本論文はフランツ・カフカ(1883—1924)の作品に表れている「演劇的」性質に着目し、それがカフカの文学においていかなる意味を持ちうるかについて論ずるものである。手法としては、まずは『失踪者』に登場する劇場を特殊な演劇的舞台装置と特徴づけることから始める。そして、カフカの主要な作品に頻出する一見対極的な二つのテーマ「法」と「芸術」について、『審判』と『断食芸人』のテクストに即してそれぞれ分析しつつ、「演劇的身振り」である「パフォーマンス」を双方のテーマの橋渡しをするための共通のキーワードに据えて考察する。その際、語り手の所在やカフカに特徴的な語りのパースペクティヴが、「パフォーマンス」を遂行する上で重要な役割を果たしていることが明らかになってくる。物語内レヴェルでの登場人物や語り手のパフォーマンスを、テクストないし作家のレヴェルにさらに引き上げて考証しつつ、判決の言葉を書き込む行為のうちに法と芸術が統合されるパフォーマンス的方法によって言葉の十全な伝達と処刑執行が行われる理想とその挫折が描かれた『流刑地にて』を手がかりに、最終的にはカフカにおいて<書く>ことに付随する「パフォーマンス」が担っていた意味を明らかにすることが目的である。
第一章ユートピアへの夢―『失踪者』における演劇的なもの
本章では、未完の長編『失踪者』(1912—14)の、法廷の場面が幾度となく繰り返される物語の構造を、追放・排除と受容の果てしない循環の中で主人公カール・ロスマンが存在の社会的意味をしだいに喪失していく過程ととらえ、彼が行き着く先として設定された「オクラハマ劇場」と呼ばれる芸術的な場の特殊性とその役割について考察する。カフカのイディッシュ演劇体験の影響は、唯一の戯曲作品『墓守り』の執筆が断念されたことにも示されているように、戯曲ではなく、むしろ散文の文学的表現形式の中にあらわれている演劇的な性質、たとえばテクストで描写される様々な身振りの中に見出すことができる。劇場とはまさにそうした身振りに満ちた場である。カールの凋落・失踪という悲惨な現実を描き出す「ブルネルダ」の章とは対照的に、「オクラハマ劇場」の章は、人間の誕生の日にも似た、新たな始まりへの期待で溢れている。カールの劇場での新たな生とは俳優/芸術家としての生であり、「誰もが受け入れられる」と謳われるこの劇場は、新たな生の意味が読み取られるための、いわば意味するものと意味されるものの古い連関が断ち切られ、新たな連関のもとで意味が付与されるための舞台装置であり、ひいてはベンヤミンが<身振りの法典>と定義するカフカの作品のあらゆる解読困難な身振りが集積し、その解読のために小説内に組み込まれ、準備された装置だといえる。最終章でその存在について言及されながらも実体が示されることのないこの劇場は、このような一種‘ユートピア’的な世界として構想されている一方で、意味づけと意味の取りはずしを自在に行うこの劇場のいかがわしさも露呈する。とはいえ、小説内部でのこの劇場の布置は、現実には存在し得ないユートピアを創造の場において顕現させるためのものであり、オクラハマ劇場は、決定的な意味を与えられる最終地点ではないとしても、そこへと至る途上にある、様々な志向性が集まる、可能性を孕んだ場である。
第二章法のパフォーマンス―『審判』
未完の長編『審判』(1914-15)では、法の記号世界は主人公にとって意味を読み取り得ない奇妙な身振りに満ちたものとして表象する。K.は裁判所世界と記号システムを共有しないがゆえに逮捕の意味を読み取ることができず、逆に裁判所世界はK.を身体的に拘束することができず、物語冒頭からすでに両者のあいだには齟齬が生じている。法の世界を構成する記号関係は崩れて不可逆的なものとなり、本来法的権力を指し示すはずの制服や光、うなだれる身振り、あるいは裁判所への導き手となる女性などの記号は、本来の意味からずらされ、矮小化されている。さらには法廷の場面の再現や『掟の前』の解題、物語の始まりと終わりの対比的な関係といった、記号を読み取り意味を与えるための<意味生成の装置>、つまりは世界を読み取るための、そしてその世界から読み取られた自己を認識するための装置として提供される場には、観察者の視線の操作や、役を演じることによってもたらされる視点の逆転によって、容易に意味が反転する可能性が潜んでいる。『審判』の物語世界が、このように、法が機能しない、歪んだ世界として現れているのは、そこで描かれているK.と彼を取り巻く外的世界の関係が、世界が自ら姿を現すのではなく、法や裁判所の硬直化した記号世界を眼差すK.の主観的な視線(正確にはそれと統合されている語り手の視線)を通してとらえられたものであり、世界も人物もK.との関わり、あるいはK.に対する反応においてのみ存在しているためである。K.が常に法に先んじて認知していながら行為では遅れをとっているのは、法が常にK.を規定し意味を与える存在であることを示す、K.のパフォーマンスであり、法のパフォーマンスはK.のパフォーマンスを意味づけるための裏返し、K.の内部の意識の投影にすぎない。K.のパフォーマンスの目的は自己弁明であり、法の存在によって、そして法の目を自分に向けさせることによって、自己の存在を確かなものとすることにあった。
第三章芸術のパフォーマンス―『断食芸人』
晩年に書かれたいわゆる芸術家物語の一つ『断食芸人』(1924)では、断食芸人の、何も生み出さない、否定的な意味合いを帯びたKunst(芸術/技芸)が問題にされ、そのKunstが断食芸人にとっては自己を世界の中において意味づける唯一の手段となっていることが示される。断食芸は、食に伴う社会的意味や規範を社会の外からではなくて社会の中にありつつ拒絶する、非社会性を意図するものであり、そこには、秩序から逃れようとする一方で、秩序によって意味づけられることを望む、相反する二つの欲求が表れている。檻の舞台の中で断食芸人は自らのKunstについて説明する言葉を持たず、ただ断食の行為とやせ細っていく身体だけを観客に提示し、それを操作・演出するものとして興行師の言葉があるのだが、断食芸人の断食(芸)貫徹への意志はそうした「意味するもの」と「意味されるもの」の間の見せかけの関係を崩し、断食芸人は社会的な意味やコードから解放されると同時に、社会の中で実体を失っていく。社会的記号性を取り払いむき出しの記号となった身体は、檻の舞台に立ち、あるべき意味の欠如を、観客からの積極的な意味の読み取りを誘う、継続的な「行為」によって埋めようとする。断食芸の意味を単なる日常的不可能性から芸術的可能性に反転させ、すりかえていた偽装・隠蔽と、死を目前にしての真実の暴露は、社会において認知される自己の再生が意図されたパフォーマンスである。このパフォーマンスの重点は行為の内容ではなくて行為そのもの、つまり見る者の目に働きかけ、あるべき意味を読み取らせるところにある。無をすら実体化したかに見せるその行為こそが、意味の決定をひきのばしつつ、意味になり代わって自己の存在を主張することができるはずである。芸術のパフォーマンスとは、他者の眼差しを借りた、終わりのない、自己演出のパフォーマンスであった。カフカに特異な、俯瞰的な視点を持たない語り手のパースペクティヴによって可能となるこのパフォーマンスは、読み手に対しても向けられている。
第四章文学のパフォーマンス―『流刑地にて』のパフォーマンスの構造
『流刑地にて』(1914—19)では、パフォーマンスと書くことが密接に関係している。そこでは、機械処刑においては、判決文と装飾部分が不可分に一体化し視覚では解読不可能な文様が囚人の体深くに刻み込まれることで、判決の言葉の伝達と懲罰とが同時に行われ、その際、囚人に対しては視覚や聴覚ではなく触覚によるような、直截的な言葉の伝達が可能であったと語られる。しかしそうしたことが現実に起きることはもはやない。この書字機械が言葉を刻み込む行為とカフカの書く/“引っ掻く”ことによる創造的行為は言葉の十全な伝達という理想を目指す点において親近性を持っている。ただし、装飾で覆い尽くされた判決の言葉とはちがって、カフカにおいては、注釈的な言葉や言語的装飾性は可能な限り削ぎ落とされ、意味は収斂されるというよりもむしろ拡散される。こうした意味の拡散、あるいは意味の反転とずらしによる流動性やあいまいさは、言表化不可能なものを言表化するための方策である。こうしてみると、文学のパフォーマンスとは、言葉の硬直化した記号関係を揺さぶり、物語全体を統括する秩序を揺るがし、小説にダイナミズムを与える言語的パフォーマンスだといえるだろう。そしてそれは、小説内部で出来事を物語ることにおいて、何かしら意味を読み取ろうと注意深く<見る者>=読者の目を取り込み、狭隘化された語りのパースペクティヴによってその眼差しを操作し、意味を読み取らせては否定することを繰り返す、創造を孕んだ破壊によって、いわばカフカの<書く>パフォーマンスによって生み出されるものである。
カフカにとって文学のパフォーマンスは、社会的な生に代わる文学的な生の演出、言い換えるならば、生活世界・現実世界から離れて文学という仮象世界を舞台とし、そこで言葉を書き連ねる果てしない行為の中でのみ可能であった、自己の存在を意味づけ、生を克服するためのものであり、そして未来への希望を担うものであった。