今日、死に関する問題が多方面で検討されつつあり、「死生学」という超領域的な枠組みも形成、展開されつつある。その中で、かつてG.ゴーラーとPh.アリエスが提起した、死の理解の歴史的変容の研究を根拠として近代以降の死の状況を批判的に検討するという視座は、死の研究の進展の根幹となってきた。近代以降の死の隠蔽現象、死にゆく者とその周囲の者に対する社会的共感の欠如と彼らの疎外、死にゆく者の主体性の問題など、彼らが指摘した問題の多くは今日なお根本的な検討課題として存在している。しかしあらためて重視すべきは、これらの極めて現代的な死の問題性の指摘が、過去の死のあり方の研究からなされてきたということである。本論文は、これらの研究の目的意識を継承し、特に死後世界への旅のモチーフを鍵に、「過去の死」と「現代の死」双方のあり方を検討するものである。同時に、アリエスら先駆者がもたらした、「過去の死」と「現代の死」の接合自体の意義と問題点を考察していく。
アリエスは歴史をさかのぼって死のあり方を検討し、5つの死のモデルを抽出した。その長い変化の両端に置かれ対照されるのが中世の「飼いならされた死」と現代の「倒立した死」である。「飼いならされた死」とは、恐怖の対象でもなければ激情や悲しみの対象ですらない「穏やかな死」、社会的営みの内に「飼いならされた」死の像である。このような死の像が様々な変遷を経ながらも近代までの死の理解の底流となって続いてきたが、現代の「倒立した死」は、この系譜から断絶しているとされ、その残酷さ、非人間性が指摘される。アリエスの研究は「過去の死」のあり方を問う歴史研究であるが、同時に「現代の死」に対する批判研究として構想されている。それゆえ「過去の死」は多分に理想化される傾向にある。しかし、過去の人々は本当に死を「飼いなら」し得たのか、また、そのような理想像を現代に持ち込むことが果たして適切なのかは、疑問が残る。
より人間らしい死を回復しようとの企図が、逆に死の多様性を狭め、死にゆく者を圧迫しかねないという問題は、エリザベス・キューブラー=ロスの死の受容過程論などにも見いだしうる。死の物語の復権という彼女らの企図の重要性は疑い得ないが、そこで新たに提起された現代の死の物語が、むしろ死にゆく者の「あるべき姿」を固定化してしまうという問題があるのである。そこには、「過去の死」と「現代の死」の接合の微妙な困難が見て取れる。本論文は、人類史の中で示されてきた死の物語、特にアリエスの議論の核となった西欧中世の死の物語を再考し、あらためて「過去の死」から「現代の死」を見直すことを目指す。
実際に検討するのは、西欧中世における死後世界についての「幻視」(visio)をめぐる文献群である。本論文ではこれを「死後世界旅行記」と総称する。死後世界旅行記は、6世紀にグレゴリウス1世が著した『対話篇』中の物語をその端緒とし、12世紀には教化文学としての地位を確立し、13世紀初頭の作品をもってその歴史を閉じる。この間、西欧中世では質量ともに特異なまでに豊かな異界物語が生産された。その背景には西欧中世の文化的、時代的特殊性があるが、しかしその「死後の物語」の底流は、さらに遠く広く辿りうる。死後世界旅行記はキリスト教説話の体裁を持つが、その内容には聖書の記述や正統教義からこぼれ落ちる様々な要素が見いだせる。そこには黙示文学の伝統も、古典古代の様々な神話世界も、またヨーロッパ古来の異教的な他界観も流れ込んでいる。そこで本論文では、西欧中世の死後世界旅行記の検討に先立ち、以上の問題関心と問題設定を明示した序章に続いて、第2章で、西欧中世の死後世界旅行記に先行し直接間接の影響を与えたであろう先行文化の死後世界の物語を概観し、この物語形式の通文化的特徴と文化的特殊性の双方の確認と、死後世界の類型の抽出を行う。その上で第3章において西欧中世の死後世界旅行記を検討するが、先行諸文化の内、特にケルト文化の影響についてもここで詳論する。ケルト文化は中世初期におけるアイルランド修道院の成立とケルト系修道士たちによる大陸伝道によって、西欧中世文化の形成と展開に決定的な役割を果たしたからである。
西欧中世の死後世界旅行記の検討にあたっては、まず初期中世から盛期中世にかけてこの物語群が次第に詳細になり具体的になっていく過程を、6世紀の『対話篇』中の物語から13世紀初頭の「サーキルの幻視」まで、12本の死後世界旅行記からたどる。ここで特に着目するのが「煉獄」概念の意義と展開である。煉獄概念の研究ではJ.ル・ゴフのそれが極めて重要であるが、彼はpurgatoriumという語彙の出現を重視した結果、12-13世紀に「煉獄の誕生」を見て取り、そこに中世の社会・精神の二極から三極への構造的転換を読みとった。しかし、死後世界旅行記の展開を見ると、天国でも地獄でもない第三の場所である煉獄的空間は、当初は名前もなく空間としての独立性も低かったとはいえ、すでに6世紀よりテクスト化されている。つまり12-13世紀に起きたことは煉獄の公認であって誕生ではなく、そこに思考パターン自体の大きな変容を見るのは難しいと思われる。
むしろ問うべきは、数世紀にも渡って煉獄的空間が求められ続けた要因と、それが公認されるにいたった経緯であろう。第2章で見たように、広く比較宗教学的視野に立って世界の多様な死後世界のあり方を見ると、審判による正義の完遂と、死後の運命についての個人の不安解消の欲求とが時に矛盾することが見出される。キリスト教成立以来、個々人の死後の運命をどう説明するかは大きな問題であった。最後の審判を認めるならば、死後にあるのは審判までの無限に長い待機であり、そして最後の裁きは決して覆らないこととなる。この厳格な審判観は、義者と不義者の運命については明確な答えを与えるが、「死んだらどうなるのか、どのような世界に行くのか」という根元的な疑問に対する答えとしては受け容れにくいものである。煉獄概念はこの二つの欲求を調停する機能を持ちうる。これによって、神の裁きの原理は保たれるが、同時に各人が死後行くべき場所、すべきことが与えられるのである。人々の根元的な要求をキリスト教教義中に実現したものが「煉獄」概念と考えられる。そこにはA.グレーヴィチが指摘するような教会文化(ラテン語文化)と俗人文化(俗語文化)との交流混合の過程が見いだせるともいえよう。
このような説話的な死後世界物語はしかし後期中世には終息する。本論文ではこの時代の死生観の変容を、『死の舞踏』や『往生術』、また腐敗死骸墓像や祈祷書の挿画などの視覚的史料を参考に考察した。そこでは死をめぐる関心が、死後の異世界から、この世の全ての人間が抱える死の運命とその過程へと移行している。背景にはペスト、戦乱、農業生産の低下による死亡率の上昇があった。死を「向こう側」の世界にではなく、生と同じパースペクティブの内に捉える視点は、現代にも共通するものである。しかしあらためて確認すべきは、後期中世の作品もまた、死と死にゆくことをやはり「物語」化しているということである。そこでは死に具体的表現が与えられ、これに面した人間の心の揺れが描かれている。ここには死後世界旅行記と共通する死の物語の機能が見いだせる。そしてそれは彼らが諦念をもって死を受け容れていたからではなく、受け容れられなかったからこそ求められたものだったと考えられるのである。
終章では、死の物語が過去にどのような機能を果たし、それが現在の我々にどのような意味を持ちうるのか、今日の我々はどのような死の物語を持ちうるのかを考察する。中世の死の像は、過去において死がいかに語られ、受け容れられたかを示すかに見える。しかし、本論文の結論として主張したいことは、死の「語りえなさ」と「受け容れがたさ」である。死は個々人の主体性と社会的な文脈の双方に関わる問題であるが、死にはまた、まったく異質な一面が存在している。災害や戦災などに明らかなように、いかなる主体的対応の介在もゆるさない、当事者も、家族も、あるいは医療者を含むいかなる第三者もまったく介入不可能な、いわば人知を超えた一面である。死は、究極的には決して備ええない脅威なのである。アリエスが指摘したように、死を「飼いならす」ことの目的はそもそもこのような制御不能な荒ぶる「野性の」死が存在しているためであった。だからこそ人は「死の物語」を紡ぎ、死を囲い込むための儀礼を社会全体で行ってきたと考えられる。しかしそのようなアリエスらの指摘が一人歩きしたとき、死の実相とそれに対する人間の営みの理解が単純化され、その意味が反転してしまうのではなかろうか。西欧中世の研究から導き出された「飼いならされた死」の像は、死が受け容れがたく飼いならしえないものだからこそ求められたと理解すべきである。死後世界旅行記が多様なヴァリエーションを持って語られ、様々な図像表現を生み出したのは、常に新たな生きた物語によって死への不安と疑問に答える必要があったからこそである。それがたやすく「飼いならされ」「受け容れられる」死のイメージにすりかわる時、「過去の死」から「現代の死」を見ようとのアリエスらの企図は崩れてしまうのである。従来の死の研究テーマは、人が死に対していかに処すべきか/処しうるか、という点に集約してきた。しかし生死の問題が究極において人間存在を超えたところにあるという認識が欠如すれば、死の物語の意義は問いえないのである。