日野家は、内麿子真夏からはじまり、儒学をもって朝廷に奉仕することと代々の日記を調べて故実情報を提供することを家職とし、名家の家格を有する。名家とは、蔵人と弁官を経て(大)中納言まで昇る堂上家の家柄である。平安中期、有国の子広業と資業が儒門に入って以来、儒学を家業とした。二人は詩人であり有能な実務官僚であった父有国に従い、儒者と実務官僚との両方を目指した。広業も資業も、文章博士・式部大輔など儒者の要職を経て公卿に進み、儒家の基礎を固めた。
日野家は代々御湯殿読書儒と東宮学士および侍読を勤仕して、皇室の教育に関わってきた。特に、御湯殿読書儒は有国の子孫が必ず召される例となっていたが、広業が勤めた「寛弘の例」が吉例として残ったことに因る。御湯殿読書を勤めた儒者は、東宮学士と侍読にも就く例が多く、高倉から後堀河に至る鎌倉初期はほぼ代々日野家儒者が侍読を務めた。この時期は日野家が名家の家格を確立する時期と一致する。
日野家が代々弁官に就くようになるのは、資業の子孫実光のときからである。実光は内麿流でははじめて、弁官・蔵人を経て中納言まで昇った。これは後に名家専用の昇進コースとなるもので、実光の経歴は子孫にも受け継がれる。実光子資長と兼光も同じ出世を遂げることができた。実光―資長―兼光に至るにつれ、昇進のペースが速くなるとともに、日記の執筆と故実の収集が確認される。この時期に、名家日野家の基礎が築かれたといえる。日野家は儒者であることをもって弁官に進出したので、彼らはみな「儒弁」である。実光の子孫である家光からは、儒弁としての自覚がはっきりと現れ、特に器量と譜代を条件として重視している。
文筆の才能が必要とされる弁官にはもともと儒者が登用されたが、中世社会で弁官を家職とすることが出来た儒家は、日野家が唯一である。その背景として、摂関家の後押しも考えられるが、有国以来続く実務官僚の伝統の強さと実用性を重視する日野家儒者の学風が挙げられる。学問を本としながら実務に通達した文人官僚こそ日野家儒者が目指したところであり、このような伝統があったからこそ、名家日野家の成立をみることができた。
鎌倉前期の日野家は、侍読・詩歌会などにみえる儒者としての活躍と弁官・蔵人など実務官僚としての活躍を基盤として、朝廷のなかで地歩を固めていた。鎌倉前期に生じた摂関家の分裂は、有国以降代々にわたって摂関家の家司を勤めてきた日野家にも新たな選択を迫った。兼光は長男資実と長親を九条家に入れ、日野家の将来を九条家に託する選択をした。兼光がこのような選択をしたのは、日野家が代々領家職を知行する若山庄など皇嘉門院領が九条良通に譲られたことに起因するところが多い。
一方、兼光は五男頼資を近衛家に入れたが、頼資から勘解由小路と号する新しい家が分かれる。頼資は長い年月をかけて遅いペースで中納言に昇り、家の基礎を作った。頼資は家の将来を長男経光に託して、彼を一人前の官僚として育てるために、物心両面の支援と教育を惜しまなかった。経光もまた儒学、漢詩、和歌の稽古と公事の勉強に日々精進した。経光は自分が儒弁である自覚をはっきり持っていて、儒弁の根幹は才能であると認識していた。若い経光が公事を遂行するためには、父頼資をはじめとする家族、親族、一門の協力が必要不可欠であった。勘解由小路家と日野家は公事情報に関しては基本的に協力しあったが、文書類は日野家と別々に保管しおり、貸借できないものもあった。
兼仲は経光の二男で、兄兼頼が死んでから名家の出世コースに乗り始めた。彼は近衛家と鷹司家の執事と南曹弁を勤め、文筆能力をもって摂関家を補佐した。また、家宣が出家したあとは日野長者を勤めた。鎌倉前期の勘解由小路家は、日野家と同じ一門意識を持っていた。兼仲は祖先の例を強く意識していて、日記のなかには「譜代者」としての自負と「非譜代者」に対する非難が度々みえる。勘解由小路家に侍読や文章博士の勤仕歴がないことや、兼仲が菅・江家と勘解由小路家の違いを強調していることから推測するに、勘解由小路家は儒者より実務官僚の性格が強かったといえる。
皇室の分裂からはじまった鎌倉後期の公家社会のなかで、日野俊光は持明院統の近臣として重用され、日野流でははじめて大納言に昇る栄進を遂げた。俊光は伏見天皇の親政期に実務官僚としてその才能を発揮し、天皇の譲位後は院執権として活躍しながら後伏見・花園の両天皇の乳父を勤め、公私ともに持明院統を支えた。俊光の子資名もやはり花園天皇の在位中に弁官・蔵人頭などを歴任し、父と同じく大納言まで昇進し、日野家は前例のない栄華を迎えた。
一方、資名の弟資朝は後醍醐天皇の討幕計画に加わり、正中の変で捕まって結局処刑されてしまう。討幕運動には資朝のほか、日野家の庶流である俊基も参加している。日野家の儒者が二人も倒幕に関わった背景には、鎌倉後期に流行った宋学の影響と後醍醐政権下の破格的人事政策があった。鎌倉幕府が倒れたあと持明院統と足利尊氏を仲介したのは日野家であって、尊氏を朝敵の立場から挽回させる光厳院の院宣をもたらした人は俊光の子賢俊であった。尊氏が九州落ちしたあと再び東上するまで、長門国の住吉神社の協力を得る過程でも日野家の協力があったと考えられる。これらによって、室町幕府が成立したあと、日野家は武家の権威を借りて、勢力を振るうことができた。
資明は卓越した実務官僚としての能力と武家との所縁をもって、北朝朝廷のなかで自分の地位を固めた。資明の子忠光は日野家の儒学の伝統を継ぎ、そのうえ三条家などから故実を収集し、柳原家が成立する基盤を造ったと言える。鎌倉後期の日野家は俊光からは侍読の勤仕例がなくなり、儒者の本職より実務官僚の活躍が目立つが、資名、資朝、忠光の例からみて、儒者であることは、相変わらず日野家の根幹をなすアイデンティティーであった。
儒学とともに日野家の家業とも言える芸能が和歌である。日野家儒者の経歴からは歌人の経歴が多くみえる。なかでも、大嘗会和歌での活躍が大きい。天皇即位のときに行われる一世一度の大祀である大嘗会のとき、悠紀と主基、両斎国から和歌が詠進された。これを大嘗会和歌と呼ぶ。悠紀主基各々、風俗歌一〇首と屏風歌十八首とからなる。風俗歌は楽が付けられ、儀式中に奏され、屏風歌は図が加わり、宴会中に飾られた。大嘗会和歌の形式が整備され、作者がはっきり分かる例は三条天皇からである。
大嘗会和歌の作者はもともと有名な歌人が起用されたが、後一条天皇のときから儒者が加わった。これは当時の権力者であった藤原道長の意図に依るものであった。以来、儒者二人か、儒者一人と歌人一人が詠む故実が生まれることとなった。大嘗会和歌は、儒者二人が吉例であり、少なくとも一人は必ず儒者にしなければいけない、という考え方は中世の貴族社会で根強く存在した。
儒者が和歌を詠むようになった背景として、平安中期に広まった和漢兼作の風潮と、朝廷儀式に見られる形式主義、体面主義の影響を挙げることができる。国風文化の時代を経て、和歌は漢詩文と対等の地位をもって、公的場に導入されたと言われる。けれども、大嘗会和歌における儒者の活躍は、漢詩文の伝統的権威を以って、儀式の格式を高める必要が相変わらず存在していたことを意味する。大嘗会和歌は儀式歌であったから、なおさら伝統と権威が求められた。内容より先例と形式を重視する朝廷儀式の特殊性が、大嘗会和歌における儒者の存在に正当性を与えたと言える。
そして、内麿流儒者は永承元年の大嘗会に資業と広業子家経が作者を勤めた例をはじめとして、六代続けて作者を勤めた。このあいだ、儒者二人の例が続き、特に白河・堀河・鳥羽の例が吉例として残り、儒者が大嘗会和歌を詠む故実を形成するのに、決定的に寄与した。資業と家経は大嘗会和歌を書くときにお互い違う様式を採用した。資業の書き方は彼の子孫だけではなく、そのあと大嘗会和歌を詠んだ他家の儒者にも影響を及ぼした。資業と家経の書き方の相違は、以後違う門流に発展する両流の関係を早くから示している。寛元四年からは日野家儒者一人と六条家歌人一人が慣例となったが、南北朝期に六条家が絶えると、永和元年以後はもっぱら日野流儒者が大嘗会和歌を詠進することとなる。
儒者作者が日野流のみになった背景には、儒者層の没落があった。つまり、政治的地位の低下に伴って、文化創造者としての本来の役割が出来なくなったのである。一方、日野家は鎌倉時代にいわゆる名家の家格を確立した。儒学と和歌と実務官僚という家職を持って、名家の家格を確立した日野家は中世文人貴族の頂点を極めたといえる。しかし、知識と文化の担い手としての儒者の役割は、全般的に衰退したと言わざるを得ないだろう。