本論文は、「近代美術館」の成立を歴史的に検討し、その歴史の中で「公共性」という概念の形成と、その意味合いをめぐる競合の一端を明らかにしようとしたものである。特に、美術批評の成立と制度化の歴史に光を当て、その過程において発生した既成画壇の美術家とそれを批判する批評家との対立構造が、「近代美術館」の成立の歴史にどのように介在し、美術館のあり方はもちろん、その理念たる「公共性」をどのように規定するようになったか、という問題を解明することを目的とした。
本論文で言う「近代美術館」は、現在の東京都美術館(1926年に開館した東京府美術館の後身)と東京国立近代美術館(1952年に開館した国立近代美術館の後身)を対象とする。この二つの美術館は、既存の「近代美術館設立運動史」の成り立たせる二つの柱であり、今までは、この二つの美術館を連続性の視点から捉える傾向が強かった。だが実際は、それらの美術館は「近代美術館設立運動史」のなかでそれぞれ異なる「公共性」を体現して生まれた歴史的構成物であった。その相異なる「公共性」こそ、既成画壇の公募団体に属する美術家たちが運営する東京都美術館とそれに批判的な批評家たちが運営する東京国立近代美術館との対立関係に対応するからだ。そして、この対立関係が「近代美術館」という一つの観念及び実践の上で展開されたために、本論文は、「近代美術館」を美術家の「公共性」と批評家の「公共性」とが競合する、一つの「戦場」として捉えた。
まず、東京都美術館は、文・帝展の官展と美術団体の公募展に出品し、それによって美術家としての社会的・経済的地位の向上を目指した美術家たちによって成立された。彼らは、古美術中心の博覧会政策を中心とした日本政府の「美術奨励」がその字義に反する「洋画排斥」を行うことに反対しつつ、国家がなすべき公平な「美術奨励」として常設的な美術展覧会場の建設を要求した。美術家の運動体として結成された明治美術会と国民美術協会は、博覧会の商品と区別される美術概念、「神聖なる芸術の競技場」としての美術展覧会、そして伝統的な職人とは違う芸術家としての美術家概念を強調しながら、美術の「専門家」としての美術家による美術行政を実現しようとした。
特に国民美術協会は、そういう認識をより先鋭化し、「美術家自治」というスローガンの下に「公共心」ある美術家によって、美術家が直面する諸問題を自主的に解決し、美術家の社会的地位向上と生活的・経済的利益を具現する「美術家の保護奨励」を図ろうとした。そのなかで誕生した「近代美術館」構想は、岩村透の「趣味教育」論に基き、資本主義の支配による社会的趣味の堕落を、美術によって改善・醇化することを内容とした。それによって、美術家は、社会における「趣味教育」の担当者として「指導的」地位を保証されるはずであった。要するに、「近代美術館」構想は、「趣味教育」という「社会救済」を通して「美術家救済」を図るという意図を持っていた。実質的には、官展や私設公募団体展における受賞作を「傑作」として顕彰することによって、それを制作した美術家の社会的優遇と経済的利益を保証しようとした。
しかしながら、思想的支柱たる岩村の死、美術家統制を目的とした東京美術学校の改革、裸体画に対する取り締まりなどが相次いだ結果、「社会救済」を大義とする「近代美術館」構想は後退し、直接「美術家救済」を主唱する美術展覧会場案に「近代美術館」を附属させる美術館建設運動が前面化した。これは、官展中心主義を固守した国民美術協会による美術館設立運動の衰退と、国民美術協会に統合されなかった私設美術公募団体の躍進を意味した。したがって、文部省は、国民美術協会が「美術家自治」のために提唱した「美術院」構想を実現させるかたちで帝国美術院を創設した。それに対し、美術家側は、帝国美術院を拠点とする美術家権力の強化を図ると同時に、民間の寄附によって実現される美術館に文部省が主導権を主張することを抑制すべく、美術院会員と私設美術公募団体代表からなる美術館運営協議システムを構築した。その結果、美術家の社会的・経済的地位の向上を最優先とする美術家の美術館、即ち東京都美術館が誕生した。
だが、帝国美術院主催の官展における「情実審査」が問題視されるにつれ、「美術家自治」の権威そのものも批判の的となった。そこで、帝国美術院は、美術院および官展たる帝展の権威を回復すべく、1931年から「近代美術館設立運動」を開始した。この運動は、東京都美術館が単なる常設展覧会場となって「近代美術館」構想が猶予されたということから、その猶予された「近代美術館」を実現しようとする動きであった。私設美術団体も、東京都美術館を「近代美術館」にすれば新しい常設展覧会場ができるという期待から賛同した。しかし、この連携は、美術院の主導権を主張する動きによって分裂され、実質的に頓挫した。これは、もはや美術家という名前による大同団結が不可能になったことを意味するが、ここには帝国美術院と私設美術公募団体との拮抗だけでなく、「美術家自治」そのもののヒエラルキー化を批判する若い世代の美術家たちの登場も関わっていた。官展中心主義の帝国美術院と、既得権を主張する既成美術公募団体とを中心として実現された「美術家自治」は、必然的に美術家たちの間にヒエラルキーを固着させた。このようなヒエラルキーは、東京都美術館の運営システムにも反映され、美術館使用を申し込んだ美術団体の資格をその運営協議体が決定し、結局は、新生の美術団体を排除する状況を生み出した。その結果、美術家共通の利益を図るという「美術家自治」そのものに亀裂が生じ、「美術家自治」を内容とした美術家たちの「公共性」の喪失が宣告された。
このような一連の流れとパラレルに、批評家の独立と、批評による美術の「公共性」の回復が唱えられた。既に19世紀後半から官設展覧会における「情実審査」問題が深刻化し、「情実審査」に対する「社会の公評」として美術批評の存在が浮き彫りされた。なお、「情実審査」の原因が師弟関係や党派に執着する美術家にあるとみなされ、そういう関係から離れている批評家に公正な審査を期待する世論が形成された。だからこそ、明治美術会と国民美術協会は、美術家概念を、美術を制作する人に限らず批評家も包括する広義の概念とし、美術家と批評家との協力体制を提唱した。だが、その後、東京美術学校における岩村の更迭、官展審査からの批評家の排除、そして美術家だけの帝国美術院の創設といった、一連の制度的処置によって、その協力体制は崩壊し、美術家と批評家との対立が固着した。
本論文で言う批評家は、博覧会的美術概念に反対して芸術至上主義を主唱した批評家たち、1920年代後半からマルクス主義の階級論に立脚して芸術至上主義を否定しながら、美術の社会性および美術批評における批評家のヘゲモニーを主張した批評家たち、そして最もおくれて1930年代半ばに登場し、既成美術家たちの近代美術概念に対抗して新しい「近代美術」という批評的枠組みを信条とした批評家たちなど、それぞれ思想的立場の相違を呈する不均質的な集団の総称である。しかし、それぞれ違う立場にもかかわらず、彼らは既成画壇の美術家に反対しながら、批評における批評家のヘゲモニー、そして批評による美術の「公共性」および芸術性の回復を試みる、批評家としての自覚を共有していた。こういう批評家たちの画壇改革への切望は、1935年の帝展改組を期に一層高まり、「新体制」の「革新」のビジョンからその可能性を見出しつつ、美術家による美術行政システムに取って代わるべき「文化政策」の樹立、「文化政策」の実行者たる新しい「美術行政家」としての批評家を欲望する方向へ展開した。このような「文化政策」の一環として、「近代美術館」も新しく定義され、その内容および運営において既成画壇との絶縁が最も強調された。しかし、美術界の「革新」と結び付けられたこの「近代美術館」構想は、戦況の悪化と共に実現されず、終戦後の「国立博物館」を経て、国立近代美術館にその姿を現した。
GHQの民主化政策の一環として開館した「国立博物館」は、「民主主義」を「文化国家」論に解釈することによって実現された統一的「文化政策」とみることができる。また、戦時中に「文化政策」を欲望した批評家たちは、「国立博物館」における「美術行政家」として活躍した。しかも、1930年代から芸術至上主義の立場から美術館運営において美術家を排除することを提唱しつづけた批評家・児島喜久雄(「国立美術館」構想)も、博物館の評議員として博物館運営に関わった。こういう意味で、「国立博物館」は、批評家の排他的キュレーターシップの実現と評することができるが、さらに、この批評家たちは、GHQの「全体主義の排除」および「日本起源でない美術」の展示という方針を、恣意的に西洋近代美術と解釈して、一連の近代美術展を開催しながら、1948年には、これらの近代美術展を常設化したかたちで表慶館に臨時の「近代美術館」を開設した。
戦時中の「近代の超克」論に対する反動として「近代の見直し」が唱えられた「戦後」思想に共鳴した一連の近代美術展は、大衆的人気に支えられながら、西洋近代美術を機軸とする日本近代美術の批判的検討を促した。しかし、このような近代美術展は、民主化政策から反共政策へのGHQ占領方針の転換、法隆寺金堂壁画の焼失事件をきっかけとした文化財政策の強化を期に、変質を余儀なくされる。この時期に、日本古美術を世界的文化遺産と位置付け、その「世界性」を強調する言説が拡散するにつれ、近代美術展は、「戦後」に大衆的支持を失った日本古美術への大衆的関心を取り戻す手段として動員された。さらに、文化財保護法の制定及び文化財保護委員会の新設によって、「国立博物館」が文化財保護委員会の付属機関になると、表慶館の近代美術は、初期における「近代の見直し」という批判的側面を失いつつ、日本古美術につながる文化財的存在になりつつあった。
このような文化財政策の逆コースは、「国立博物館」の運営をめぐるGHQと文部省との拮抗と関係する。この拮抗は、「国立博物館」における近代美術展とそれに対する文化財政策の強化、また、文化財保護法及び文化財保護委員会の新設に対する文部省社会教育局の博物館法の制定、といったかたちで繰返された。そして、国立近代美術館の組織にもその影を落とした。国立近代美術館を博物館に統合し表慶館の延長にしようとした博物館側の企図を反映するかのごとく、国立近代美術館の評議員会や運営委員会には、文化財保護委員会関係者及び既成画壇の美術家が多数を占めた。それに対し、社会教育局は、国立近代美術館を「社会教育施設」と位置づけ、そのモデルをMOMA(ニューヨーク近代美術館)に見出した。これは、MOMAのように、国立近代美術館を現代美術界の「国際的窓口」「海外進出への拠点」たる美術館にするということであった。その為、戦後に唯一の対外文化情報機関を自任しつつ日本現代美術の国際展参加などを遂行したKBS(国際文化振興会)の存在が、国立近代美術館の設立に直接結び付けられ、KBSの岡部長景が初代国立近代美術館館長に、KBS美術関係者メンバー協議会の美術批評家・今泉篤男が初代次長に任命された。
さらに、MOMAをモデルにすることによって、国立近代美術館の運営委員会に「近代美術」という批評的枠組みを体現する批評家たちが含まれることになった。換言すれば、MOMAをモデルにするということは、「近代美術」的批評的枠組みに同時代的な「世界性」を見出し、日本の現代美術に「世界性」を持たせようとした批評家たちのキュレーターシップを確立させる動因となったのだ。特に、国際展における日本美術の不振は、既成画壇が生み出した「大家」や「傑作」の権威を否定すると同時に、そういう「大家」の権威に取って代わるべき「国際展コミッショナー=批評家」構想に強力な根拠となった。そして、国立近代美術館のキュレーターシップは、「国際展コミッショナー=批評家」構想の延長に置かれ、国際的な現代美術の最先端の動向を最もよく代弁するとみなされた「近代美術」という批評的枠組みに基いた一連の「企画展」のかたちで実行された。
その結果、国立近代美術館は、評議員会及び運営委員会に属する文化財保護委員会および既成画壇の美術家と、社会教育局とKBS関係の館長・次長及び運営委員会に含まれた批評家との対立が繰り広げられる戦場となった。両者の対立を最も明確に現すのは、「近代美術」の規定をめぐる相反する立場であった。前者は、古美術の延長として既成画壇の「傑作」を位置づけ、それを一種の記念すべき文化財のように取り扱おうとする「傑作主義」であり、それに対する後者は、既成画壇を批判する確固たる批評家としての自覚から「近代美術」という批評的枠組みに基き、現代的「実験」に日本美術の新たな可能性を見出すことだった。既成画壇の美術家の「公共性」を否定しつづけた批評家の「公共性」からすれば、そういう「実験」にこそ、国立近代美術館が追求する「公共性」があるはずだった。しかし、「公共性」を直接的に反映するとみなされる観覧者数値は、「傑作主義」の方が「実験」のそれを遥かに上回ることを明らかに示している。ここに、批評家の「公共性」のディレンマがあった。
そもそも、このディレンマは、既成の「傑作主義」に馴染んでいる観覧者大衆との敵対関係を孕む「前衛美術」、つまり「近代美術」という批評的枠組みに由来するがために、「実験」の立場を固守する限り解消されないはずだが、にもかかわらず、国立近代美術館の批評家たちは、低い観覧者数値と戦いながら「実験」をつづけようとした。そこには、既成画壇の「傑作主義」ではなく、世界的に共通する同時代の感覚を体現した、未来の新しい観覧者への期待が潜んでいた。そして、そういう新しい観覧者を創出することこそ、国立近代美術館の「実験」とみなされた。
「観覧者(=納税者)主権」が唱えられ「近代美術館」の「公共性」の形骸化が広く共有されている現在において、「傑作主義」に安住せず「実験」による新しい観覧者の創出、新しいオルターナティヴな「公共性」を模索した国立近代美術館の「公共性」は、美術及び美術館の「公共性」に関して示唆するところが多いように思われる。たとえその「実験」が多重の矛盾や拮抗を孕むとしても、既成の回路からはみ出された新しい美術の「実験」を擁護しつつ、それに対して能動的に関ろうとする新しい観覧者の創出を実現しようとしたその公共性には、平均化した「観覧者(=納税者)主権」に収斂できないオルターナティヴな「公共性」を活性化し得る可能性が潜んでいるのではないだろうか。そういう意味で、「近代美術館」の「公共性」は、少なくとも今の時点においては、まだ有効である、と言えるかもしれない。