『山海経』は謎の多い書物である。その成立地や編纂年代については諸説があるが、現在の研究は、戦国から前漢代にかけて、複数の巫祝によって編まれた神話性の強い原始的地理書であると見ることでは、概ね一致している。『山海経』に膨大な注釈を施したのは、西晋末に出現し、卜筮の才を以て東晋の王室を導いたという、詩人の郭璞である。郭璞は『注山海経序』において、奇異な事物を「異」と見なすのは人間の主観であり、もの自体が「異」なのではないと述べ、『山海経』に記されるものが「異」と見えるのは、常識の外に有るからであり、この書が記録する世界はこの世に実在すると主張する。その論拠とされるのが、『三国志』東夷伝など史書が記す辺境の地理誌と、当時古い墓から発見され話題となった汲冢書であった。
郭璞も『山海経図讃』という文学作品を残したが、六朝時代にはもう一人、『山海経』を素材に作品を作った詩人がいる。「読山海経」十三首を残した陶淵明である。しかし先行研究は、両者の『山海経』に対する態度を比較し、大きな違いがあるという。『山海経』の奇怪な動植物もこの世界のどこかに必ず存在すると確信する郭璞に対し、陶淵明は、『山海経』の神話世界を事実として実感していないといわれるのである。
ここに従来の『山海経』受容史でも殆ど語られて来なかった事項がある。それは『南史』に、六朝半ばの詩人・江淹が、『山海経』の欠落部分を「補う」目的で、『赤県経』という著作を手がけたという記録が見えることである。郭璞以降以後明代に至るまで、『山海経』に対する注釈が出現しなかった事からすれば、たとえそれが未完に終わったにせよ、江淹の『赤県経』編纂の歴史的意義は極めて大きい。『赤県経』なる作品は現存しないが、江淹の自選集『江文通集』の注釈者・明の胡之驥は、「遂古篇」という作品を『赤県経』を彷彿とさせるものであるとする。本論は、この江淹に関する史伝に着目し、郭璞と江淹という二人の詩人が、『山海経』と如何に向き合い、自らの思想と文学を形成して行ったかを考察した。
第Ⅰ部では、郭璞に於ける『山海経』の受容について検討した。『山海経図讃』は『爾雅図讃』と共に、郭璞の現存する文学作品の中で大きな比重を占めているが、まだ十分な研究が行われていない。第Ⅰ部第1章は、『山海経』世界の中で最も重要な位置を占める「崑崙」を詠んだ作品、『山海経図讃』「崑崙丘」を精読し、郭璞の崑崙像について考察した。注目されるのは郭璞がこの山を「水の霊府」と呼ぶことである。崑崙を巡る歴代の言説にこの様な語が用いられた例はない。「霊府」の語を郭璞の他の作品に調べると、身体の重要な部分を司るものという意味で用いられている。中国医学は気血の停滞を嫌う。大地に順調な血流をもたらし、その健康を保証するものが、天下の水を統べる「水之霊府」崑崙であった。では水とはどのようなものか。郭璞は水を詠んだ多彩な作品を残しているが、郭璞にとっての水は、単に河川となって地表を流れるだけではない。地下では「地脈」を通し、海、湖、泉、井戸、河川などすべての水が通じ合っており、さらに天地は莫大な水に浮かんでいる。天と地を貫いて聳える崑崙は、天地の間に存在する水と、天地を浮かべる水との間に、絶え間ない環流を起こし、水の宇宙の安寧を守るものであった。郭璞がこのような宇宙観を持っていたことは、本稿によって初めて明らかにされたものである。
第Ⅱ部では、江淹に於ける『山海経』受容について、郭璞との関わりを中心に検討した。『詩品』は郭璞が江淹の夢に出現し「五色の筆」の返還を求めた、江淹が筆を返還して以降、江淹の才能は尽きたという「五色の筆(江淹才尽)」故事を伝えている。この故事を元に、江淹が郭璞の遊仙詩を継承したことは、日中の学者によって指摘されているが、江淹と郭璞の関係、さらに江淹と『山海経』の関係はそれ以上に考察されていない。中国の研究は、江淹を、政治的不遇や家族の不幸による悲哀を、抒情的作品に詠った詩人とするが、我が国における江淹の像は大きく異なり、模擬作を得意とする美文派の代表で、その特色は「機知性」や「遊戯性」にあるとする。近年、六朝道教・本草研究が、江淹を本草鉱物に通じた文人として注目しているが、このような江淹像が、文学研究と結び付けられたことはない。第Ⅱ部序章ではこのような研究の経過を整理し、まず江淹には郭璞と共通する資質があったことを指摘した。ひとつは著作郎として『晋史』の編纂に当たった郭璞と同じく、江淹も天文・律暦・州郡など、博物学的知識が求められる『斉史』「十志」(現行『南斉書』の「志」はこれに基づく)の編纂に優れた業績を残した事、さらに江淹にも、郭璞同様、古字や古物への考古学的興味があり、それが『山海経』や汲冢書の世界と一連のものとして認識されていた事をである。これらを従来の江淹研究でも殆ど検討された事の無い「銅剣讃」などの作品を手がかりに指摘した。
次に第一章では、「五色の筆(江淹才尽)」故事の背景を、『山海経』とのかかわりから考察した。郭璞の遊仙詩や江淹の叙景詩には、華麗な色彩を持った景物が描かれることは夙に指摘されているが、使用される色彩語を分析すると、両者には顕著な特徴が見られた。それは二人が「丹」と「碧」を好んで用いることである。「丹」と「碧」は、『山海経』を特徴付ける色彩でもあるが、漢代から六朝の詩賦の中では多用されるものではない。また『山海経』と同じく神話的な世界を描く『楚辞』においても、その使用はごく少ない。鉱物質の色彩に対する嗜好は、『山海経』、郭璞、江淹をつなぐものであることが明らかになった。また江淹の「赤虹賦」を精読し、虹を描いた作品は極めてまれであるのみならず、江淹は山中で出会った不思議な現象に感動し、虹の出現から消滅までを科学者のような目で観察し、記録していることを指摘した。江淹文学を彩る色彩語は、郭璞同様、単なる美文の修飾に留まるものではなく、「古」「異」「奇」なる神秘的事象の探求と結びついており、「五色の筆」故事の背景にあったのは、両者のこのような資質であると結論付けた。
第二章では、江淹の作品に用いられる「赤県」の語を検証した。「赤県」の語の3例は、すべて呉興に左遷されていた時代の作品に見えている。そのことから、南国呉興で珍しい本草鉱物を眼にしたことが、『赤県経』の編纂、すなわち『山海経』の闕を補う著作の構想を生んだのではないかと推定した。
第三章では、江淹の「遂古篇」を分析し、『山海経』及びその郭璞注との関係を考察した。『赤県経』という作品は現存しないが、「遂古篇」には『山海経』「海経」に見える異域の国々を描く部分がある。そこには、『山海経』の本文には記述がなく、郭璞注を通して始めて結びつく国々や、最新の史書の辺疆誌によって、郭璞注を補う記述があり、江淹も郭璞注の学究的姿勢を継承していることが明らかになった。また江淹は、史書によって証明されない国については、譬え郭璞注に見えるものであっても、他の国々とは同列におかず、さらに遠方にあるものと位置づけている。このことからも、江淹が郭璞注の闕を補い、さらに精密な地理誌を作ろうとしていることが窺える。さらに注目されるのは、江淹が、郭璞注には欠落していた仏教世界に関する情報を書き加えていることである。以上の点から、江淹も郭璞同様、『山海経』の世界を実在のものと見なし、新たな知見に基づき『山海経』の拡張を志していたと結論した。
第四章では、江淹が好んで用いるが、それ以前にはほとんど用例のない「瑤草」という語に注目し、その来歴を探った。『山海経』「中山経」には「姑媱山の帝女が死して化した」という「ヨウ(草冠+<瑤-玉偏>)草」の記述がある。郭璞は、古の帝王を崇拝する儒家的思想に基づき、「ヨウ(草冠+<瑤-玉偏>)草」は「君子の佩するもの」であり「佩すれば人に敬愛される」と解釈する。ここには『山海経』に対する郭璞の儒家的理解の一例を見ることが出来る。一方、江淹は「姑媱山の帝女」と宋玉「高唐賦」およびその逸文に描かれる「巫山の神女」を同一のものとみなし、「瑤草」を、女性の美が衰えてゆく悲哀を詠うものとした。郭璞と江淹は、六朝期において、『山海経』的世界を愛好し、且つこの書と学究的に向き合った数少ない詩人だが、両者の『山海経』に対する受容には大きな違いのあったことがわかる。「瑤」は本来美玉を意味し、「瑤池」「瑤樹」など「瑤」を冠する語彙は、一般に仙界の描写に用いられる。それに対し、江淹が多用する「瑤」字の用例からは、江淹がこの世の自然の景観や植物・女性を詠む際に、鉱物玉石をもって形容するという他に類を見ない特徴が判明する。それは江淹が命あるものの衰退を熟知するが故に、その美を永遠のものとして留めんとする為と推測できる。江淹は、帝女が化した「ヨウ(草冠+<瑤-玉偏>)草」を仙界の草である「瑤草」と結びつけ、玉の永遠性を保ちつつ、儚い命の悲しみを詠う「瑤草」の語を作り出した。「瑤草」には「別賦」「恨賦」の作者として知られる江淹の優れた抒情詩人としての一面を見る事ができる。
以上のように本論は、郭璞と江淹が『山海経』という書物をいかに受容したかを考察した。この過程で、二人の詩人としての像にも、新たなものを加えることが出来たと考えている。