本論文は、1790~1860年代のロシア文学における、カフカス(コーカサス)植民地の表象を分析するものである。以下、目次にしたがって内容を要約する。

序論内部と外部
エドワード・サイード以来のポストコロニアル批評を文学研究に用いる際の争点、また、それをロシア研究に用いる際の争点を、内部と外部という観点から検討する。文学テクストの内/外、「ロシア」の内/外という分割を、「外」の側、「向こう側」へと乗り越えようとする志向が、そこでの趨勢となっている。それに対し本論文は、内/外という分割の「手前」に引き、内/外の分割を可能にする条件を対象とする。文学によって植民地の「現実」がどのように表象=代理されたか、その結果としてのイメージではなく、表象=代理を可能にした条件を分析することが、本論文の課題である。

第1部植民地表象の諸主体
第1章見る主体の変容
本章では、ロシア文学にカフカス・ブームを引き起こしたプーシキン『カフカスの虜』(1822)を挟んで、カフカスを見る主体のあり方がどのように変化したかを検討する。見ること・知ること・語ることという三つの行為の連環は、広義の「リアリズム」的な植民地表象、植民地の「現実」の表象=代理を支えたとされている。その連環の成立条件と変異を追うことが、第1部の目的である。最初に、『カフカスの虜』が自注で引用したデルジャーヴィン「ズーボフ伯のペルシアからの帰還に捧ぐ」(1794)とジュコフスキー「ヴォエイコフへ」(1814)に加え、ヴォエイコフ「友人たちと妻への書簡」(1821)の三つのテクストをとりあげる。後2者は「描写詩」と呼ばれるジャンルの作品であるが、このジャンルは植民地の風景を「ロシア」のものとして描き出すことで、帝国主義とナショナリズムを合一する「帝国的ナショナリズム」に沿う効果をもった。しかしこれらの作品では、植民地を見ることは個人の人生上の事績としてのみ問題であり、見る行為そのものや見られた視覚像は無人称的に語られる。それに対して『カフカスの虜』は、見る行為を主人公の感情と結びつけて個人化し、また無人称的視覚像に抒情的独白を挿入することで、視覚像も間接的に個人化する。プーシキンに続いたレールモントフ、ポレジャーエフの詩においては、見ることの個人化を可能にした抒情的作者が肥大化し、カフカス表象を自己表象の一部と化すが、そのような肥大化の背景には、抒情的作者を支えるメディア環境が危機に瀕したことがあった。

第2章知の主体の変容
本章では、前章に平行するかたちで、カフカスについての知が無人称的なものから個人化されていったことを論じる。西欧のオリエンタル・ルネサンスがロシアに移入され、カフカスものでも「学問性」を誇示することが流行した。オズノビーシン『セラム』(1830)はその顕著な例だが、そこでは18世紀までの博物学的・円環的知が、民族的なものへと変わろうとする。続いてカフカスものにおける注釈に注目し、そこに個人性・「私」がいかに入り込むかを検討する。注釈の知を正当化するためには、円環的知と個人的実体験という二つの根拠が対立的に用いられた。ベストゥージェフ=マルリンスキーのテクストにおいては、円環的知を個人的体験が修正するというかたちで、二つの正当化の根拠が併用される。円環的知の枠組みを流用して、「私」が肥大するのである。彼のテクストは全体が「私」の自己表象として構築され、テクストは人生=行為と等価であり、「私」の「ペルソナ」と化した。彼のカフカス表象の「リアリズム」は、その記述内容ではなく、カフカスに関する知のエキスパートとして、彼の「ペルソナ」が承認されることに拠っている。そうした植民地表象が表象の主体の恣意的構築物であることへの批判的認識が、彼の小説『アマラト=ベク』(1831)には窺える。

第2部植民地と社交界
第3章表象の約束事性とアイロニー
1830年代はロシア文学のメディア環境が、貴族の親密な公共圏から商業的出版へ中心を移した時期である。作家と読者が顔見知りであった環境は失われ、第1部でみた抒情的主体や「ペルソナ」は、そうした切断をカバーするものとして機能した。本章ではプーシキン『エルズルム紀行』をそうした背景から読解する。おびただしい先行テクストの引用・言及からなるこの紀行は、カフカスを、すでにロシア文化の約束事にとりこまれたテクスト空間として表象する。親密な公共圏の文化的約束事にカフカスを積極的に位置づけようとした『カフカスの虜』と違い、『エルズルム紀行』にはそうした約束事性へのアイロニーが濃厚である。ロシア文化のなかでのカフカス表象はロシア文化の約束事性に帰着し、その外部は表象できないという認識がそこには読みとれる。

第4章衣装と真実
本章前半では、カフカスを舞台にしたエレーナ・ガンの社交界小説に、「虚偽」たる文明=社交界と、「真実」たる自然=情熱愛を対置するルソー主義的二項対立が、機能不全に陥るさまをみる。ポイントになるのは芸術の機能の表象であり、芸術はヒロインに「真実」の愛の存在を教えると同時に、誘惑者の「虚偽」に騙されるきっかけを与える。ガンの小説の主張は、社交界の「虚偽」への批判ではなく、「真実」と「虚偽」の二項対立を乗り越えることであり、芸術をモデルに行為することの限界がそこでは描かれている。しかしそれを乗り越える可能性は示されない。後半ではレールモントフ『現代の英雄』(1840)を、この可能性を提示したものとして検討する。そこでは芸術的モデルにしたがって行為することの限界や欺瞞が次々と暴露されるが、社交界小説のように、だから「真実」などないのだという幻滅に終わることはない。「虚偽」の暴露の悪循環に陥った社交界小説に対し、レールモントフは「真実」の居場所を変化させ、いくら暴露されようと明かされえないものという新たな価値づけをそれに与える。

第3部植民地表象と「現実」
第5章個別性と一般性
前章で『現代の英雄』にみた、真/偽の一意的分割を流動化する新たな記号システムが、リアリズム文学の条件となったことを、本章ではベリンスキーの文学理論に検討する。ロマン主義におけるカフカス表象の「リアリズム」が、テクストと人生=行為の等価性に基づき、抒情的主体や「ペルソナ」の行為に依拠するものであったのに対し、親密な公共圏の崩壊によりそうした等価性が失われたあと、「リアリズム」の基盤はテクストの記述そのものへと移る。プーシキンやマルリンスキーのテクストでは、無人称的視覚像や円環的知の枠組みを流用することで個人的主体が顕示されたが、いまやそうした枠組みは喪失され、個人の主観をテクストのなかで正当化する新しい方法が求められる。ベリンスキーの基本的志向である個別性(現象)と一般性(本質)の統合を、本章ではこのような背景から理解する。彼の描写理論において重要なのが「タイプ」という概念であり、それは可視的現象から不可視の本質にさかのぼることで、個別的表象を一般性に接合しようとするものだった。しかしベリンスキーにおいて、「タイプ」の表象はつねに不確実な解釈として捉えられている。むしろその不確実性、本質の不可視性が、描写を駆動するのである。彼の論争相手であったマイコフは、表象の主体と客体の外在的関係を前提とするベリンスキーのモデルに対し、主客を共感関係で結びつけることで、流動性・不確実性を解消しようとした。

第6章表象の「現実性」
本章では初期トルストイのカフカスものを、前章で検討したリアリズム的実践の例として読むとともに、彼の中編『コサック』(1863)を、そのようなリアリズムを相対化し、カフカスものを総括するテクストとして分析する。「襲撃」(1853)「森林伐採」(1855)といった彼の短編は、ベリンスキーのいう外在的観察と、マイコフのいう共感的結合を併用し、主体と客体の距離を伸縮する。このような主観と客観のスパイラルにより、狭義のリアリズムは「事実」を表象したのである。一方『コサック』はロマン主義に典型的なルソー主義を基調とし、同時代にはロマン主義の単なる反復と批判され、20世紀に入ってからはロマン主義のパロディーであると解釈された。本章ではこのテクストを、ロマン主義的「幻想」の「虚偽」を暴露しつつも、にもかかわらずその必然性を描いたものと理解する。「虚偽」がもつ「現実性」を描くこうした捩れによって『コサック』は、真/偽の分割を単に流動化するのではなく無効化する。

結論リアリズムとアイロニー
ロマン主義から(狭義の)リアリズムへ、カフカス表象の(広義の)「リアリズム」の条件が変遷する途上で、プーシキン『エルズルム紀行』とレールモントフ『現代の英雄』という重要な屈折点となったテクストは、いずれもアイロニーを主調とした。結論では、リアリズム=近代文学がアイロニカルなシステムであると同時に、みずからのアイロニーを忘却させるシステムであることを論じ、あらためて『コサック』に、アイロニーとは異なる倫理の可能性をみる。