1.以下の要旨に関わる限りでの目次

第1部動機の彫琢
第1章何故、動機説の立場を採るのか
第2章動機とは何か
第3章因果関係に対する信念と意志
第4章帰納論理と帰納的正当化

第2部動機の評価
第1章格率と道徳法則
第2章ヒュームと倫理の根底的問題
第3章カントの国家論
第4章道徳性と動機説

2.内容の説明

本論文は、私達が倫理的に判断する仕組みを、動機説の観点から、哲学的に解明しようとするものである。だが、読者の方は、それが、一体、誰の研究であるのか、あるいは、どのような(現在盛んに議論されている)トピックに属しているのか、ということを、一番初めに知りたいのかも知れない。
しかしながら、臆面も無く言ってしまうと、本論文は、私が、自分で問題設定をし、自分でその問題を追究して行ったものである。それでも、読む前の予想として、準備してもらうとするなら、カント的な動機説が、分析哲学の手法で、現代的に再定式化される、と考えてもらえば、問題無いと思う。
では、私の問題意識は何処にあったのか、できる限り素朴に述べて見るならば、それは、「倫理的に振る舞ったり、振る舞わなかったりする時、その人の内面は、どのように成っているのか」ということである。
人は、普通、倫理に反する行為をしてしまったことを隠したがる。罪を隠すことはもちろん、小悪党の様なことをしてしまった場合も、そうである。「隠す」ということには、その行為自体を隠滅してしまうことも含まれようが、私がここで考えているのは、例えば、人を殺しておきながら、自分には責任が無かった、と言う様な場面である。私はまず、その様な場面を、「行為記述のレベル」という言葉で捉え、現代の行為論の観点から、次の通り、分析する。
アンスコムやデイヴィドソンの分析的行為論が明らかにした様に、一つの行為は、それが原因と見做される出来事から、翻り、様々に再記述される。(本論文では「再記述の原理」と呼ばれる。)例えば、「ハンドルを切る」という行為は、その因果関係から「車の車線変更」と再記述される。だが因果の考えられる場面によっては、「割り込み」だとか「危険運転」と再記述されるかも知れない。
人を殺しておきながら、その「殺害」という行為を隠そうとする人は、偏に、この因果関係の文脈において、「自分のした行為は、被害者の死の原因ではない」と言い張っていると考えられる。そしてこれが、殺害という行為において、倫理的に振る舞わなかった人の、一つの内面描写に成る、と私は考えるのである。
もちろん、意図的に悪を犯す人、あるいは、精神障害から倫理に反する行為をしてしまう人、こういった行為者の内面を分析することも、大いに重要である。だが本論文では、倫理的判断を問題とするために、その様な行為者を考察から外さざるを得なかった。何故なら、意図的に悪を犯す人は、(反省まじりに)行為者自身が悪いと思っているのだから、わざわざ私達が、倫理的に判断したり、評価したりする必要はない。また、行為者が精神障害を患っていたならば、その人に倫理を問うことは難しいと思われる。
本論文で問題に成っているのは、あくまで、健常者でありながら、自分の犯した悪を素直に認めようとしない人間に対する、倫理的判断の仕方なのである。(もちろん、意図的に悪を犯す人でも、入り組んだ仕方で、自分の行為を正義と考えているのならば、本論文の考察の範囲内に入って来る。)そしてその様な人の内面の分析、そして倫理的に判断するための仕組みを考えるには、動機説の立場に立つのが最適だと、私には思われたのである。

本論文の第1部(動機の彫琢)は、以上の問題意識の下、書かれている。その第1章から第3章までは、既に触れた、アンスコムとデイヴィドソンの行為論が参照される。第4章では、「当該行為に纏わる因果関係こそが、その行為に対する倫理的な是非の分かれ目に成る」という、(上に再記述の原理の観点からも述べられた)見解から、その、行為に纏わる因果関係が、それに対する信念の次元で考察される。その信念は、更に、確率(ラムジーの主観説から確率=信念と考えている)としても捉えられ、カルナップの帰納論理が適用される。

以上の通り、第1部では、悪を犯しておきながら、自分は悪くない、と言い張る人の内面が、その動機から考察される訳だが、では、実際にその人が悪いと、動機において暴かれた時、私達は何を根拠に「悪い」と評価しているのだろうか。これを考えるのが、第2部(動機の評価)である。第1部では、ひたすら哲学的な分析の態度がとられ、分析的行為論、帰納論理、確率の哲学、といった問題が、少々煩瑣な仕方で論述されるのであるが、それに対して、第2部では、完全に議論は倫理的なものに成る。そしてそのために、カントとヒュームの倫理学が参照される。これは、彼らが動機説の立場を採ることから、自然であると私には思われる。だが、他方で、第1部は、彼らの動機に対する哲学的な議論の形式化としても、読むことができるのである(序文参照)。
カントは第1章と第3章で、中心的に参照される。格率、道徳法則、という彼固有の道具立てはもちろん、そこから更に進んで、彼の国家論が参照される。
何故、動機を論じるのに、国家が論じられねばならないのか。これには、第1章と第3章の間に挿入される、第2章のヒュームの道徳論が影響している。ヒュームの道徳論は、共同体(社会)を形成する所から始まる。このために、たとえ、動機という個人の内面に関わる問題であったとしても、その個人を「社会の成員」として捉える所から倫理が語られる。故に、個人の倫理的な内面意識は、社会そして国家に繋がっていると考えられるのである。また、ヒュームの議論は、カント倫理学には馴染みが薄い、法的正義を、動機説に刻印する役割も果たす。
カントとヒュームの議論から、倫理的判断について一定の見解が形作られて行き、議論は、第4章で、倫理的な善の判断についての考察に至る。それは、「自分で正しい、あるいは善い行為をしたと思っている人は、動機説の観点から見ると、本当にそうだと言えるのだろうか」という問題の考察である。一方で、それはカントらしい、道徳性と適法性の観点から論じられるだろう。だが他方で、私は、本論文で構築した動機説の観点から、倫理的判断について、些か逆説的な結論を与えることに成る。
尚、本論文は、実践的三段論法を道しるべにして議論が辿られる構成をしている。これは、第1部でアンスコムの行為論が参照される所から始まるのだが、私独自の観点から、「過去視線の実践的三段論法」、「未来視線の実践的三段論法」といった考え方も導入される。全体像としては序文の「図示2」、そして末尾の「例文のリスト」を参照してもらえば、本論文の内容を、概観できるはずである。