本稿は、従来東日本のデータを中心に組み立てられてきた縄文文化研究に対して、九州、中四国を中心とする西日本をフィールドとし、①土器、②石器、③遺跡(群)の実証的検討から、西日本縄文文化の実態とその特質について体系的な把握をめざしたものである。

第1部では、西日本の縄文土器を取り上げて、その年代的編成と土器型式の地域間交流について論じた。

瀬戸内における前期後葉の一型式である彦崎Z2式について、筆者は彦崎貝塚のタイプ標本の整理を通して、3段階に区分することを提案した(第1章)。同時に、関西の北白川下層Ⅲ式と彦崎Z2式が、多少の地域差を含みながらもほぼ同様の変遷を遂げることを論じた。これによって、彦崎Z2式と北白川下層Ⅲ式の存続期間はほぼ一致することになり、これに先行する彦崎Z1式と北白川下層Ⅱc式の位置づけについても、従来の見通しを具体的に追認することができた。

前期後葉の九州には曽畑式が分布する。従来、曽畑式の年代的位置づけについては、その終末が月崎下層式や彦崎Z1式に並行するという漠然とした認識が流布していたが、筆者は九州北部の該期資料を再検討し、曽畑式系統の末期に縄文平底土器が伴うことを実証的に論じた(第2章)。大局的に見た場合、前期後葉の段階には、西に九州丸底土器が、東に縄文平底土器が分布し、中期にむけて縄文平底土器が分布域を拡大するという現象が認められるわけであるが、瀬戸内における磯の森式(平底)→彦崎Z1式(丸底)→彦崎Z2式(平底)という土器系統の交替や、九州における曽畑式の繁栄と急激な衰退、そしてそれに伴う地域分化に見られるように、この時期の土器型式のあり方は、後期に比べて相対的に短期的変動を繰り返す、不安定なものであったように見える。

これに対して後期前葉の土器型式は、地域的伝統を基盤としつつも、地域を越えた広域性が発揮される点に大きな特徴がある。後期初頭に東西を広く覆って成立した中津式と称名寺式の広域圏は、両型式が次第に地域色を強めていく中で再編されていくが、「関沢型称名寺類型」と関西系土器との間に認められる類似性、同調性は、両地域の土器型式が異なる方向へ分化を遂げる中においても、一定の交流が維持され続けていたことを物語っている(第4章)。後期前葉の東西の土器型式に見られる広域的な類似性は、こうした「関沢型称名寺類型」と関西系土器との交流の延長上に位置づけられるものである。

一方、後期前葉の西日本における縁帯文土器の広域圏は、中津式以降、西日本各地に分立した多様な地域的土器群が統合されることによって成立したものである(第3章)。とりわけ、この間の変化を主導したのは、瀬戸内から関西にかけて限定的な分布を示す福田K2式の系統であったと目される。福田K2式末期の土器群は、同じく中津式から派生した山陰の島式や南四国の宿毛式に影響を与え、急激な形制上の変化をもたらしたばかりでなく、中津式と阿高式系の接触によって生み出された九州の諸型式にも色濃い影響を及ぼしている。かつての中津式分布圏を越えて、西日本一帯に類似の形制を有する土器型式が成立する背景には、このような福田K2式末期に見られる土器型式の緊密な地域間交流が深く関わっている。

この時期の土器型式の広域性は、それぞれの地域型式が、緊密な情報の交流を背景として、積極的に新来の情報を自身の伝統の中に取り入れようとする中で生み出されたものであった。このような土器群の動態は、先述した前期後葉の土器様相とは大きな隔たりがあり、第3部で述べるように、縄文後期の西日本における、地域社会の充実と発展を基盤としたものであったと考えられる。

第2部では、縄文石器の検討を通して、生業や石器石材流通の問題を扱った。

石器群構成の変遷について、草創期、早期では尖頭器や石鏃など狩猟具が主体を占める一方、後晩期には磨石類や台石類の比率が増加するとともに、打製石斧が新たに加わるという大局的な傾向は従来から指摘されてきた事実である。筆者が南四国の縄文石器について行った集成からも、この変遷過程を跡づけることができた(第5章)。南四国では、石鏃、石匙、石斧、磨石、台石といった縄文的な石器群構成が完成する早期段階にひとつの画期があり、質、量とも充実する後期段階にもうひとつの画期がある。後期中葉に出現する打製石斧は、渡辺誠氏の言う「東日本的文化複合体」の西漸や、いわゆる縄文農耕の問題に関連して、近年再びクローズアップされつつあるが、南四国の状況を見る限り、打製石斧の出現は従来の石器群構成を根幹から突き崩すようなものではなく、生業の多角化として理解される程度のものであったとみられる。

中四国の縄文時代において、金山産サヌカイトが活発に利用されたことはよく知られている。南四国でも草創期~前期には、特に中~西部を中心として在地系の頁岩やホルンフェルス、チャートが活発に利用されるが、後晩期には剥片石器に占めるサヌカイトの利用率が増加し、流通網の発達がうかがえる。これに対して、前期を中心とする岡山県彦崎貝塚では、剥片石器の石材は金山産サヌカイトにほぼ限定されており、備讃瀬戸周辺では前期以降、一貫して金山産サヌカイトの利用が主流をなしていた(第6章)。一方、石材の流通プロセスに注目すると、前中期の彦崎貝塚では、小型の板状石材から石匙や削器といった大型石器が活発に製作されていたと考えられるが、後期には広島県洗谷貝塚に代表されるように、沿岸部遺跡において厚みのある大型石材が多数集積された状態で検出される事例が少なからず知られており、沿岸部集団による石器原材の大量獲得と再分配が想定されている。前中期の石材流通が、相対的に小規模でなりゆき的なものであったと考えられるのに対して、後期の石材流通は、大規模かつ経済的なものであったと言えよう。

 瀬戸内後期に見られるような、沿岸部集団による大量の石材獲得と再分配を基調とした石材流通のあり方は、北部九州後晩期の腰岳系黒曜石の流通においても指摘されている。筆者は佐賀県大門遺跡の資料に基づいて、この問題を検討してみた(第7章)。大門遺跡から出土した黒曜石の総重量は約10kg(28%)、安山岩(サヌカイト)の総重量は約26kg(72%)で、単純に両者を合わせた総量は、板状石材32点、45.3kg分のサヌカイトが出土した洗谷貝塚にも匹敵する。大門の周辺には、近接して大門西や金立8区など小規模な衛星的遺跡が分布しており、大門のような拠点的遺跡の住人が、当該地域における石器石材流通を主導していた可能性が考えられる。また、後期後葉から晩期にかけて、腰岳系黒曜石が南四国や南西諸島など遠隔地にまで流通する背景には、この時期の九州における人口の増加と黒曜石流通量の増大が関連していることを想定した。このように、石器群構成や剥片石器石材流通の側面から見ても、縄文後期の段階は大きな画期に相当している。

第3部では、遺跡群の通時的分析から人間集団と社会のあり方について考えてみた。その中で筆者は、瀬戸内と佐賀平野の事例の比較分析に基づいて、土器型式の地域色の単位となるような大遺跡群が、より小さな単位である小地域遺跡群によって支えられていること、小地域遺跡群の背後には、一定の地理的範囲に対して定着性を強めた人間集団の存在が想定されることを論じ、縄文時代における地域組織の重層性を指摘した(第8章、第9章)。一方、遺跡分布のあり方について見ると、瀬戸内と佐賀平野では基本的な差異も認められ、遺跡群相互の有機的関係を具体的に復元するためには、地域の実態に即した考察が必要である。

さらに通時的に見た場合、瀬戸内後期では遺跡数の増加に伴って、前中期段階の遺跡分布の空白域が新たに出現した遺跡群によって割拠され、人間活動が多様な生態環境域へ拡大するという現象が認められる。また、佐賀平野では、後期後葉の黒色磨研期に小地域遺跡群程度の地理的範囲が、拠点的遺跡を核とする小規模な遺跡群(核遺跡群)によって割拠される現象が認められる。こうした現象は、後期における人口増加と地域社会の充実を反映した現象と考えられ、第1部で述べた土器型式のあり方や、第2部で述べた石器石材流通システムの時期的変化とも深く関わっているものと思われる。一方、このように地域社会の安定性が高まったと考えられる後期段階においても、地域社会を越えるような規模での長距離の移動が行われていたことを、筆者は異系統土器の長距離移動の問題から論じた(第10章)。

終章では、第1部~第3部で論じてきた内容を踏まえて、西日本縄文文化の特質について展望した。西日本の縄文文化は、定着的な生活様式を基盤とした狩猟採集文化であるという点では、東日本の縄文文化との間に本質的な違いはないと言って良い。一方、西日本の縄文後晩期における発展は、森林資源の高度な利用を達成した東日本からの文化的影響とともに、大陸の新石器文化とも一定の関わりを持ちながら独自に進行した現象と言え、その背景には、東日本の縄文文化と、韓半島の新石器文化との中間に位置し、双方の文化と交わりを持った西日本縄文文化の歴史地理的特性がある。後期以降、異文化との交流によって、西日本の縄文人たちが多角的な資源利用を発達させ、それに伴って植物質資源や穀物利用の経験が蓄積されていたことは、弥生時代開始期における急速な稲作農耕拡散の呼び水となったものと思われる。そしてこの点に、東日本とは異なる西日本縄文文化の歴史的特質を見ることができよう。