本論文は、中世後期以降の武家がほぼ必ず帯びていた官位に注目して、武家と官位との関わり、官位の果たした役割・意義・その性格を検討することで、中世の武家政治・社会状況や、社会を規定していた「礼の秩序」の一端を解明することを目的とする。なお武家独自の性格を付与された官途・官位を、本論文では武家官途・武家官位と呼び、武家官途によって形成された、律令官位から乖離した武家独自の秩序を官途秩序と呼ぶ。。
まず第一部として、室町幕府・大名と官位との関わりという視点から、幕府・大名が官位をどのように扱い、位置付けていたか、また官位を授与する側・獲得する側の意図・意義について考察した。
まず室町幕府と官位に関して、第一章では、室町幕府における各時代の官位叙任のあり方を、官途奉行、叙任に必要な費用と併せて検討し、第二章では、室町幕府時代にのみ見られる、口宣案に室町殿が袖判を据える行為について検討した結果、将軍義詮期に成功任官が消滅したことは、私称官途が現れ広まり、口宣案のみで武家の叙任が完結するようになるなど、幕府の施策や叙任形態のみならず、その後の武家官位や武家社会に大きな影響を与えたとした。義満・義持期から出された袖判口宣案は、室町殿の権威付与という意味からも要求されたが、一定の政治的影響力を保持し続ける室町殿との特別な関係を築く手段の一つとして要求されたとし、またこの義持期には「御礼」行為が定着したことで、叙任への御礼も始まり、額も対象に応じてほぼ固定されていたことを明らかにした。そして天皇・公家にも御礼は出されたが、あくまで将軍への御礼の副次的なもので、室町幕府健在時には、諸国の武士は天皇・朝廷より将軍をより重視していたとした。そして義稙期以降、諸大名の朝廷への直奏も増えるが、これは天皇の権威を求め、重視したからではなく、幕府へ申請しても叶いにくい叙任であったり、将軍の不在が原因とした。ただこうした公家・寺社を通じた叙任が可能なのは、幕府に一元化されていた江戸時代と異なり、室町幕府の叙任形態が不完全で多くの抜け道があったことを示した。
次に大名と官位との関わりとの観点から、第三章では、佐竹氏を材料として、当主の官途、官途状、家中における官途を検討し、佐竹氏は家臣に対して官途を自由に名乗らせず制限を加え、家格・階層に応じて上位官途を許すなど、官途による家中統制を行い、それを有効的に機能させたのが官途状であったとした。また第四章では、逆に官途を用いなかった事例として山内上杉氏について論じ、天皇による補任・錦御旗の下賜という外的要因と、鎌倉府時代とは異なる職掌・権限に変化した内的要因により、関東管領職は官途の代替的存在として、官途の替わりに山内上杉氏を体現する機能を持ったことを指摘した。
また第五章では、全国の官途状を収集・分類して、その形式を三種類に系統付けた上で、官途状全般についてその地域的・時期的特徴を中心に検討し、足利将軍家の発給した官途挙状や御内書で任官を伝える文書が、全国各地の大名の官途状の形式に大きな影響を与え、これは名字状・一字状でも同様であり、官途状・一字状は形式でも発給行為自体も、上位権力の影響を強く受けていたことが明らかであるとした。また付論1は、全国の官途状の中でも特異な文言を文中に含む若狭武田氏の官途状について論じた。
第二部では、武家官位の個別的展開として、個々の官途及び位階が、中世武家社会の中で果たした性格・意義、またその付与される過程、近世とのつながりを考察した。
第六章は、室町期に足利氏のみに限定されたという左馬頭について、実際に限定されていたのか、限定されるに至るまでの過程、室町幕府滅亡後どうなったかを検討し、鎌倉初期に足利義氏が、後期に北条得宗家が(権官ではあるが)任じられ、前者は足利氏の先例に、後者は関東の支配者の先例となり、足利家を武家の中でも特別な存在に仕立て上げた装置の一つとして機能したと指摘した。そしてその結果、左馬頭は室町期から江戸時代を通じて「足利氏」を表す官途であり続け、武家官途が中世に成立させた性格を近世に失っていく中で、ただ一つその性格を保持し続けた唯一の存在であったとした。
第七章は、武家官途の中でも最高位に位置付けられた衛門・兵衛督について、鎌倉~戦国期の公家をも併せた沿革を示しながら、武家で任官を受けるのは南北朝以降で、当初斯波・畠山・山名といった特に家格の高い家にのみ限定され、十六世紀以降も階層は広がりつつも任官は限られ、一方関東では桃井憲義を先蹤として左衛門督のみその後多く現れたことを明らかにし、豊臣政権下・江戸幕府成立後の状況も指摘した。
第八章では、鎌倉時代から江戸時代にかけて、武家における四職大夫がどのような性格・意義を持ち、またそれが形成されていったかを検討し、鎌倉時代は北条氏がほぼ独占的に任じ、南北朝期には足利一門を主として武家でも多く任じられ、室町期には四職大夫となる家が固定されたと指摘した。また戦国期の四職大夫任官の契機・目的を明らかにし、そのために起きた地域的偏重も指摘した。また豊臣期に創出された武家官位制で、四職大夫はそれまでの性格を失うが、江戸時代には大名か高家が名乗る官であり、再び他の受領・京官とは一線を画される官になったとした。
四職大夫に関連した論考として、付論2は、斎藤義龍が一色氏に改姓し、家臣も一色氏家臣の苗字へと改めさせた背景について述べ、付論3は、左京大夫に任じて「義」字を与えるという「大崎」宛の御内書が、従来の比定では足利義晴から大崎義直に出されたものであったが、実は足利義昭から大崎義隆に出されたものであることを明らかにした。
第九章では、大部分の武家にとって最終的に名乗る受領官途について、今までの研究の焦点の一つであった在地効果の有無を明らかにする意味でも、在国受領を名乗ることにどのような意義があったのか、全国の実例をもとにしてその背景と共に検討し、在国受領は名乗ることによって即効的に得られるような効果はないが、自身の政治的志向性を内外に示し支配を有効に進めるための名分の一つという意味での「効果」はあり、これは室町期の一部の守護などに見られ、十六世紀後半各地に広がり、江戸時代国持大名の在国受領呼称となる一方で、各地奉行には名乗りが禁止されたことにつながったとした。またこの認識を受け入れるかどうかは受取手に委ねられ、一国規模の支配を図る者が名乗る場合、往々にしてそれは他氏との関係上用いられたことも指摘した。
第十章では、前四章で検討した官途と本来一括り・対となる位階について、武家でどのように扱われたか、またその意義・役割について検討し、鎌倉期に四位となるのは北条氏やごく一部の御家人に限られ、公卿である将軍との差が歴然で、室町期でも位階も四位に上りうることのできる家柄は限定されていたが、位階による身分序列は無く、位階の上下が家格秩序を上回ることはなかったとした。また十五世紀末から三位になる者が増えるのは、官途同様に幕府の優遇策や他大名への対抗などによる産物で、上位官途同様の政治的意義が期待されたためとした。
そして第三部は、以上の論をふまえた総論とし、第十一章「中世後期の武家における官途秩序」は官途秩序について検討した。まず第一節で室町幕府における官途秩序を明らかにし、第二節では関東の、第三節では東北・九州の、幕府の官途秩序とは幾分異なる秩序を考察し、第四節では幕府滅亡後の豊臣政権下における官途(官位)秩序について検討した結果、①鎌倉時代は幕府によって受領や成功で任官可能な官途が制限されていた。②南北朝期には成功可能な官途の幅が広がり、また成功任官の消滅で私称官途が現れるが、十四世紀段階では成功によって任官できた官途を名乗る者が多かった。③十五世紀にはさらに官途の幅が広がり、幕府内では義持段階にほぼ確定した家格に応じ、官途秩序が成立し、相応の者が任官できる上位官途と、誰でも任官できる通常官途とに分けられた。一方南朝や鎌倉府のような潜在的敵に対する意味で、その境界の者を優遇処置として上位官途に任じた。それが信濃や陸奥であり、南北朝後期の九州である。④十六世紀には、「大館常興書札抄」や「職原鈔」の伝播もあって、官途の幅はさらに広がり、他者とは異なる事を示すために、武士では本来任官できない官・すでに失われていた官・存在しない官を名乗る者も現れ、四等官部分を付ける事で官途ととして通用させる事も行われた。ただ室町幕府による官途秩序は、任官可能な官途・階層を拡大させながら、一部地方を除き全国規模で保持されていた。一方、地域・大名・家中毎の官途秩序も変容はしながら保持された。特に関東と九州では幕府と若干異なる秩序が形成されていた。⑤全国的な秩序は室町幕府の滅亡で失われるが、豊臣政権及び江戸幕府による武家官位制の創出により、改めて形成された。ただ豊臣政権により従来の室町幕府による官途秩序は消滅した。また豊臣政権下でも新しい官途秩序が萌芽するが、豊臣氏滅亡により消え、江戸幕府による通称官名の制約が新しく形成された、といったことを指摘した。
そして最後の終章では、三部にわたって検討してきた内容をまとめた上で、今後の見通しと課題を示した。