本論文は、現在のカザフスタン共和国にほぼ重なる領域を持っていた「カザフ=ハン国」の対外史を主題とし、中でも18世紀から19世紀半ばまでの清朝(中国)との関係に焦点を当てる。その際に、カザフ=清朝関係が、露清関係およびカザフ=ロシア関係から受けた影響を意識しながら考察を進めることに留意した。史料として、未公刊のロシア帝国文書および清朝の檔案史料を利用し、露清の史料の比較を行っている点も大きな特徴となっている。
第1章では、カザフ=ハン国に関する研究史の再検討を行った結果、1960年代の中ソ対立の影響を受けて、ソ連、中国両国におけるカザフ草原史にかかわる歴史叙述の中で、カザフ=ハン国と清朝との関係そのものが見えなくなっていたことが判明した。しかし、実際は、カザフ=ハン国が、ロシア帝国と清朝の双方と関係を持っており、西シベリアのイルティシュ要塞線(とくにその東部)=カザフ草原東部=新疆北部はむしろ地域的一体性を持っていたことが示される。これを踏まえた上で新しい史料の可能性を探ると、新疆北部の都市チュグチャクのタタール人ムッラー、クルバンガリー著『東方五史』(1910年刊)が示すイスラーム知識人のネットワークは、カザフ遊牧民の移動圏、経済圏と重なり、まさに上の3地域を結ぶ視点を提供することが明らかになった。
第2章は、18世紀初頭から19世紀前半までのカザフ=ロシア関係を概観した上で、カザフのロシア臣籍宣誓、カザフ=ハンの称号の2点について、カザフ=ハン国側とロシア側の認識のずれを明らかにした。カザフの3ジュズの内、小ジュズと中、大ジュズとの間では、後者が清朝との関係を持っていたために、ロシア側では区別して対応していたのである。また、1822年にロシアが中ジュズに対して導入した規約と行政制度とを検討した結果、ロシア帝国は清朝の境界を注視しながら、自らの管区の設置に努めていたことが判明した。管区制度の展開は、カザフの牧地がロシア帝国の法域に含まれることを意味し、それにより、ロシア治下のカザフとそれ以外の(清朝やコーカンドにしたがう)カザフとの区別があらわになりはじめ、西シベリアのロシア境界は、しだいに清朝との国境線となった。
第3章は、カザフが清朝との公式な外交関係に入る1757年に焦点を当て、露清関係におけるカザフ=ハン国の立場を考察した。まず、1731年にロシアを訪れた清朝使節による提議の内容が、その後の露清交渉を大きく左右していることを導き出した。1755年にジューンガルの政権が崩壊した後、ロシア領内に逃亡したアムルサナらの送還をめぐって、31年のトシ使節の文言が想起されていたのである。清朝は一貫して、ジューンガルおよびアルタイの清への帰属を主張し、カザフについては、57年に清朝に帰順したと見ていた。一方のロシアは、キャフタ条約とトシ提議とを使い分けながら、独立していたジューンガルとその下にあったアルタイがロシアの臣籍を請うたこと、カザフは従前よりロシアの臣民であったことを主張していた。結果として、両国がともに帰属を主張したカザフは、アルタイ諸族とともに、両帝国に帰属するあいまいな立場に置かれたことが明らかになった。そのことは、この時点でカザフ=ハン国が緩衝的な存在として独立していたことを示すとともに、両帝国がお互いにカザフに対する権利を主張し続ける根拠となっていた。
第4章では、カザフ=ハン国と清朝の関係を、清朝がどのように受け止めていたのかを考察した。ジューンガル遠征によってカザフの遊牧地に達した清朝の部隊は、このとき多くの情報を集め、カザフ社会の3ジュズを3つの「部」として把握していた。しかし、その後18世紀末にかけて、カザフ=清朝関係は変容し、それに連動して、清朝史料上の三部の概念が変化していることが明らかになった。さらにその変化はジュズごとに異なっていた。最終的に、三部はカザフ=ハン家の系統を意味するようになったのである。
第5章では、ハン一族に対して清朝から与えられていた爵位の意味を考察した。まず、爵位が継承時の儀式とも結びつき、カザフのハン一族(スルタン)の権威付けにとって、意味を持っていたことを示した。次に、1824年に、「汗han」の位を継承することに失敗したグバイドゥッラ=スルタンの事例を詳細に検討した。そこから明らかになるのは、グバイドゥッラはロシアの設けた管区の長であるアガ=スルタンという公職にあったために、ロシアの法に反することができず、自ら清朝からの爵位を辞退することを余儀なくされたことである。この事件の後も、カザフのスルタンらは清朝との関係を維持しようとしていたが、その動きもロシア帝国が定めた1822年規約にはそぐわなかった。ロシアは、清朝の爵位をカザフの伝統的なハンの位と重ね合わせて理解しており、そのため、ロシアが不要と判断したハン位と同様の意味を持つ汗爵位をグバイドゥッラに継承させることは容認できなかった。そのため、露清関係にも配慮しながら清朝を牽制し、並行して、カザフの外交交渉への統制をも強めていったのである。
第6章は、西シベリア=新疆間の露清貿易におけるカザフの関与を検討した。1757年に清朝との外交関係に入ったカザフは、コーカンドと並んで新疆における貿易を許された。すでに西シベリアのイルティシュ要塞線の都市との取引を行っていたカザフは、この地域において露清間を中継し、またカザフのスルタンが、新疆に入ることを許されていなかったロシア籍商人を仲介した。カザフは略奪や通行税という負の意味でも西シベリア=新疆間の隊商に関わっていたため、西シベリアのロシア商人は、カザフの仲介を逆説的に必要としていたのだった。19世紀になると、南部オアシス地域のコーカンド=ハン国の勢力が増大し、コーカンド系商人は中央アジア、ロシア、新疆を結ぶ貿易活動を行うようになった。ただし、新疆北部については、1820年代以降、コーカンド系商人は拠点を失い、ロシア籍商人の進出が見られた。それは、清朝のカルン線付近で遊牧するカザフのスルタンたちにまで、ロシア帝国の支配がおよび、安全が確保されたことと結びついていた。
第7章は、露清帝国の辺境統治を比較した上で、19世紀前半のカザフをめぐる露清交渉を検討した。1757年前後に成立していたカザフ=ハン国のあいまいな立場に対して、ロシアは、カザフを実質的な意味で臣民とするために段階を踏んで、統治下に組み込もうとしていた。新疆北部において接触が始まった露清の現地官同士の交渉においても、ロシアはしだいに清への強い態度を見せるようになったことが示された。逆に清朝側では、19世紀になると、カルン線外のカザフには干渉しない方針を立て、自領の確保に努めていた。カザフのスルタンらが清朝に寄せていた保護の期待にも清朝は応えず、ロシア帝国と清朝の国境線によって、カザフの牧地は分断された。より南方に位置する大ジュズについても、両帝国の方針は共通し、1850年前後の通商条約締結のための交渉から、このときには大ジュズの牧地にまでロシアが進出していたこと、その現実を清朝が認めざるを得なかったことが判明した。
総括すると、本論文の成果は以下の2点に集約することができる。
本論文から明らかになったカザフ=ハン国と清朝との関係の諸相は、カザフ=ロシア関係と相互に作用しあっていた。また露清関係は、ロシアのカザフ=ハン国併合の過程で重要な役割を担っていた。すなわち、カザフ=ハン国の対外関係史の研究において、カザフ・ロシア帝国・清朝の三角形の構図から検討する意義が確認できたことが第一の点である。
第二に、18世紀後半から19世紀半ばまでの時期において、カザフ草原東部、新疆(清朝)、西シベリア(ロシア帝国)という3つの場をつないでいたカザフ遊牧民の役割を明らかにし、これらの地域的一体性を示した点である。
このような本論文の考察の結果は、カザフスタン史の再構築に加えて、カザフ草原の空間認識という地域研究、露清帝国の異民族統治にかかわる帝国論と関連している。そのような方向に本論文の成果を位置づけ、発展させる作業は、ここでは十分に行えなかったが、本論文の中で新たに見出された諸問題とともに今後の課題としたい。