本論文は、ドイツの小説家ジャン・パウル(1763-1825)の長編小説『巨人』の読解を行うものである。ジャン・パウルの小説は、機知的な比喩の横溢や語り手の脱線などの「解体的傾向」に注目して論じられることが多い。それに対し本論は、この小説における「形成的傾向」を示すことを目的とする。
第1章では、筋の問題を扱う。始めに侯位継承の筋について、「天才」という小説のテーマとの関係などを確認した後、この筋が小説の骨格を支えるものではありえないことを指摘する。友情と恋愛は処女長編『見えないロッジ』以降、『生意気盛り』まで一貫して現れてくるモチーフである。『生意気盛り』において、このモチーフの展開は真の主題である兄弟の関係と表裏をなし、巻の構成はモチーフの展開に合致する。同様に『巨人』における恋愛の展開も、別の観点からの意味づけがなされることによって小説の骨格としての資格を明らかにする。その観点とは主人公アルバーノの時間意識であり、主人公の時間的視座の移動と三人の恋人の交代が連関することによって、主人公の恋愛の展開には均整の取れた構成が成立する(図1)。この構成を論じるに先立ち、『巨人』では実際の巻構成が計画上の巻構成とは異なっていることを指摘する。第3巻末尾での恋人リアーネの死は計画上で第2巻の末尾、つまり小説の中間点に位置していた。この死は小説にとっての転回点と位置づけられていたのである。リアーネは、主人公が時間的視座を移動させるのに伴って、予期の対象から現前の対象となる。そして、死によって彼女が想起の対象となった時点、つまり計画上の第3巻こそが、時間意識の構成の要となる。このとき、アルバーノには、想起・現前・予期それぞれの対象としての三人の恋人たちが存在しており、これによってアルバーノは過去・現在・未来と構造化された時間意識を持つのである。こうして明らかとなる小説の構成において、リアーネとイドイーネとの鏡像的類似は「過去と未来の一致」と意味づけられる。この構成は、小説を動かす筋としての機能を持つことから、小説における「動的構成」とみなすことができる。

第2章では、内的な物語に関わる人物らの担う思想的テーマの考察を行う。主人公中心の読みを推し進めて主人公以外の人物の思想を全て否定的に捉える教養小説的読解は捨て、各人物の視点を等価なものとして捉える枠組みが採用されねばならない。まず視点が主題化されたテクストをいくつか参照し、ここで中心的に扱う人物らの特殊性を、視点の外在性という観点から示す。通例では「高き人間たち」として主人公と同じグループに数えいれられるショッペとガスパールはここで除外され、独立した考察の対象となる。ショッペを規定するのは絶えざる視点の逸脱であり、フィヒテ主義や狂気など、ショッペに関する主要な論点はここから説明される。中心的な考察の対象は、主人公、ロケロル、リアーネ、そしてリンダの四名であり、彼らは宮廷社会の外部に視点を定めているという点において他から区別される。本論では彼らの思想的テーマの内実を深く掘り下げるという方向ではなく、各テーマの関係を明示的な布置において示す方向で考察を行う。この布置は、彼らの視点を心の内部/外部および世界の内部/外部という二つの弁別軸において振り分けることにより、成立する(図2)。論述においては、各人物の個別の検討ではなく、図2において隣接しあうペアの共通性と差異を順に論ずるという方略を取る。ロケロルを例に取るなら、その唯美主義的傾向は心の内部的視点への囚われという意味でアルバーノに通じる特徴であるが、現実に背を向けた反道徳性は、世界の内部に留まる意思をみせるアルバーノとは対照的である。ロケロルの妹リアーネもまた現実に背を向けてはいるが、神および彼岸の世界という外部的存在に没入するリアーネの態度は、主観性もしくは自我を絶対化するロケロルのフィヒテ主義的傾向とは対比的に捉えることが可能である。本論では、図2に現れる人物たちを内的な圏域と名づけ、小説における特殊な位置づけを認める。

第3章では、陰謀劇の舞台としての宮廷社会を問題とする。宮廷社会は『見えないロッジ』以降その基本的な性質を変えずに小説の中に現れてきたものであるが、『巨人』における宮廷的人間たちは、感情の喪失、策略を巧みに操る道具的理性などによって、「機械人間」の相貌を呈する。この点を具体例の分析によって確認した後、ガスパールを内的な圏域と宮廷社会の中間に位置するものとして論じ、その中で、宮廷を「身体」、リアーネの精神性を「心」、そして主人公を心身結合の要として捉えるR・ジモンの論考を紹介し、心身問題的構図の導入とする。

第4章では、『巨人』の全体像を心身問題との関係において捉えるため、理論的言説などの検討を通じてジャン・パウルにおける心身問題を明らかにすることを目指す。ジャン・パウルの心身問題では、心と身体の区別に加えて、この区別を保証するものとしての無限性の概念が重要な論点となっている。心は、無限性とつながりを持つからこそ、物質的存在としての身体から絶対的に区別されるのだ。この論点は、『カンパンの谷』において明示される。ただ、ジャン・パウルにおいて無限性もしくは第二世界の概念が無批判に前提されているわけではない。啓蒙主義的な思考態度と宗教的心情の緊張関係において、「感情の実在論」という論理を通じて無限性の概念はようやく肯定されうるものとなる。ポエジーの理論においては、心と世界との相互作用が無限性の現出への必要条件とされている。詩的天才のみが、無限性に触れることができるのである。心の内部/外部、世界の内部/外部という弁別軸を用いて詩的天才とそれ以外の詩人を分類するポエジー理論は、第2章での内的圏域の図と類比的である。さらには、心身の対立にポエジー理論を取り込むことで現れる図式には、『巨人』における内的な圏域と宮廷社会の対立との同型性を見ることができる。『巨人』という小説の全体は、心身問題の構図とのアナロジー的な図式において捉えることができるのだ。この図式は小説全体を通じて固定されているため、小説における「静的構成」とみなしうる。

最終章にあたる第5章では、第1章で論じた筋の問題を第4章での考察結果に関連づける。小説は、侯位を継承したアルバーノが理想的国家の建設という希望を抱くところで終了するのだが、この希望は、心身の統一への、つまり心としての内的な圏域と身体としての宮廷社会の統一への希望として読み替えることができる。「高き人間たち」の特性と現実的な社会参加を行なう能力の両方を有しているイドイーネは、この統一のひとつのモデルとして理解することができる。ただし、侯爵としてのアルバーノの営為は小説の内部においては語られず、具体的な施策も何一つ示されない。理想的国家建設という目標へ向かう侯爵アルバーノの物語は完全に小説後の世界に属する。この小説後の物語に推進力を与えるのが、第1章で論じた動的構成である。小説において不自然なほどの重みを与えられているリアーネがイドイーネの形姿において復活することで、小説における重心が小説後の物語へと移し置かれる。こうして、小説後の物語が心身統一という目標に到達する可能性は虚構的に高められるのである。