本論文は、従来、ともすれば別々に語られる傾向にあった近代日本の政党内閣(第一次加藤高明内閣~犬養毅内閣)の成立と崩壊を統一的に説明しようとする試みである。かつて三谷太一郎氏は、明治憲法下で藩閥に代わる「体制の集権化要因」となりうるのは政党のみであり、それゆえ政党内閣制は「帝国憲法の必然的所産」として生まれたと指摘した。しかし、確立・定着したはずの政党内閣は、実際には約8年で崩壊に至ってしまう。この成立から崩壊までのあまりの短さをどのように説明するのか。この古くから提起されつつも十分に論じられてこなかった問いに対して、本論文は、1920年代に生じた官僚制の急速な構造変容に政党内閣側が対応できず、両者の間でミスマッチが生じていたことを指摘することで答えようとするものである。より具体的に言えば、この時期に登場した重化学工業化、労働・農民運動の活発化、都市―農村の格差拡大、新中間層の形成といった新たな政策課題に対応すべく、官僚制側が省庁単位で政策体系の構築や組織の合理化を行った結果、省庁間でのセクショナリズム化が進展していったにもかかわらず、政党内閣側はそれを統合するシステムを構築できず「体制の集権化要因」としての正統性を失っていく過程について明らかにすることが本論文の目的である。
第Ⅰ部では、1920年代に官僚制内のセクショナリズム化を基底で促進した要因として、この時期に省庁間での人事異動が行われなくなっていった点に着目し、そのような人事慣行が形成されるに至った理由を探った。その際に、先行研究では別々に検討されてきた、官吏の任用・試験システムと、官僚を輩出する側の中・高等教育の改革議論とをクロスさせることによって、「あるべき官僚像」の変容過程を立体的に把握することに努めた。
第一章では、大正中期から本格化することになった「法科偏重」批判について分析を行った。「法科偏重」批判とは、法律学を中心とする文官高等試験に合格した官僚が、その部局での経験がないにもかかわらず、その部局の勅任文官(次官・局長級)ポストを得ていたことに対する批判である。こうした批判は、部局の専門性を重視する技術官僚らによって明治以来なされてきたものであるが、新たに部局長に必要な素養として「教養」・「常識」を重視する立場からの批判が加わった結果、1920年代には「法科偏重」批判が官僚制内に広く浸透していったことを指摘した。
第二章では、その「教養」・「常識」を培う場として認識されていた「高等普通教育」の充実論が日露戦後から高まっていき、最終的には大正8(1919)年の高等学校令へと結実していく過程を検討し、その中から「法科偏重」批判を支持するような議論が醸成されていったことを明らかにした。第三章では、政党内閣期の官僚制を根底で規定した大正七年の高等試験令の成立過程を、第二章でトレースした高等学校令の審議・立案経過がもたらした影響に注意を払いながら検討を加えた。大正2年の文官任用令改正を直接的な契機として、従来別々に行われていた外交官・司法官・行政官の試験の統一が検討されることになったが、その受験資格が大きく異なっており、その立案は困難を極めた。結局、三試験の中で最も高かった行政官の試験水準に全体を揃えながらも、従来の外交官・司法官試験の受験者(特に私学出身者)にも門戸を閉ざさないようにするため、高等試験の目的を官僚としての潜在的な能力を問うことに規定された。その結果、文官高等試験合格の資格だけを以ってあらゆる勅任文官に就任することの正当性が失われ、入省後の経歴が重視されるようになっていったのである。
第二部では、1920年代に本格化する省庁間のセクショナリズムに対して、政党内閣がどのような統合強化構想を有しており、それらの大半が最終的には実現できず政党内閣が崩壊していく過程を論じた。第四章では、第五・六章での議論の前提として、二大政党(政友会・憲政会)の政党内閣期以前における統合強化構想を検討した。政友会では、原敬内閣以来、省庁間のセクショナリズムを抑制するために、人事面や制度面での統合強化を強く志向していた。他方で、教官・技術官や下級官吏に対しては昇進の道を開くなど専門性尊重の姿勢も見せていた。これに対して、憲政会は、政友会の主張する「能率増進」による行政整理には同調するものの、統合強化を制度的に担保する発想には乏しかった。
第五章では、「法科偏重」批判が本格化する中で、政党内閣がどのように対応しようとしたのかという点を通じて、二大政党の人事面での統合強化構想が挫折していく過程を検討した。憲政会―民政党は、「能率増進」による行政整理の方向を推し進め、専門性の重視を訴える技術官僚や経済系官庁の要求を積極的に汲み取って、勅任・奏任両文官ともに官僚の専門化を進展させるような制度改革を行おうとした。それに対して、政友会は勅任文官レベルでは政務官化を図り、奏任文官レベルでは官職間の転任を容易にすることで「適材適所」を推し進め、その前提となるジェネラリスト化を志向した。しかし、政友会の構想は、折しも政務次官制度の導入によって規範化された「政務と事務の分離」の徹底を求める世論や宮中勢力を前にして失敗に終わってしまう。このように政党内閣期を通じて、統轄能力という論理で「官僚の政党化」を図った政友会的な発想への批判が高まる一方で、「能率増進」の必要性から専門性の尊重を図った憲政会―民政党の主張が浸透していき、人事面での統合強化の構想は挫折に追い込まれるのであった。
第六章では、政党内閣期における予算統制強化構想の展開を検討した。明治憲法下での会計制度では、予算の費目は非常に細目まで項目が立てられており、大蔵省主計局の査定は建前上その全部について行われることになっていた。成立当初は機能していたこの制度は、第一次大戦後には機能不全に陥る。すなわち、予算総額の増大によって大蔵省の査定は事実上新規予算に対してしか行うことが不可能となり、一度認められた既定経費は査定されないまま認められる事態に陥ったのである。その結果、主計局の査定は新規要求に対して極度に厳しいものとなるが、各省はそこで認められなかった費目を既定経費の費目から「流用」して充用する動きを見せる。こうした事態に対して、会計検査院は各省の予算支出以前にその妥当性を検査する「歳出事前監督」構想を提示し、政府内でも検討が進められることになった。
しかし、その実現には大きな障害が存在していた。その第一は「事務簡捷」を主張する各省庁であり、もう一つは該制度導入による事務量や予算要求額の増加を恐れる大蔵省であった。しかし、大蔵省も予算統制強化の必要性は認識していた。大蔵省は各省庁から翌年度への繰越などの際に行っていた事前監督の緩和要求を突きつけられる一方で、既定経費の査定に踏み込めないまま必要な新規要求を大削減する非効率的な予算編成を続けていたからである。その結果、大蔵省はシーリングの設定や予算における費目の統合、予算の大枠を総合的に審議する「政務局」設置構想など予算統制強化案を提案するに至ったのである。
こうした種々の予算統制構想に対して二大政党は異なる対応を見せる。政友会は、既定経費の削減に失敗し、少ない財源をめぐる各省の「予算分捕り」を激化させた結果、政友会は当初「歳出事前監督」の導入を主張し、犬養毅総裁期には大蔵省の構想に近付いていくなど予算統制構想の実現には一貫して積極的であったが、それを政党内閣期に実現することはできなかった。これに対して、憲政会―民政党の方は、同党の主唱する緊縮政策が最大限の新規事業抑制に成功したため、政友会と同様に既定経費の削減には失敗しながらも予算統制を強化する緊急性はなかった。世界大恐慌によって緊縮財政への信頼が失われると、同党はあっけなく閣内不一致で政権を手放すことになる。こうして両政党の内閣とも「各省割拠」を露呈させながら退陣に追い込まれ、自らの統合の主体たるべき正統性を著しく傷つけてしまったのである。
第Ⅲ部では、各省官僚制が政党内閣側の予算削減要求に対して組織の合理化を進めることで対応しようとしていたのが限界に達し、最終的には政党内閣に対する反発を強めていく過程を、逓信省の事例を中心に検討を加えた。第七章では、逓信省に科学的管理法の思考様式が流入し、組織の合理化が進められていく過程を描いた。1920年代に科学的管理法が部内に紹介されて以後、逓信省では、経理局強化、地方への権限委譲などの改革が積極的に推進されていった。その結果、逓信省は統制の強化と権限の分配を有機的に連関させることに成功し、政党内閣が求める経費節減要求に耐えうるだけの体制を整えたのである。
しかしながら、政党内閣の度重なる経費削減要求は各省庁の体力を奪っていく。この点を、第八章では、逓信省の現業員優遇問題を素材にして分析した。政党内閣期の逓信省は、「能率増進」の一環として現業員の待遇改善を第一の課題とし、その予算計上に膨大なエネルギーを注いでいた。また、従業員会の設立に見られるように、部内の労働問題に対しても、それが深刻化しないように対策を行っていた。こうした逓信省の方針に政党出身の大臣達も協力的であった。そのため、全体的に新規事業は抑制されている中で、現業員の待遇改善費だけは例外的に計上され、政党内閣と逓信省との関係は比較的良好なものであった。そのいっぽうで、浜口・第二次若槻内閣期に行われた極端な緊縮財政は、人件費の大幅な削減を要求するものであり、それまで逓信省が行ってきた対策を無にし、省内での労働運動は激化するに至った。かくして、逓信省は、必要な予算の計上を政党内閣に期待することを放棄し、通信事業の特別会計化を実現し、その下で部内の合理化・事業の増進を行うことによって自前でその財源を調達するようになったのである。
これまで見てきたように、統合の主体として期待されて成立されたはずの政党内閣は、統合強化を実現できず統治能力への信頼を失っていくとともに、官僚制内においても反発が強まっていった。このように支持基盤を急速に失いつつあった政党内閣は、満州事変と昭和恐慌という二つの危機を前にしてもろくも崩壊するに至ったのである。