谷崎潤一郎にとって唯一の長編小説である『細雪』は、昭和十七年から二十三年にかけて七年という長い年月にわたって書き続けられたという点で特筆すべきものであるが、一つの家庭の生活様式を描きながら、その表現において他に類を見ないほど多様な様式を織り込んだ豊穣な小説である。『細雪』の成立にあたっては、谷崎がそれ以前から積み重ねてきた〈型〉をめぐる思索という要素が重要な意味を持っていると考えられる。
谷崎は大正十二年の関東大震災をきっかけとして関西に移住し、それ以降徐々に作風の変化を見せるようになるが、従来の研究においてはこれを「古典回帰」という用語によって説明してきた。しかし、そこでは関西の伝統文化や『源氏物語』などの古典文学との出会いあるいは再発見ということが漠然と指摘されてきたのみで、谷崎が求めた「古典」とは何であったのか、またその「古典」のどこに惹きつけられていたのかについて、具体的な実質が明らかにされてきたとは言いがたい。
本論では〈型〉という言葉を通して、谷崎が「古典」のなかに見出したものの実質を明らかにすることを試みたい。谷崎は関西移住以降、人形浄瑠璃を頻繁に観劇するようになり、文楽の芸人のあり方に強い関心を示していくようになる。昭和三年に発表された「蓼喰ふ虫」では主人公の要が人形浄瑠璃からそれを支える〈型〉を見出したことが描かれているが、谷崎もまた人形浄瑠璃を通して〈型〉を発見し、その魅力と効能に惹きつけられたのであった。本論では〈型〉の発見が描かれたこの「蓼喰ふ虫」を谷崎文学の転換点として位置づけ、まず序章においてそれ以前の谷崎の小説を身体と表現の様式性という観点から整理した上で、第一章において谷崎が見出した〈型〉とは何であったのかを明らかにする。また、第二章では〈型〉の発見にあたって大きな役割を果たしたと考えられる文楽の芸人に対する谷崎の関心を色濃く反映した小説として「春琴抄」を論じる。
『細雪』の成立にあたって重要な意味を持つもう一つの要素として、『源氏物語』の現代語訳からの影響ということが指摘できる。『細雪』の執筆は昭和十七年末頃から開始されているが、一方『潤一郎譯源氏物語』(以下『旧訳』とする)の最終巻である第二十六巻が刊行されたのは昭和十六年七月である。昭和十年九月から五年半をかけて『源氏物語』の訳業を完成させた谷崎が、満を持して取り組んだ長編小説が『細雪』だったのである。
『細雪』と『旧訳』との影響関係についてはこれまでにもしばしば論じられてきたが、それらの議論では『旧訳』そのものに関する精緻な分析が欠けていたために、その多くが印象論の域を出ないものとなっていたように思われる。谷崎によれば、『旧訳』は「原文に盛られてある文学的香気をそつくりそのまゝ、とは行かない迄も、出来るだけ毀損しないで現代文に書き直さうと試みたもの」(「源氏物語序」)とされており、その訳業においては『源氏物語』の表現の魅力を活かすための様々な工夫が凝らされていて、谷崎が表現の側面において新境地を開くことにつながるものであった。当時、日本語による近代小説の表現の問題点を鋭く見つめていた谷崎は、『源氏物語』現代語訳を通して新たな小説表現の可能性を照らし出すことを模索していたのである。
本論では谷崎にとって『源氏物語』の訳業が持つ意味とは何だったのかということを正確に把握し、それが谷崎の小説においていかに活かされていったのかということを明らかにすることを試みる。第三章では『旧訳』の表現の特質を精緻に分析し、『源氏物語』原文の表現に学ぶことで、心情と景物とを一体のものとして描き出すような手法が確立されたことを示す。第四章では『旧訳』において獲得された表現様式が昭和十一年の「猫と庄造と二人のをんな」において実作に適用され、作中人物の心情を巧みに提示する特徴的な地の文を生成することにつながったことを論じる。
そして第五章では、関西移住以降の〈型〉への思索と『旧訳』によってもたらされた表現様式とが結びつき、『細雪』において谷崎文学が一つの到達点を迎えたことを確認する。『細雪』で描かれている蒔岡家の四姉妹の生活文化は、谷崎の言う「生活の定式」(「私の見た大阪及び大阪人」)と呼ぶべきものと捉えられるが、くり返しを通して一回的な経験が普遍につながる通路を獲得していくという意味で、日常生活に表れる〈型〉の一つの典型と言えるものである。ここに描かれている「生活の定式」を通して、〈型〉にどのような意義が見出せるのかを明らかにしたい。また、『細雪』の表現を綿密に検討することから、こうした「生活の定式」が『旧訳』において獲得された表現様式によってはじめて描かれうるものであったことを論じる。
『細雪』の達成以降、谷崎は小説の題材においても表現様式においても「古典」を離れて新たな方向へ歩みを進めていったように見える。谷崎は昭和二十六年から『源氏物語』の二度目の現代語訳である『潤一郎新譯源氏物語』(以下『新訳』とする)に取りかかるが、そこでは『旧訳』とはまったく異なる表現様式が採られ、物語を読み聞かせるような語りによって全体が統括されることとなった。第六章ではそうした『新訳』の特徴を『旧訳』との対比によって明らかにするとともに、新しい方向に踏み出そうとしていた谷崎にとって『新訳』が持っていた意味とは何だったのかを確認する。また第七章では、谷崎が『細雪』以降に新しい方向性を模索していった試みの一つとして、昭和三十一年に発表された「鍵」を取り上げる。表現様式と表現対象の両面において〈型〉から距離を置いた枠組みが設定されているが、個を追求するなかで個と他者との関係性の意義が見出される構造となっていることを読み解く。谷崎は、一般に〈型〉との親近性が高いと目されるような伝統文化などからは離れていったが、個別性と普遍性との緊張関係の先にある一体化ということ自体は、谷崎文学において形を変えて追求されつづけていったことを論じる。
昭和二十三年、谷崎は「所謂痴呆の芸術について」という随筆を発表している。この随筆のなかで、谷崎は文楽に対する愛着と蔑視とが入り交じった複雑な心境を示しているが、自らの作風にまで影響を及ぼすほどに文楽に思い入れを持ってきたことを考えれば、この随筆で示された姿勢もやはり一つの転換を示すものと言えるだろう。終章ではこの「所謂痴呆の芸術について」の内容を検討することで、『細雪』以降の谷崎において何が変容し何が変わらずに引き継がれていったのかをあらためて確認してみることにしたい。谷崎も含めた近代的な知性にとって〈型〉と向き合うことは躓きの石となってきたことを確認した上で、谷崎文学が描き出す〈型〉のありようにはそうした議論の閉塞を打ち破るような有益な視座を見出すことができることを明らかにしていく。