本稿は、主にローマ帝国西方で作成されたラテン語の碑文をもとに、ディオクレティアヌス帝の地方統治改革が都市と帝国の関係に与えた影響について考察したものである。
ローマ帝国は都市からなる世界だった。元首政期、ローマ帝国で大規模な官僚制は発達せず、帝国の運営は各地の都市の自治を基礎としていた。しかし、その状況は「3世紀の危機」を境に変化したと考えられてきた。すなわち、この「危機」によって都市の自治を担ってきた都市参事会員層は疲弊し、帝国は属州総督や都市監督官といった公職を通して都市に対する管理を強化した、とされてきたのである。それに対し、近年では「3世紀の危機」に対する見方に変化が見られる。「危機」の影響には大きな地域差があり、帝国全土で都市が疲弊したと想定するだけの根拠はない。古代末期にも都市自治は存続し、都市が帝国統治の基礎単位であったことは広く認められている。それにもかかわらず、3世紀に都市参事会の運営は行き詰まりを見せ、都市に対する帝国管理は強化された、との見方には依然として根強いものがある。実際、ディオクレティアヌス帝(在位284-305年)の治世には「3世紀の危機」の間に始められた諸改革が大成された。イタリアの属州化が完了し、他の属州も細分化され、いくつかの属州を束ねる管区が設置されるなど、都市に対して帝国の管理が強化されたように見えるのは確かである。
しかし、その実態には不透明な部分が多い。残された文献史料は少なく、法史料は多様な都市の姿を示すには編集されすぎている。そこで筆者が注目したのが碑文史料である。3世紀には製作点数が大幅に減少したとはいえ、ディオクレティアヌス帝治世にも未だ数多くの碑文が製作されていた。作成された当時の状態をある程度残し、地域による差異も教えてくれる碑文史料は、この時期の都市と帝国の関係を考える上で重要な情報を提供してくれる。本稿では、ラテン碑文をもとに、ローマ帝国西方の諸都市と帝国の関係がディオクレティアヌス改革によって如何なる影響を受けたのか、考察していった。
第1章から第4章までの4章からなる第1部では属州化されたイタリアの状況について論じている。第1章では北イタリア・コムムで発見された碑文に注目した。その碑文にはイタリア知事や都市監督官のみならず、皇帝の「命令」までもが刻まれていた。それゆえ、都市に対して知事や都市監督官が管理を強めた根拠とされてきたものである。しかし、この碑文の示す状況は、皇帝の積極的な都市への介入というよりは、むしろ都市監督官との関係を活かして都市側が皇帝に働きかけた結果得られた、皇帝からの恩恵と言うべきものだった。文字通りの皇帝の「命令」とは言いがたい。
第2章では、北イタリアのアクィレイアでディオクレティアヌス帝とその同僚マクシミアヌス帝が神々に捧げた2つの碑文に注目した。これらの碑文は、従来、皇帝たちの異教振興策の一環と理解されてきた。しかし、その捧げられた神格や年代などを考慮すると、北イタリアの戦略拠点たるアクィレイア市に敬意を表したもの、という側面が強かった。都市と皇帝の関係は必ずしも上意下達ではなく、流動的な要素も含んでいたのである。
第3章では、帝都ローマの外港たるオスティア市が、さる食糧長官兼オスティア市監督官に対して捧げた顕彰碑文について論じた。この碑文は、都市に対する帝国管理が強まる中で製作されたもので、オスティア市の“poorspirit”の産物、と評価されていた。しかし、ディオクレティアヌス帝治世に食糧長官がオスティア市監督官を兼任していたのはオスティア市と皇帝の関係が比較的良好だったことの証であり、この碑文もオスティア市の繁栄継続へ向けた努力の一環だった。
第4章ではカンパニア州の諸都市と皇帝、元老院議員たちの関係について述べている。まず、セリーノ水道をコンスタンティヌス帝が修復させたことを伝える碑文に注目し、その碑文に現れる州知事の存在が重要であることを指摘した。そして、皇帝や州知事に対してカンパニアの諸都市が捧げた顕彰碑文もあわせて検討し、カンパニア州では元老院議員たちが大きな影響力を持っていたこと、そして諸都市も政治情勢の変化に合わせ元老院議員たちとの関係を再構築するようになった様子を明らかにした。
第2部は第5章から第9章までの全5章から構成される。この第2部では、碑文史料の豊富な北アフリカの諸属州の様子をみていった。第5章では都市に対する管理強化の手段と目されてきた都市監督官について考察した。ディオクレティアヌス帝治世には都市監督官に言及する碑文史料が増加し、就任者の地位も変化した。それゆえ、この時期には都市監督官が属州総督の指令を各都市で実行するようになった、と考えられてきた。しかし、都市監督官選任のイニシアチブは都市側にあり、その記録が増加したのは、情勢の安定に伴って都市主導の公共事業が増加した結果だった。ヌミディアやマウレタニアといった都市の数が少なく軍の駐屯する属州では総督の影響力がもともと強かったのであり、属州分割の結果、都市に対する管理が強化された、とは言いがたい状況が明らかとなった。
それをうけて、第6章では北アフリカ諸属州での公共事業の全体像をみていった。皇帝や属州総督が主体となって進められた建設事業は、戦略的に重要なランバエシス市の水道の他、軍事施設が中心であった。帝国当局の関心は主として軍事面に偏っており、都市管理強化の流れを見出すのは難しい。むしろ、諸都市は都市参事会や有力者の負担によって浴場や劇場といった娯楽施設の建設・修復に勤しんでいた。
第7章では都市のパトロンとして属州総督が選ばれたケースについて検討している。従来、ディオクレティアヌス改革によって属州総督は州内の都市との接触が増え、都市のパトロンに選ばれるケースが増加した、とされてきた。しかし、ディオクレティアヌス帝治世、北アフリカ諸属州でそのようなケースが増加したとは言いがたい。コンスタンティヌス帝治世になると多少の増加は見られるが、むしろ、その根拠となる顕彰碑文は、元老院議員が地元の有力者として都市との友好関係を長く保った結果残されたものだった。
第8章では皇帝の顕彰碑文に注目した。先行研究では、3・4世紀、諸都市は皇帝の顕彰を命じられるようになった、と想定されてきたが、顕彰碑文の製作者・分布状況からすると、そのような見方には賛同しにくい。属州総督は、都市に顕彰を命じたというよりは、むしろ必要があれば自ら顕彰碑文を捧げたものと思われる。
第9章では、マウレタニア内陸の都市ラピドゥムを皇帝たちが再建した、と伝える碑文から、この地域における「都市」の意義について考察した。皇帝たちにとって、「都市」を繁栄させることは自らの徳目を示す上で重要なことだった。しかし、皇帝の意思だけで地方都市の繁栄は維持できない。地元住民の協力なくして都市の繁栄は無く、ラピドゥム市の衰亡と再建はローマ皇帝の権力の限界を示すものでもあった。
第3部では、残るヒスパニアとガリア、ゲルマニアなどの諸都市について考察した。これらの地域はイタリアや北アフリカに比べ碑文史料の発見数が少ない。その中で、ヒスパニアの諸属州では属州首都で集中的に碑文が発見されている。それらの碑文は属州総督や近衛長官代行といった帝国側の立場にいる人々が残したものだった。それに対し、ヒスパニア諸都市が残した碑文はほとんど発見されていない。この時期、負担が増加する一方で帝国支配の恩恵を感じられなかったヒスパニアの諸都市は、皇帝や元老院議員を顕彰する動機を持てなかったのである。第11章で扱ったガリアやゲルマニアでは、ヒスパニアに輪をかけて碑文の発見数が少ない。その中で、クラロとモゴンティアクムで発見された碑文は、この地域で都市領域の再編成が行なわれたことを示唆していた。その意味では、この地域は属州再編の影響が比較的強かったと考えられる。
各章の概略は以上の通りである。そこから明らかになるのは、ディオクレティアヌス改革によって都市に対する帝国管理が強化されたとは言いがたい、という事実である。従来、都市に対する管理強化を示す根拠とされてきた碑文は、むしろ都市側のイニシアチブによって残されたケースが多かった。ディオクレティアヌス改革の後も、諸都市は都市監督官や属州総督の存在を利用し、自らの利益を確保していたと考えられる。ただし、「ローマ帝国の地方都市」が地域の状況によって、あるいは都市の性格によって多様だった、という点には注意せねばならない。元老院議員たちとの関係の深いカンパニアやアフリカ・プロコンスラリスと、軍団が駐屯し都市の数が少ないヌミディアなどの属州では都市の置かれた状況は全く異なっていた。ディオクレティアヌス改革によって諸都市の置かれた状況が平準化されることはなく、都市と帝国の関係は多様なまま維持されることになった。
中でも、ガリアやゲルマニア、ヒスパニアといった地域では、諸都市の残した碑文が少ない。3世紀に治安が悪化したゲルマニアやガリア、元老院議員をさほど輩出しなかったヒスパニアでは、諸都市が帝国支配の恩恵を感じ取るのが難しくなっていたためと思われる。R.MacMullenの提唱した「碑文習慣」という考え方によれば、ローマ時代の碑文は、製作者は自らが特定の文明に属することを示すために製作されたのだという。その見方に従えば、都市住民が碑文を作成しなくなったこれらの地域は、ローマ支配からの遊離傾向を示していたと考えられる。5世紀半ば、地中海世界西方のローマ支配は最終的な破綻を迎える。これらの諸都市の動向は、ローマ帝国の命運にも大きな影響を与えることになる。