本論文は、作曲家で民謡研究者でもあったバルトーク・ベーラの活動における文化ナショナリズムとモダニズムの関係について考察するものである。
彼の文化ナショナリズム的な主張とモダニスト的なそれが、現実の活動のレヴェルにおいて、どのように互いに結びついていたか、その全体的な構造自体を、その歴史性とともに批判的に捉え返すことを、本論文では試みた。
本論は六つの章によって構成される。
まず第一章では、ハンガリーの「民族誌協会」によるフォノグラフの導入について考察した。バルトークが民謡採集を始めた時点において、民謡を大量に収集し、体系的に分類するメディアがハンガリーには既に存在し、実際にも民謡採集が行われていたこと、及びそうした研究が自国の文化アイデンティティの解明に関わるものとして、国家によっても保護されていたことを、そこでは明らかにした。
第二章ではバルトークが民謡採集と創作活動の双方を本格的に始めた、1900年代のハンガリーの状況を整理した。そしてバルトーク達の世代の知識人が、それまでジェントリ層を中心とするかたちで構築されてきたハンガリーのナショナルな文化アイデンティティを新たな仕方で捉え返していったこと、そしてその中で、従来ネガティヴに捉えられてきた「農民」が、オーセンティックなハンガリー性の担い手として注目されるようになっていったことを指摘した。バルトークが前衛音楽のためのプログラムについて語る際も、民俗音楽の「精神」について語っていたことの背景には、こうした文化アイデンティティの捉え返しを受け、彼が「新しさ」と「ハンガリー性」を、共にこれから実現すべき事柄として、互いに結びつけて考えていた事情があったのである。
第三章ではバルトークの民謡研究がどのような価値観に基づくものだったのかを考察した。そして彼の民謡研究が、「西洋の慣れ親しんだ形式」との相違を美的に評価しようとするプリミティヴィズム的な価値観を帯びる一方で、ハンガリー系農民の「藝術的な創造の力」を強調する点において、文化ナショナリズム的とも受け取れる性格を持っていたことを、明らかにした。実際にも、ハンガリー民謡に関するバルトークの「変形の働き」の学説は、ハンガリーの新たな文化ナショナリズムのための理論的な支柱として、当時の人々の間である程度までは受け入れられていたのだ。
第四章では、まず前半において、バルトークや周囲の人々が「狭い意味での農民音楽」と並び、バッハやウィーン古典派の音楽を自分達の模範としていたことを論じた。民俗音楽の様式的特徴を藝術音楽に取り込んだ点においても、彼らはバッハやベートーヴェンを自分達の先行例のように捉えていたのである。
その上で後半では、バルトークが「農民音楽」に見られるものと類似した旋律の変形のプロセスを自作の中で計画的に試していたこと、及びそうした変形のプロセスを、ベートーヴェン的なソナタ形式のドラマトゥルギーと重ね合わせて使っていたことを論じた。同時代のハンガリーの音楽批評家達のバルトーク評は印象批評的だが、実は彼の音楽のこうした様式的特徴をうまく捉えたものだった。これはバルトークの民謡研究が、批評家達の彼の音楽の聴き方をある程度まで方向付けていたことによるところも大きい。
第五章では、民謡研究を通してバルトーク自身の音楽の捉え方がどのように変化していったかを考察した。バルトークが作曲家として農民音楽の「プリミティヴ」な様式的特徴を利用したことはよく言われるが、民謡研究者として彼は、そうした音楽を語る用語法を自ら捉え返し、そこに新たな意味内容を付与していく立場にもあったのである。もちろん、そうした用語法の変化は、「ロシア時代」のストラヴィンスキーの楽曲構成法に対する評価の変化など、作曲家としての彼の問題関心とも関連していた。
最後に第六章では、バルトークが「ロシア時代」と「新古典主義」のストラヴィンスキーの様式の双方に関心を持っていたこと、そして1926年の《ピアノ協奏曲第一番》においては、まさにそれらとの関係において、彼が自身の創作活動の方向性を明確なものとしていたことを論じた。「農民音楽」からの影響のもと、「新しく」「ハンガリー的な」藝術音楽を創造しようとする点では、確かに彼は周囲のハンガリーの音楽家達と問題関心を共有していた。しかしながら、彼個人のプリミティヴィズム的な問題関心が鮮明になることで、ストラヴィンスキーを否定的に評価していた周囲の音楽家達との間に、次第に見解の相違が生まれていったのである。
以上から、民謡研究を通して、バルトークがプリミティヴィズム的な価値観と文化ナショナリズム的な価値観の双方を内面化していったこと、及びそうした価値観に基づくことで、彼が「新しく」「ハンガリー的な」藝術音楽を実現しようとしたことが明らかになった。彼の場合は独自の「農民音楽」概念を持つことによって、モダニズムと文化ナショナリズムの同居は可能となっていたのだ。ときには矛盾を抱えつつも、バルトークはインターナショナルなモダニズムの文脈と、ハンガリーの文化ナショナリズムの文脈との間で、自分の位置を探し求めた。彼の問題関心の文化ナショナリズム的な側面はある程度まで周囲の人々と共有されていたが、彼自身のプリミティヴィズム的な問題関心がやがて鮮明になっていくことで、周囲の人々との間には次第に微妙な見解の相違が生まれていった。「農民音楽」は一方ではバルトークを周囲の人々と共に新しいナショナルな文化アイデンティティの確立へと駆り立てていったが、他方においてそれは、彼と周囲の人々との間に、新たな緊張関係も作り出していたのである。