本博士論文は鎌倉期の朝廷における官司制度・政務運営の在り方を、主に下級官人に注目することによって、考察しようと志したものである。
官職機構そのものを考察対象として中世国家を論じた研究として、佐藤進一氏の「官司請負制」がある。佐藤氏は一二世紀初中期以降の朝廷官司が、従来の官制体系を解体し、特定氏族が特定官司を請け負い、その収益を得る形で運営されたと指摘した。以後、この「官司請負制論」を前提として中世の官司制度研究が進められてきた。こうした中世の主要な官司は、大きく四つの型に分類できる。すなわち官司請負制的官司としては、
①実務系官司:官務・局務など。
②技術系官司:暦道・天文道・陰陽道・医道など。
③上記①・②官司によって請け負われた兼官官司:大炊寮・主水司など。
の三つが、また非官司請負制的官司として
④経済系官司:修理職・内蔵寮など。
の存在が指摘されてきた。そこで本稿では、四分類それぞれの代表的な官司を取り上げ、実態を追うことで、当該期の朝廷社会の在り方を大づかみにできると考えた。検討に際しては、官司機構全体における位置づけ、特定官司を請負っていたとされる氏族の実態、官司運営の在り方、を下級官人層全体で見渡すことを試みた。さらに「永代」と「遷代」概念、すなわち治天による影響の強弱がキーワードとされている。この点にも留意した。
第一部「実務系官司における中世的体制」では、文書行政に関わる弁官局官務小槻氏、外記局局務中原氏・清原氏に注目した。「官司請負制」の代表格とされる両局であるが、小槻氏・中原氏・清原氏が請け負ったのは、左大史、大外記という実務部門の長官職であった。両局では、一三世紀初頭までに氏としてそれぞれの長官職における優越が築かれた。その過程で、官司の業務内容・人員等を換骨奪胎し、再編成した。背景には院政期~鎌倉初期の公事復興政策があったと推測される。また鎌倉後期~南北朝期にかけて、同氏族内での抗争を経験し、有力者との人的つながりや経済的基盤を得て、「中世的家」を確立した。
その下僚である六位官人層も、一三世紀初頭を画期として再編成された。従来、中世の六位官人は、官務家・局務家の強固な主従関係の下にあると考えられてきた。しかし実際には、官務家・局務家からある程度独立した存在であり、必ずしも官司の枠にとらわれず、朝儀の現場での実務を担っていた。人的構成の上でも業務内容の上でも官務・局務とは分離し、重層的な構造が形成されていたのである。
第二部「経済系官司における中世的体制」では、宮中の物品調達などに携わった経済的官司について検討した。四章ではいわゆる「非官司請負制的」官司、また五章では「官司請負制的」③型の官司と、相反する位置づけをされてきた官司を検証した。検討の結果、両者の組織構成には類似の特徴が見られた。すなわち長官職と年預職の二部構造による運営であり、官制上の長官の上位に知行者が存在し実権を握っていた。年預もまたその上位に長官とは別の年預知行者が存在する場合がある。本稿ではこうした在り方を「知行官司制」と概念づけた。知行官司は、知行国と同様「朝恩」として捉えられ、得分を生み出すものであった。そしてこの知行職および年預知行職に注目すると、「遷代」であるかに見える官司でも、特定の一族に占有される傾向も見られる。その中で大炊寮のみは、長官職と年預職が一体化した形で運営されていた。これは院政期の官司再編時に、その後相伝する中原氏が長官として関わっていたためと推測される。その他の官司では、時代と共に長官職と年預職の人的・業務的な乖離が進んでいった。一方で修理職と木工寮、あるいは大炊寮・内膳司・大膳職などの近接する業務を行なう諸官の間では業務の統合も進行した。また年預職を請け負う層は、しばしば複数の官司の年預を兼ねていた。ここには第一部で検討した両局配下の六位官人層の家柄も見える。こうした点からも下級官人層の横断性・流動性が窺われる。櫻井氏は修理職をはじめとするこれら経済的官司の運営体制は、鎌倉期を通じて直接的な主従制へ変化したと指摘するが、筆者は上述の検討からむしろ王権との人格的関係の薄いシステマティックな形へ変化していったと評価する。
第三部では、暦道という特殊技術を継承する賀茂氏を中心に検討した。賀茂氏も院政期末~鎌倉初期にかけて氏として他を排除して暦道を独占した。そして鎌倉期の一族内での抗争を経て、室町期には一・二の家での独占を果たす。このような流れは官務・局務家とも共通するものであり、この時期の下級官人一般の動向といって良いであろう。賀茂氏は一方で陰陽道も家業としていた。暦道という公的機能の請負は、陰陽道他氏との競合にも優位に働き、陰陽寮内でも優位を確立した。賀茂氏の場合、暦道・陰陽道の技術は、朝廷のみならず個別の貴族を始め幕府や在地でも需要が高い。またその需要を満たすため、多くの一族・門生を抱えていた。経済基盤としても私的奉仕に対する給付が大きい。鎌倉期の賀茂氏、同じく陰陽道安倍氏において多数の流が並立していた要因であろう。このような点で第一部・第二部の諸官司とは異なる展開を見せている。室町期には地方へ下り寺社・在地で活動する傍流の陰陽師も多く、地方暦も各地で発行された。六章でこのような変遷を追った上で、七章・八章では賀茂氏の作成した具注暦と朝廷社会の関わりを追った。七章では具注暦の形式から受容状況、社会の変化を検討した。八章は暦と貴族による日記の関係を探ったものである。
以上の検討から、各官司における運営体制の確立には、大まかに院政期末期と鎌倉後期の二段階があったと想定できる。それぞれの官の上層部では、院政期に氏をあげて官司を再編し特定の官に任じられた。次いで鎌倉後期には氏族内の抗争を経て特定の家が成立した。諸官司の年預層、弁官局・外記局の六位官人層では、院政期頃に官司の再編とともに独立した職とその得分が形成された。また室町期の下級官人は相伝の根拠を、鎌倉後期頃に求めていることが多く、この頃がその相伝の画期と意識されていたと考えられる。
特定官司を請け負ったとされる家は、苦労なく独占を果たし得たわけではない。様々な形で自家の優越を打ち出し、業務内容・財源・人的構成等を変質させて、その権益の永代化を図っている。それは王権の側としても、一面効率的なことであり、その相互的な結果として官司の存続と自家の存続が一体の物となった官司請負制的秩序体系が成立したのではないだろうか。最初に四つのパターン分けを行った。そのパターンの差は、彼らのアイデンティティの依って立つところにあるのではないかと考える。すなわち官務・局務らは文書行政に携わる官僚であり、その基盤は朝廷の政治機構そのものにある、この点で最も官司請負の主張が強くなる。他方、第3部で述べた賀茂氏のように技術を基盤としていた場合、そのアイデンティティの主張は技能(道)となる。陰陽寮の枠は早くからはみ出した行動が見られるが、暦道の請負は絶対的に主張された。また技術を基盤とするため、朝廷外での活動も見られる。中間的なのが、第二部で見られた経済的官司である。これらは資金力と利権が共に大きく、大規模プロジェクト型の要素も見られる。実務を担う官人層と上級貴族層の関与も見られる知行官司制の形態をとるところが多いのではないだろうか。
この下級官人層は、朝廷組織を支える存在ではあるが、総体的に見れば権力抗争の影響は受けていない。独占に至る過程、あるいは業務の統合に際して、先行研究で指摘されているような「天皇王権」の主導的かつ意識的な介在、あるいは官による統制から個人的主従関係へという変化は見いだせない。上級権力との間で、相互に利用し、利用されていても、自立的な集団であったと考える。また院政期には、院近臣が任じられ遷代性が強いとされてきた官司でも、鎌倉期を通じて特定の流へ固定化されていく。本稿で検討した諸官司において体制が固定化していくのは、中世朝廷が組織体制としては安定した普遍的な性格を持つようになっていたためではないだろうか。こうした朝廷のあり方について、本郷恵子氏は院庁の分析を通して「個人としての院ではなく、制度としての院・院政を保証する、ある普遍的な性格を持った院庁が誕生した」と評価する。このように上位の変化に直接に影響されることなく普遍的に運営していくシステムを、下級官人達は社会全体で、様々なレベルで築いていたのではないだろうか。一方で、彼等がその地位を保つためには、上下の階層間でも、またほぼ同格の下級官人層の中でも、他家との差別化が必要であった。ゆえに彼らは官職(利権)の「永代」性を主張した。中世前期において、このような卑姓下級官人による各家の差別化、利権の確保こそが、「官司請負制」=家による相伝官職の主張であると捉えることができる。しかし実際の所、中世官司における「永代」「遷代」とは弁別されるものではなく、相対的なものに過ぎなかったのではないだろうか。
こうした変化はある意味では組織の細分化を意味する。しかし、相対的なものであるため、実際の朝廷運営では官司の枠にとらわれず、むしろ一面では官司による職掌の差異を曖昧にする形で活動することが求められていた。その細分化と拡散の傾向は各官司間だけではなく、各官司内の業務レベルでも見られる。また彼らは、必ずしも朝廷の枠組にさえ囚われていない。技術系官人に最も顕著に見られたように、あるいは貴族層、あるいは幕府や寺社に対して、さらには在地においても活動が見える。中世社会の様々な権力組織を下支えしてきた下級官人層の強靭さが窺えるのではないだろうか。「官司請負制」は必ずしも個々の家と官司という固まりでのみ存在するわけではない。それぞれの階層での横断的なつながりと、各階層間での重層的な統属関係が存在したということがわかった。
また室町期にはいると、下級官人が担っていた中小の官司の得分や年預職にも、貴族の知行化傾向が顕在化してきた。朝廷社会の窮乏により、断絶する家も増え、諸官司を支える下級官人の兼任状況、業務の集約が進んでいった。こうして縮小されていた諸官司は一六世紀末期に至り復興される。ただしこの過程では、長官家による取り立てや、自家の権益の分割相続が多く見られる。これによって近世の官司運営体制は中世に見られたような緩やかなつながりではなく、明確な主従関係を構成するようになったのであろう。