夫婦観念が完全に受容されていなかったことと対応する。加えて、冊太后儀と冊王妃儀の儀式次第には、聴政を行いうる王太后と、それほどの政治的権威を付されていない王妃の地位の違いが反映されていることも指摘した。このように2章の考察においては、高麗儀礼が政治・社会的背景と密接な関係を有していたことがみられた。
続いて3章では、王が臣下に賜った宴会儀礼の一つの型である‘大宴’を取り上げた。大宴は、王の誕生日や王太后・王太子の冊立といった国家的慶事、郊祀などの国の重要な祭祀に際して挙行された宴会儀礼である。高麗の宴会儀礼に関する先行研究はほぼ無いため、まず、儀式を復元してその参加者や席次、次第等に包含された政治的・社会的意味、また王朝文化の粋とも言うべきその模様を把握した。次に、高麗においてこのような宴会儀礼が行われることになった起源を把握するため、中国の関連儀礼について調査した結果、大宴が宋朝建国期に太祖趙匡胤の生日を祝して行われ、それ以降、国家の大慶事等に際して催行されてきた宴会儀礼であることが明らかとなり、高麗王朝がこの宋の大宴を導入したことが論証された。ところで、『高麗史』礼志に収録された大宴の儀式次第は、12世紀半ばに成った『詳定古今礼』に依拠したものとみられるが、12世紀以前から大宴の挙行記事は高麗史料中に散見する。高麗でこの儀礼が行われるようになったのはいつ頃なのか。この問題については、次の4章において燃灯会・八関会という高麗の国家的年中行事に際して行われた宮中行事を考察することによって、目安を得ることができる。
燃灯会と八関会は、仏教や土俗信仰、新羅以来の仙風など融合的な思想背景による、豊作祈念祭・収穫祭的な性格の年中行事であったろうと考えられている。『高麗史』礼志はこの燃灯会と八関会にあたって王が行う一連の儀式の次第を収録している。4章ではこのうち宴会儀礼部分の次第に注目して大宴との関係を調べ、高麗に導入された宋の大宴が、燃灯・八関会の宴会儀礼の儀式次第の整備にも影響を及ぼしたとみられると推定した。そして、大宴の影響を受けた燃灯会宴会儀礼の初見が1051年の賜宴記事であることを確認し、ここから、宋で大宴が行われるようになった960年以降、1051年までの間に高麗に大宴が導入されたことを把握した。次に、高麗が何によって宋朝の大宴を導入したのか、その方法を考え、宋の礼典を参照する方法、および実際の人の行き来によって、例えば入宋使節等の見聞によって伝えられた可能性について関連史料を整理した。結果、特に宋での大宴に高麗使が参加している事実が確認されることから、後者の可能性についてより具体的に考究する必要性を指摘した。儀礼に限らず文化の伝播・交流に外交使節が大きな役割を果たしたことはよく知られているが、麗宋間の使節については、その具体像がほとんど解明されていない。これを扱ったのが5章である。
5章では、『東人之文四六』および『東文選』中の関連史料を、宋側の史料と合わせて分析し、1116年に宋に派遣された高麗使節の宋滞在中の体験を復元した。これによって、外交使節を通じた文化交流の現場、および当時の麗宋関係や宋朝における外国使節の在り方を把握することを目的とした。考察の結果、彼らの行程、特に開封滞在中についてはかなり詳細な行動内容を明らかにすることができ、体験した宋の文化・諸制度(例えば儀礼・学問・学校制度・美術品・建築物など)が、同時代的に高麗に影響を及ぼし得たことを論じた。また、このように1116年の入宋高麗使節という具体事例に関する高麗・宋双方の史料を網羅的に検討した結果、北宋末の高麗優遇政策、すなわち北東アジア情勢変動期における麗宋関係の関連史料については綿密な史料批判と慎重な解釈が必要であることを指摘し、断片的な史料に頼ったこれまでの見解は再検討されるべきであることを論じた。
以上のように本稿では、高麗王権儀礼の形成について、個々の儀礼の成立期やその背景、およびモデルとなった中国儀礼の影響関係を明らかにし、さらに文化伝播の一要素であった外交使節の体験を復元することによって、その全体像への接近を試みた。五章までの考察結果を土台として、終章では高麗王朝における儀礼の形成について、さらに若干の考察を加えて本稿の成果を整理し、またその儀礼整備の姿勢と当時の国際環境との関連について、現時点で提示できる見解と今後の展望を述べた。まず高麗儀礼の整備過程に関しては、成宗代(981~97)に重要な国家祭祀として優先的に整備された円丘・宗廟・社稷・籍田以外の儀礼は、やや遅れて概ね11世紀半ば頃までに順次整備されていったとみられる。1113年に礼儀詳定所が設置されているが、同時期までには既に多くの儀礼が成立していたと考えられ、礼儀詳定所という専門機関の設置によってより専門的な議論がなされ、成熟した段階に入ったと言えよう。この背景に、1071年以降再開された宋との通交を通じて礼制に関しても様々な情報を入手し得た状況があったことは、5章の成果によってより明確に意識される。こうした過程を経て、毅宗代、具体的には1155~62年の一時期に、高麗前期礼制の集大成とも言うべき『詳定古今礼』が編纂されたのである。
また高麗儀礼の形成について当時の国際環境とともに考えてみると、本稿で扱った儀礼に関する検討を通じてみる限り、遼・金の冊封を受けている時期においても、儀礼の本場と見做していたであろう漢族王朝の宋の制度、あるいは『開元礼』等を通じて唐の制度を導入している傾向が看取される。こうした傾向は特に儀礼だけに見出されるものではなく、例えば高麗官僚制度の整備における姿勢とも一致するものである。この姿勢の背景としては、ひとまず高麗の宋に対する文化的憧憬のほか、周辺諸王朝間のパワーバランスや、遼の高麗および麗宋関係に対する関与姿勢などが考えられる。ただし高麗の文化形成の様相を東アジア他地域との有機的な連関ともに描いていくためには、さらに克服すべき課題が山積しており、特に遼・金および宋の国際秩序意識や外交姿勢、礼制に対する意識について、より深い理解が不可欠であろう。