本論文では、北海道で出土する鉄器を研究の中心に据え、鉄・鉄器の生産や普及などの側面から、北海道における鉄文化の特徴とその背景を考古学的に明らかにすることを目的とした。
北海道では縄文文化の後、続縄文文化(弥生・古墳時代併行)、擦文文化・オホーツク文化(古代併行)、そしてアイヌ文化(中世以降に併行)という独特な文化変遷を辿る。そして、農耕を主とする生業を選択せず、また王権や国家が形成されなかった特色を持っている。このように本州以南と異なる文化変遷を辿る北海道ではあるが、周辺地域との交流は様々な形で継続しており、鉄に注目した場合、むしろ本州以南との関係が意識される。
北海道の鉄を考える上で特徴的な事柄は、明治初頭まで基本的には鉄を産しない地域であったことである。そのため、鉄器が生活に必要不可欠でありながら、常に外部から入手せざるを得ないという状況におかれつづけてきた。このような特殊な状況が、北海道の先史社会を評価する際にいくつかの特徴的なロジックを生み出してきた。例えば、擦文文化からアイヌ文化への変容は、鉄鍋をはじめとする交易品の急激な流入により伝統的な生業の変容や集団の再構成が起こり、擦文社会が変容・終焉したとするのが一般的な理解であった。このようなロジックが妥当であるかは再検討の余地があるが、鉄が北海道の諸文化に影響を及ぼしたことは疑いようがないところである。
しかしながら、これまでの研究では鉄器やその生産・流通に関わる考古学的現象が具体的に参照されることは少なく、理論が先行している感は否めなかった。
そこで本研究では、北海道における鉄器生産能力の限界、個別の器種の変遷とその背景、定量的な分析に基づいた鉄器の普及とその交易、の3つの側面から、北海道の鉄の様相を実証的に解明した。そして、これらの検討成果を踏まえて北海道の社会変容の過程を鉄の立場から明らかにした。
鉄・鉄器の生産には専門的な技術が必要とされ、原料から製品に至るまでに複数の工程が存在している。第Ⅲ章では鉄・鉄器生産の工程を製鉄・精錬・鍛冶(精錬鍛冶と鍛錬鍛冶)・鋳造に分けた。その内、鍛冶工程の後半にあたる鍛錬鍛冶工程を「沸かし」・「素延べ」・「火造り」の3つの工程に細分した。そして、製鉄実験や鍛冶実験の成果から各工程で生成する鉄滓の種類を確認した上で、遺跡から出土した鉄滓の観察所見に基づき、どの工程で生成した鉄滓であるかを考察した。
その結果、北海道では製鉄と鋳造は行われておらず、精錬と精錬鍛冶は時期・地域が限られていることが明らかとなった。換言すれば、北海道における鉄の技術とは鍛冶の技術である。その中でも鍛錬鍛冶工程が中心であった。そのため、高い鍛冶技術を必要とする鉄器(刀剣や鉄斧など)は、オホーツク文化・擦文文化・アイヌ文化では生産できなかった。本州以南の鍛冶との技術差は埋まることが無く、最終的にアイヌの鍛冶は和人の鍛冶によって駆逐されたと考えた。近世後半の和人の鍛冶の普及を考えれば、松前藩によりアイヌの鍛冶活動が禁止されたとする深沢百合子の「禁鉄」モデル(深澤1989)を敢えて設定する必要がないことを指摘した。
第Ⅳ章では、北海道で出土する各種の鉄器の型式論的研究を行った。対象とした鉄器は、鉄鎌・鉄斧・刀子である。これらの鉄器は北海道に鉄器が普及した古代から現代に至るまで継続的に使用されたものである。
鉄鎌は、茎が意識され始める10世紀中葉、有茎鎌が完成する14世紀前後、目釘孔を持つ鉄鎌が出現する16世紀後半に画期を持つことが判明した。鉄斧は、断面がコの字型の袋状鉄斧が出現する10世紀中葉ごろ、孔式鉄斧(マサカリ・タツキ)が出現する14世紀ごろ、孔式鉄斧しか使用されなくなる16世紀ごろに画期を持つことが判明した。刀子は、金属製の柄をもつ小柄が出現する14世紀、小柄が出現しなくなり片刃の刀子や包丁が目立つようになる18世紀後半に画期を見出すことができた。すなわち10世紀(鉄斧・鉄鎌)、14世紀(鉄斧・鉄鎌・小柄)、16世紀(鉄鎌・鉄斧)、18世紀(小柄・刀子)に鉄器の画期が存在している。
また、近世後半の鉄鎌の形態には遺跡ごとに偏りが見られ、蝦夷地の場所を請け負った商人に由来している可能性が考えられた。加えて小柄の出土時期とその分布から、小柄が和人との交易の度合いを示すバロメーターになることを指摘した。
第Ⅴ章と第Ⅵ章では、第Ⅲ章と第Ⅳ章で得られた成果を踏まえて、北海道における鉄器の普及とその交易について論じた。第Ⅴ章で擦文文化期までを、第Ⅵ章ではアイヌ文化期を取り扱った。
第Ⅴ章では、擦文文化期の鉄器の普及とその交易を論じている。その際に擦文文化と密接な関わりを持っていた、青森の鉄の様相との比較検討も行っている。鉄器が出現する縄文時代晩期末から道具の鉄器化が進行する続縄文文化までの鉄器の問題についても、擦文文化の鉄の様相の検討に先立ち、ここで取り上げている。
北海道では「北周りの鉄」の存在が漠然と意識されているためか、明らかに古い鉄器の存在が容認されてきた。そこで、これらの資料の再検討を行った。縄文時代晩期の釧路市貝塚町1丁目遺跡の鉄製品については人工遺物ではなく、酸化鉄(ベンガラ)が凝集したものであることを指摘した。また、北海道内で弥生時代前期・中期に併行する鉄器(羅臼町植別川遺跡出土の刀子など)に関しては、周辺地域の最新の研究成果に基づいて再検討を行う必要があると評価した。
石器が使われなくなることや少ないながらも鉄器が出土し始めることから、鉄器の普及は続縄文文化後半(後北C₂D式から北大式、古墳時代併行)である。ただし鉄器が安定的に出土する段階、すなわち鉄器が本格的に普及する段階は擦文文化(古代併行)である。
擦文文化の鉄器の普及を竪穴住居址から出土する鉄器の出土率から考察した。その結果、擦文文化後期(11世紀ごろ)に鉄器の出土率ならびに一軒当たりの鉄器数が増加する。青森では9世紀後半に鉄器生産の急増に伴い、鉄器の出土も急増している。青森と擦文文化の鉄器の増加には1世紀以上のタイムラグがあるが、基本的には北海道の鉄は青森をはじめとする北奥と関連しながら変遷を辿る。しかし、両地域間の影響関係は明確に把握できるものの、生産技術の差や鉄器の出土率から見た鉄器の量の差は顕著であり、この差が埋まることは無かった。そして、結果として、異なる文化変遷の道を歩むことになる。
擦文文化後期・晩期の段階では、鉄器の出土率や出土数から道北やサハリンへの活発な交易活動は想定できず、むしろ道東への交易の方が盛んであったと指摘した。このことは青銅製品(特に青銅鋺)の分布からも想定することが可能である。鉄の対価となる交易品の問題については、道東の擦文文化の遺跡立地から見ると、瀬川拓郎(2005)が説くような交易用のサケの大量捕獲は想定しにくいことを指摘する一方で、文献資料に見られるように交換価値の高い毛皮類が重要視された可能性が高いことを推測した。
第Ⅵ章では、アイヌ文化期の鉄器の普及とその交易を論じた。現時点では12~14世紀前半の鉄の様相は明らかではない。14世紀後半以降、鉄器組成に鉄鍋や刀が加わり、鉄器の出土率や出土数が急増する。そして、近世後半には鉄器組成から刀が欠落し、刀子・鉄鍋・漁撈具・釘を主体とする鉄器組成へと移行する。鉄器の需要が増し、鉄器の出土量が増加しているにも関わらず、鍛冶関連資料の増加が見られないことは、基本的には必要な量の鉄器を必要な時に手に入れることができたと推測した。
アイヌ文化期では擦文文化期の少なくとも数倍以上の鉄器が出土している。擦文文化後期の鉄器の増加と比較しても、中世段階により大きな画期を見出すことができる。そして、中世段階に鉄鍋と刀が鉄器組成に組み込まれることも、中世段階に大きな画期があることを示している。鉄器が交易品であることから言えば、中世こそ交易に特化した段階と言える。中世アイヌは鉄器を大量に入手するために、サハリンや千島との交易ルートを積極的に開拓し、北方の文物(毛皮類・ガラス玉)を入手するとともに、大量捕獲したサケや昆布などの海産物も本州への交易品に組み込んでいったと考えられる。
第Ⅶ章では、鉄器生産・個別器種の検討・鉄器の普及などの検討成果をもとに、北海道の鉄の様相を通史的にまとめた。鉄の様相の変化は、本州以南の動向ないしは関係の変化によるものが多い。そして、擦文文化後期から中世アイヌ文化期にかけての変容を鉄の様相から再検討することで、「アイヌ・エコシステム」論(瀬川前掲)が有する問題点を指摘した。具体的には擦文文化期のサケに対する過大評価や交易の画期の設定に対する批判を行った。
また、東アジア史的な視点から北海道の鉄文化を位置づけるために、琉球の鉄の様相との比較を行った。北海道と琉球は製鉄・鋳造技術を持たない地域であったため、基本的には必要とする鉄・鉄器は外部から入手する必要があったという共通点がある。加えて興味深いことに、鉄器の普及の二つの画期(7世紀と12世紀以降)が北と南で共通しているが、これは偶然の一致ではなく、同じ要因から説明できることを指摘した。すなわち前者は律令国家の周縁地域に対する政策の変化が、後者は中国を中心とする東アジアの巨大な物流機構のもと、中世世界に汎列島的な商品経済圏が形成されるようになったことが、それぞれの地域に及んだことを意味している。このような周縁地域の鉄文化の研究が東アジア全体の鉄文化の研究にも有効であることを指摘した。