本博士学位論文「読み本系平家物語研究」は、中世日本の軍記物語の一つである平家物語のうち、読み本系と分類される諸本を対象として考察したものである。読み本系とは、平家物語諸本全体を二分類した際に語り本系に対して使われる名称であり、本論文はその読み本系諸本(延慶本、四部合戦状本、長門本、源平盛衰記、源平闘諍録など)に多様な観点からアプローチし、それらの持つ側面のうちのいくつかを明らかにすることで、それらの成立や流動を育んだ中世社会の様相の一端やそうした歴史的状況を背景とした文学としての特質を明らかにすることをめざすものである。
平家物語は平氏滅亡後あまり時をおくことなくその原形ができあがったとされる。その後、多種類の本文に流動・分化し、読み本系と分類される諸本も成立していったわけだが、その過程については様々な経路が提示されていて一致した見解は未だ出ていない。
現在の平家物語研究において最も注目を集めているのが読み本系の延慶本とよばれる伝本である。これは、応永二十六、七(1419、20)年の書写ながら延慶二、三年(1309、10)に書写した本の忠実な写しであるという内容の奥書を持ち、これが現存平家物語の書写年代としては最古であったことと雑多な傍系説話を持つことから、多くの説話を綿密な編纂意識のないまま収集してできあがった原形に最も近いもので、最古態を示しているとする学説が支持を集めた。ただし、現在では書写実態の調査から、その全体についての最古態説は否定されつつある。
筆者は、冒頭で述べたような目的意識に基づき、以下に述べるような多様な観点から考察を重ねたのであるが、結果的に、延慶本については、応永書写時にきわめて近接する時代の歴史的様相が背景として見受けられ、延慶本の中に古態を示す部分があることを否定するものではないが、延慶書写以後も、編著者の編纂意図に基づいて新しい記事を取り込んでいったという流動の過程が明らかになったと考えている。また、それぞれの諸本の編著者の編纂意図による増補は、延慶本に限らず読み本系諸本全体に見られるとも考えている。
多様な観点とは、読み本系平家物語で描かれた八幡信仰について(第一章)、天皇や僧の堕地獄の話から読み取れる驕慢を戒める思想について(第二章)、女性の描かれ方について(第三章)、読み本系諸本の和歌への傾斜について(第四章)という四点である。
第一章では八幡信仰を取り上げた。第一節では、『将門記』を解釈する際に将門を朝敵として倒した神としてしばしば八幡神が比定されるが、そうした解釈は中世以降のものであって、『将門記』作者の意図としてはあり得ないこと、むしろ、八幡神は天神とともに将門に新皇となるのを勧めた武神であって、将門を射たのは地元の祖先神である可能性の方が高いと思われることを述べた。第二節では、頼朝挙兵譚の中にある、房総の洲崎神社に参拝して八幡の託宣和歌を聞き、それをきっかけに頼朝の逆転劇が始まるという記事を取り上げ、この託宣歌の意味、壇ノ浦での安徳帝の入水記事との関わり、四部本の特異な内容などについて論じた。第三節では、住吉の神が鏑矢を平氏に向かって放ったという報告からの連想として語られる延慶本の神功皇后三韓出兵譚が、元寇の時の石清水八幡の神威を語る『八幡愚童訓』のような内容を下敷きにしないと理解できないことから、元寇後の神国思想の高まりを経た時期に取り込まれたと考えられることを述べた。これらを受けた第四節では、延慶本で描かれる八幡神のあり様を整理し、源氏の氏神、宗廟神、阿弥陀仏の垂迹、といったその多様な側面が物語の流れの中で矛盾することなく説明されていることを述べた。
また、延慶本の壇ノ浦の場面では八幡神の阿弥陀仏の垂迹としての面が宗廟としての側面と関わって大きな役割を果たすが、語り本系の覚一本ではそうした八幡神は描かれないことにも触れた。読み本系諸本は、東国記事の多さから八幡に関しても源氏の氏神としての記述が多くなるのは当然だが、その他にも八幡信仰の多様な面が様々に書き込まれており、それは語り本系諸本と比べても特筆すべきであるという読み本系の特色を指摘し得たと考える。
第二章では、異国から来た新羅明神への信仰を背景に持つ延慶本の頼豪説話と、源平闘諍録が独自な形で取り込んだ、天神信仰に関わって語られる醍醐天皇堕地獄説話を取り上げた。いずれも中世の多くの文献に見られる話であるが、三井寺に戒壇を設けることを天皇に求めたが拒否されたために断食し、皇子まで道連れに魔道に堕ちたという平家物語諸本や他の文献によくある頼豪の話に、鼠になって山門の経典を食い荒らしたことまでつけ加える延慶本の形や、菅原道真を無実の罪で左遷したために地獄に堕ちたとされる醍醐天皇の話において天皇の罪として名聞の罪を前面に押し出す闘諍録の話の特異な形から、共通して驕慢を戒める教訓としての趣旨が読み取れることを述べた。
第三章では女性説話に注目した。第一節では清盛の未亡人である二位尼時子をとりあげた。平家物語の女性説話というと祇王、建礼門院、小宰相などといった女性の描かれ方を取り上げた研究が多く、時子についてはこれまであまり取り上げられることはなかった。しかし、壇ノ浦で安徳帝とともに、しかも天皇在位の証である三種の神器を持って入水するという役割を果たす時子の描かれ方を取り上げることは、物語の主題とも関わった重要な意味を持つ考察となると考えた。時子は物語の中で一貫してその母親としての姿が強調されていくのであるが、そうした造型が、他の史料では非難されたことがうかがえる、現役の天皇と三種の神器を伴った入水を正当化するために不可欠であったと結論づけた。第二節は、読み本系諸本のみが持つ、文覚の出家の由来を語る袈裟御前の話についてである。平家物語以後、室町物語や近世の女訓物、さらに近代には芥川の小説にまで取り上げられていったこの話について、特に貞操観念というものに注目して変化を追い、源平盛衰記・長門本とは違って延慶本・四部本では貞操を守ったと描かれる袈裟であったが、それらにおいても、袈裟は貞女であったことが評価されるのではなく、周囲のものを仏道に誘った点を評価されていたこと、それが、室町以降の貞操を重視する社会通念から貞女の鑑にまつりあげられていったが、一方で貞女とは描かない盛衰記の話が広まり、矛盾をひきおこしていたことなどを指摘した。第三節では、延慶本のみが平氏一門の九州流浪にまつわって取り込んだ宇佐神官の娘の話を取り上げた。これは中世に広く語られた、過去帳への生前記名による逆修作善をテーマとする梓弓説話の一つと位置付けられるが、延慶本の話が、『保元物語』や『太平記』に見えるものとは違って無名の女性を主人公とし、さらに中世から近世にかけて最終的に西大寺での和泉式部の話として定着していった類話との間に、現在帳という文言を持つという共通点があること、また歌徳として過去帳入りを果たしたと語る内容は、現在帳と過去帳の価値の違いを説明していると考えられることなどを述べた。そうした梓弓説話に見られた、西大寺流律宗の影響が、盛衰記の祇王説話にも見られることを指摘したのが第四節である。祇王らの名が大安寺の過去帳にも載ったとつけ加える盛衰記の記事は、その編著者が過去帳という文言から西大寺流律宗の末寺であった大安寺を連想したことを示している。これは梓弓説話における和泉式部のような女性たちに救済の手をさしのべたことが知られている叡尊ら律宗の教義の広まりが背景にあるためと推測できる。延慶本や盛衰記では過去帳の名前が「読まれた」とされることも、西大寺などでの法要の実態を踏まえたものと考える。さらに、延慶本では宇佐神官の娘が後鳥羽天皇の一夜妻になるという今生の宿願と、過去帳を媒介に浄土への往生を遂げるという後生の宿願との両方を達成したとされることから、この話が同様の存在としての祇王の話を踏まえて成立し、祇王が一種の理想像とされていた可能性を指摘した。
第四章では読み本系平家物語における和歌について取り上げた。延慶本などで和歌数が多いことはこれまでも指摘されているが、そうした点以外からも読み本系諸本の和歌を重視する態度が読み取れることを以下の三点にわたって述べた。一点は、「やさし」という貴族的な優美さを表現する言葉が、読み本系諸本では和歌そのものや和歌を詠むという行為にまつわって使われることが多いという点であり、第一節で指摘した。また、第二節、第三節では、読み本系の中でも真字本といわれる四部本や闘諍録で、真字に直す際に和歌の表記に関して試行錯誤した形跡が見られることを指摘し、結局様々な形での試みの後で和歌だけは通常の表記に落ちついていったと推測した。これが二点目である。さらに三点目として、日本の古典文学において軍記物語以上に長い歴史がある和歌が持つそれぞれの背景としての世界が、平家物語にあっても物語の内容に奥行きを持たせる役目を果たしている事、またそれに対してかなり意識的である事などを、第二章において、四部本を例に論ずることができた。
第二章以外では、いずれも時子が安徳帝を抱き、辞世歌を詠んで入水するという読み本系諸本・巻十一の壇ノ浦での一場面に言及することとなった。第二章も、その場面に見られる神仏習合や天皇の異常死からの連想であった。一つの場面から抽出した問題意識を広げた考察であったが、冒頭で述べたとおり、読み本系平家物語のいくつかの側面を照らし出し、その本質の一端に迫ることはできたと考えている。